2016年8月 3日 (水)

ビーナスライン周辺・中山道宿場跡探訪5

6.中山道宿場跡探訪Ⅱ(芦田宿、茂田井間の宿、望月宿)

Img_2936Img_2938Img_2939Img_2941 朝起きたら晴れで蓼科山も山頂までよく見えた。今日は県道40号を下り立科町芦田に向かう。途中の蓼科第二牧場の朝日の丘からは遠く雲の上に浅間山が見えた。さらに進むと長門牧場の入口の乳牛親子のオブジェが見える。長門牧場では200頭の乳牛を飼育しており、多くの乳製品を製造販売し、レストランでは自家製乳製品を使った料理が食べられる。(写真は昨夜泊まったクリスタルチャーチのあるホテルアンビエント蓼科、女神湖からの蓼科山、朝日の丘からの浅間山、乳牛親子のオブジェ)

Img_2945 標高1540mの女神湖から840mを一気に下って標高700mの芦田に着く。立科町役場近くにある芦田中央交差点付近が旧中山道芦田宿の中心地区である。芦田宿は中山道の江戸から二十六番目の宿場で一昨日通った二十七番目の宿場の長久保宿に笠取峠を経て繋がっている。(写真は芦田宿庄屋山浦家の跡地)

Img_2947a_2Img_2948Img_2949Img_2950Img_2951 この宿場は北佐久地方で最古の宿場だそうで、現在残っている旧芦田宿本陣土屋家は寛永12年(1800)に建て替えられたもので、長野県宝に指定されている。(写真は旧芦田宿本陣土屋家入口、解説板、本陣内部の庭、本陣玄関2景)

Img_2946_2Img_2942Img_2944_2Img_2943Img_2957  旧本陣と街道を挟んで脇本陣があったが、火災により焼失し解説板だけが立っていた。近くには金丸土屋旅館という200年前に旅籠として建てられ、現在も旅館として営業を続けている建物がある。また創業明治26年創業の酢屋茂(すやも)という天然醸造の信州味噌と醤油を現在も造っている風情のある建物が建っている。(写真は脇本陣山浦家跡地、金丸土屋旅館2景、同解説板、酢屋茂商店)

Img_2956Img_2953Img_2954Img_2955 また付近には「ふるさと交流館芦田宿」という町の歴史や中山道のこと、立科の四季などを紹介するパネルが展示されているコーナーがあり、広い展示スペースでは写真展が行われていた。(写真はふるさと交流館芦田宿、展示されていた芦田宿の解説パネル、立科町宿場の解説パネル、広重の浮世絵「あし田」「望月」の解説パネル)

Img_0004Img_2959Img_2958Img_2960Img_2961 芦田宿から茂田井間(あい)の宿に向かう。茂田井の部落に入ると直ぐ一里塚跡がある。狭い旧街道は車を止めるところがない。しばらく進むとを行くと少し広がった場所があり、散策マップと茂田井間の宿の解説板が置かれていた。(写真は茂田井間の宿のパンフレット、一里塚、一里塚の解説板、散策マップ、茂田井間の宿の解説板)

Img_2962Img_2963 更に進むと左側に大沢酒造という造り酒屋がある。茂田井には武重本家酒造(明治元年創業)と大沢酒造の.2つの造り酒屋があるが武重本家酒造の明治元年創業(1868)に対し大沢酒造は元禄2年(1689)創業で、320年の歴史があり、代々茂田井村の名主を務めていた。(写真は大沢酒造入口、母屋)

Img_2964 ここには「しなの山林美術館」という美術館がある。今から23年前の平成5年に日本ロマンチック街道を巡っていた時にこの美術館に立ち寄った思い出があり、今回再訪できるのを楽しみにしていた。
 この美術館はこの大沢家出身の大沢邦雄画伯が喜寿になったのを記念して平成元年に開館したのだが、その落成を見ずに大沢邦雄画伯は亡くなってしまったそうである。大沢画伯は第一美術協会長も務めたが、同時に「日本山林美術協会」に所属していたので、そこからこの館名にしたのだろう。(写真はしなの山林美術館入口)

Img_2966_2Img_2967Img_2968 大沢画伯は昭和40~50年代にヒマラヤ遠征に参加し、その後もネパールを毎年のように訪問していたそうで、美術館には山岳美術協会員の作品や親しくしていた画家の作品を含め、ヒマラヤでの作品や甲信の山々の作品が数多く展示されている。開館当初から入館料は無料で、係員もおらず写真もOKなので気軽に好きなだけ鑑賞できる。(写真は美術館内部3景)

Img_2969Img_3006 大沢酒造は「しなの山林美術館」の他に「大沢酒造民俗資料館」を開設して酒造りや街道文化の資料を展示している。その中に元禄2年の創業時の酒が詰められた白磁古伊万里の壺があった。漆で封じられた壺の栓は昭和42年に東京のNHKスタジオで、醸造微生物学の権威である坂口博士という人の立会いの下に280年振りに開栓され、日本最古の酒と評価された。その入れ物を「秘蔵元禄の壺」として展示してある。また創業の元禄2年に善光寺管主の宿になったそうで、前回訪れたときはそれにちなんだ「善光寺秘蔵酒」という酒を買ったが、辛口過ぎて味のふくらみがなかったので今回は「茂田井宿の酒」というあまり辛くないという酒を買ってきたがこれは美味かった。(写真は「大沢酒造民俗資料館入口、茂田井宿の酒)

Img_2970_3 旧中山道から望月側の広い県道148号線に出るところに「中山道茂田井入口」の大きな標識があった。中山道の標識は江戸から京に宿場をたどる人向けになっているのか、芦田の方には茂田井入口の小さな標示しかなかった。(写真は茂田井入口の標識)

Img_0002Img_2971 県道を進むと国道142号線の下を潜り旧中山道の道路になる。そのまま進むと望月歴史民俗資料館への標識があるのでそれに従って進む(小生の車にはナビが無いので)。望月歴史民俗資料館が望月宿の本陣跡である。その隣に「御本陣」という看板が掲げられた大森小児科医院があるが本陣を務めた大森家の子孫の家なのだろう。(写真は歴史民俗資料館入場券、大森家)

Img_2972Img_2976 望月歴史民俗資料館に入る。望月は奈良時代に御料牧場が設けられ、御料馬は満月の日に献上していたので望月の駒として知られるようになった。歴史民俗資料館に馬や人たちが描かれた大きな板絵があった。その後中山道が制定されると宿場町として賑わう様になった。望月宿は八幡宿の次の宿場で江戸から第25番目の宿である。次は茂田井間の宿を経て芦田宿に続いている。(写真は歴史民俗資料館入口、大きな板絵)

Img_2974Img_2975 資料館の中山道望月宿の展示室に水戸天狗党の通行というコーナーがあり、天狗党通過と追討軍の通過によって大きな損害があったという記録を記した「御籾百表」という記録が展示されていた。写真は御籾百表の展示品2景)

Img_2979Img_2982 本陣跡と道路を挟んで鷹野家脇本陣跡の建物がある。江戸時代は問屋も兼ねており前記の「御籾百表」を残した家である。出梁に木鼻彫刻という彫刻が施されている。(写真は鷹野家脇本陣跡2景)

Img_2981Img_2980_3 その他にも望月宿最古の旅籠である「真山(さなやま)家住宅」がある。この建物は大和屋という屋号で問屋と旅籠を兼ねており、明和3年(1766)建設された建物で建築年代が明確であることで国の重要文化財に指定されている。この建物にも木鼻彫刻が施されており現在も住居として使用されているそうである。(写真は真山家住宅2景)

 今回の旅の目的はここで終了し、望月トンネルを経て国道142号線を佐久方面に走る。佐久南ICから中部横断自動車道に入り、上信越道、北関東道を通って水戸に戻り、最後のわが別荘に泊まる旅は終わった。

(この項終り)

2016年7月28日 (木)

ビーナスライン周辺・中山道宿場跡探訪4

5.再びビーナスライン

 御射鹿池から戻り八ヶ岳エコーラインを北上し、芹が沢から茅野から来るビーナスラインに乗る。ビーナスラインはここから蓼科高原を通り白樺湖に続くのである。この道も今まで何回通ったことか‐‐‐。

Img_2901Img_2887Img_2890_11Img_2891  蓼科湖で小休止する。ここにはマリー・ローランサン美術館と蓼科高原芸術の森彫刻公園の二つの美術館があった。というのはこの二つの美術館は「アートランドホテル蓼科」に併設されていたが、2012年(平成24年)「リゾートホテル蓼科」としてリニューアルオープンした時にマリー・ローランサン美術館は閉館してしまったのである。(写真は蓼科湖の標示、蓼科湖2景、蓼科湖越しの彫刻公園)

ImgImg_2895Img_2896 マリー・ローランサン美術館は画家の生誕100年を記念して、1983年(昭和58年)に開館し、ローランサンだけの初期から晩年に至る作品500余点を常設展示していた世界唯一の専門美術館だった。小生が昭和63年に訪れた時は芸術の森彫刻公園はまだ開設しておらず、翌年の開場に備えて北村西望の「将軍の孫」など数点が置かれていたのを思い出す。(写真は当時のマリー・ローランサン美術館の入場券、現在の「将軍の孫」像、その解説板)

Img_29781_2 マリー・ローランサンの展覧会は平成11年(1999)に茨城県近代美術館で開催され、早速見に行ったが、お目当ての「接吻」は展示されなかった。「接吻」はローランサンの代表作の一つで以前はサマセット・モームが所有していたことでも知られていたが、それをアートランドホテル蓼科のオーナーが手に入れたものである。(写真は「接吻」のコピー)


 Img_2892_3Img_2893 マリー・ローランサン美術館は閉館してしまったが、蓼科高原芸術の森彫刻公園はホテルの経営会社が変わったのを機に以前は千円の入場料だったものを茅野市が公園の維持費の半額にあたる1千万円を負担して無料開放しており、蓼科湖側の入り口から入場できる。(写真は彫刻公園入口、ふたりの像後方は蓼科湖)

Img_2899_2Img_2897_3Img_2898Img_2900 この芸術の森彫刻公園は1250mの高原にあり、芝生の広場や森などがある広い敷地(約3万7千㎡)に長崎平和記念像の作者として知られる北村西望の作品を中心にして現在活躍中の作家30余名の作品約70点が展示されており、緑の中をのんびりゆっくり歩いて鑑賞すると気持ちがゆったりと和らいでくる。上記にその幾つかを示す。

Img_2930 蓼科高原から再びビーナスラインに乗り、標高1400mある白樺湖についた。天気は曇りであり、湖畔は閑散としていた。そこから更に北上して標高1540mの女神湖を目指す。今夜の宿泊は女神湖畔のクリスタルチャーチのあるホテルである。(写真はクリスタルチャーチ)

Img_2910Img_2909  ホテルに入る前に女神湖を一周する。南側の女神湖センター入口には女神湖のシンボルとして昭和44年に建てられた女神像がある。湖畔をめぐる遊歩道が整備されており、センター近くの湿地帯には木道が設けられて、季節によっては水芭蕉やコバイケイソウなども見られる。(写真は女神湖の女神像2景)

Img_2916Img_2913_2Img_2917aImg_2912_3Img_2911  湖岸の南側(左側)の道路を湖を見ながら走る。曇天で少し晴れ間がある天候だったが、対岸の森の緑が湖面に映って静かな雰囲気を見せてくれていた。(写真は女神湖の風景5景)

Img_2915Img_2918Img_2927_3Img_2928 女神湖は北側の湖岸からは晴れていれば女(め)の神山と呼ばれる蓼科山の優美な山容を水面に映す高原の湖だが、今日は時折晴れるけれども蓼科山の中腹から上は雲の中である。
 湖畔には鴨の親子が泳いでいるばかりで、他の物音はせず静寂そのものだった。(写真は雲の中の蓼科山、鴨の親子3景)

(以下次号)

2016年7月23日 (土)

ビーナスライン周辺・中山道宿場跡探訪3

3.尖石(とがりいし)縄文考古館

 翌日は今にも雨になりそうな曇天の中を出発する。八ヶ岳高原道路から富士見高原に続く鉢巻道路を行く。続いて八ヶ岳ズームライン、八ヶ岳エコーラインと呼ばれる道路を乗り継いで蓼科高原に近い尖石縄文考古館を目指した。ここには知る人ぞ知る国宝の「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶がある。

 小生もそのことは知っていたが平成元年に別荘を作って以来、なかなか行くチャンスがなく、今回別荘を手放すことにしたので、もう来られないだろうとおもって出かけたのである。ここは尖石遺跡という縄文時代の遺跡があり、宮崎英弐(ふさかず)という人が独力で発掘し日本で初めて縄文集落の全容を明らかにした場所である。

 尖石遺跡は現在特別遺跡に指定されている。そして尖石遺跡を中心にして史跡公園として整備され、そのセンターとして茅野市尖石縄文考古館がある。入館して驚いたのは平成7年に国宝に指定された「縄文のビーナス」以外に昨平成26年に「仮面の女神」と呼ばれる土偶が国宝に指定されていたことと、いずれも撮影自由ということであった。

国宝と名がつけば撮影禁止になるのが普通だと思ったが.ここではどこからでも撮影して良いと云うことなので側面や後方からも撮影した。しかし「仮面の女神」の正面からの写真はブレてしまったので、ほかの画面を流用使用した。

Img_2842_5Img_2843Img_2845_4Img_2848_6Img_2851 「縄文のビーナス」はここから少し離れたところにある棚畑遺跡から昭和61年に完全な形のまま出土したもので、高さ27㎝あり、八ヶ岳山麓の縄文時代中期の特徴をよく表しており、造形的にも優れているなどの理由により平成7年、縄文時代の遺跡から見付かったものの中で初めて国宝に指定された。(写真は正面からの縄文のビーナス、国宝指定書、解説文、側面、背面からの縄文のビーナス)

Img_9246_2Img_2844_5Img_2847a_2Img_2849Img_2850 「仮面の女神」は同じく茅野市の中ツ原遺跡から平成12年に出土した。今から4000年も昔の縄文時代後期の仮面表現を持つ土偶で、 全長34㎝あり顔面に逆三角形の仮面をつけた表現の土偶である。平成26年に国宝に指定された。(写真は正面からの仮面の女神、国宝指定書、解説文、側面、背面からの仮面の女神)

Img_2856_8Img_2853_11Img_2852_10Img_2854_3 ここの遺跡には、ほかにも立派な縄文土器が発掘され展示してあった。完全な形で発掘された「蛇体把手付深鉢土器」という土器や茅野市市役所にある縄文土器型噴水のモデルになった土器などである。ほかにも大きく立派な深鉢など多くの出土品が展示され見ごたえがあった。(写真は蛇体把手付深鉢土器、縄文土器型噴水のモデルになった土器、大きな深鉢3品)

Img_2857Img_2859_7Img_2860Img_2858_6 見学が終わって縄文考古館を出ると雨が激しく降っていた。少し待っていたが降りやまないので、雨の中だったが縄文考古館の近くにある与助尾根遺跡に行く。この遺跡は縄文中期の竪穴住居址28か所が発掘された場所で、6棟の復元住居が建てられている。雨の中の見学だったので、外観だけを見て早々に引き上げた。(写真は雨の縄文考古館入口、与助尾根遺跡2景、解説板)

4.御射鹿池(みしゃかいけ)

 尖石縄文考古館から八ヶ岳エコーラインに戻り、少し北上すると麦草峠に続くメルヘン街道と呼ばれる国道299号線と交差するがその手前に、湯みち街道という奥蓼科温泉郷に通じる街道がある。その湯みち街道に入り曲がりくねった道を進むと奥蓼科温泉郷の明治温泉の手前に御射鹿池というため池がある。

Img_0002 この池は日本画家東山魁夷が昭和57年(1982)に制作した「緑響く」という作品のモチーフになった場所で、2008年に「シャープAQUOS」のテレビCMで吉永小百合が白馬と共に出演して話題になったことで知られている。(写真は東山魁夷の作品)

 東山魁夷はこの作品について「一頭の白い馬が緑の木々に覆われた山裾の池畔に現れ画面を右から左へと歩いて消え去った‎‎——そんな空想が私の心の中に浮かびました。私はその時、なんとなくモーツアルトのピアノ協奏曲の第二楽章の旋律が響いているのを感じました。
 おだやかで,ひかえ目がちな主題がまず、ピアノの独奏で奏でられ、深い底から立ち昇る嘆きとも祈りとも感じられるオーケストラの調べが慰めるかのようにそれに答えます。白い馬はピアノの旋律で、木々の繁る背景はオーケストラです。」と書いている。

 なんとまあロマンチックで夢幻的な感想であろうか!
 なお蛇足ながらモーツアルトは27曲のピアノ協奏曲を作曲しているがよく知られているのは第26番「戴冠式」と最後の第27番である。しかし第27番の第二楽章の方がこの場面にはよりふさわしい曲のように思われる。

Img_2861Img_2870_2 Img_2885_8 この池の水質は強い酸性で水棲生物は生息しにくいので、澄み切った水が保たれているということもあり写真愛好家が多く訪れる。小生が訪れた時も7~8人のカメラマンが来ていた。道路工事中で駐車場が臨時に作られていたがまだ車は少なかった。(写真は訪れた時の手前しか見えなかった画像、霧がだいぶ晴れて来た時、帰る頃の霧が晴れた時の画像)

Img_2865Img_2867_11Img_2869Img_2872  丁度霧がかかって水際以外は殆ど見えなかったが、しばらく待っていると少しづつ霧が晴れて対岸が見えるようになってきた。静かな湖面に森の影が映り静寂そのものの感じだった。(写真は霧の中の対岸の景色4景)

Img_2879Img_2863aImg_2871a_4Img_2876a 霧はしばらく薄くなったり濃くなったりして続き、湖面に移る木陰も光と霧の加減で深い緑になったり淡い色彩のままだったりといろいろな変化のある色合いを見せてくれ、晴れた日とは異なった奥行きのある景観を堪能して池を後にした。(写真は光と霧で変化する対岸の景観4景)

(以下次号)


 

2016年7月17日 (日)

ビーナスライン周辺・中山道宿場跡探訪2

2.ビーナスラインⅠ(和田峠~白樺湖)

Img_2807Img_2803 和田峠からビーナスラインに入り、霧ヶ峰の八島ヶ原湿原に行く。この湿原は同じ霧ヶ峰の車山湿原、踊場湿原と併せて霧ヶ峰湿原植物群落として天然記念物に指定されている。(写真は和田峠のビーナスライン入口、八島ヶ原湿原 ) 

 八島ヶ原湿原は標高1,630mあり、1万2千年前に誕生したと言われる高層湿原である。湿原保護のため尾瀬ケ原の様に湿原内には木道を造らず、湿原内に咲く花々を見るには周囲の木道から双眼鏡などで眺めるしかない。 

Img_2806 八島ヶ原湿原駐車場に隣接して町営の「八島ビジターセンターあざみ館」があって1日4回、1時間のガイドウォークによる湿原散策があるが料金は1,500円/人と高い。夏の湿原にはレンゲツツジ、ニッコウキスゲ、ノアザミ、マツムシソウなど400種類以上の亜高山植物の花が咲くそうである。(写真は八島ビジターセンターあざみ館)
   
Img_2805Img_2804 昭和24年にラジオ歌謡「あざみの歌」が発表された。この歌は作詞をした横井弘氏が昭和20年の終戦により復員し疎開先の下諏訪のこの八島ヶ原湿原で野に咲くアザミの花に理想の女性の姿をダブらせて創った。それを「さくら貝の歌」を作曲した八洲秀章が曲をつけたもので伊藤久男の歌唱によって全国に広がったが、その歌碑がこの八島ヶ原湿原の一画に建てられている。ビジターセンターのあざみ館もそれに因んで命名されたのだろう。歌碑の近くにはヤマツツジが花盛りだった。(写真は「あざみの歌」歌碑、近くのヤマツツジ)

Img_2801Img_2796Img_2800 湿原を見下ろす場所に霧ヶ峰湿原植物群落の大きな標識がある。そこから 八島ヶ原湿原が眺められる。手前に八島池が見える。池端に降りると写生をしている人たちがいた。(写真は霧ヶ峰湿原植物群落の標識、八島池、写生をする人々)

Img_2802Img_2798a 遠くにはガスの切れ目に車山の気象レ-ダ―観測所の丸い部分が見える。木道の近くにアヤメの群落があった。こには霧ヶ峰檜扇文目(キリガミネヒオウギアヤメ)というアヤメが生えているというがこの花がそうなのかは良く調べてみないと判らない。(写真は車山遠景、アヤメの群落)

Img_2795 Img_2794八島ヶ原湿原から霧ケ峰高原の中心部の強清水に行く。今はシーズンオフで人影は少ない。あと1ヶ月も過ぎるとニッコウキスゲのシーズンになり混み合う季節になる。今はレンゲツツジの季節である。(写真は強清水付近の標識2景)

Img_2788Img_2784Img_2785Img_2792  強清水から車山肩と呼ばれる場所に行く。この付近は丁度レンゲツツジが最盛期でコバイケイソウも咲いており、あまり期待していなかったが予想以上に楽しめた。(写真はコバイケイソウとツツジ、レンゲツツジ3景)

Img_2789Img_2787Img_2786Img_2790  遠くに山々はガスが掛かって殆んど見えず、草原の中に点々と咲く赤橙色のレンゲツツジは鮮やかだった。(写真はレンゲツツジ4景)

Img_2783Img_2782 更に進むと霧ヶ峰富士見台(1702m)に出る。ここからの富士山や南・中央アルプスの眺めは素晴らしいと聞いていたが、今日は雲に覆われて近くの集落以外は何も見えなかった。やがて車山高原に着く。(写真は富士見台からの景色、車山高原入口) 

Img_2779Img_2778 車山山頂に行く展望リフトは動いていた。しかし展望は望めそうにも無かった。大門峠に行く途中からの白樺湖の眺めも蓼科山はガスの中だった。(写真は展望リフト、ビーナスライン展望台からの白樺湖)

Img_2908Img_2902Img_2904Img_2903 大門峠に着き、ガスが立ち込める中、白樺湖を一周する。安芸の宮島のように水中に鳥居が建つ景色は初めて眺めた。(写真は大門峠、白樺湖3景)

 

Img_2905Img_2906Img_2907 相変わらず霧が立ち込める中を巡る。人の姿はほとんど見えず、静かな湖畔の眺めが続いた。夕闇迫る中、白樺湖から北杜市八ヶ岳高原の別荘を目指す。
(写真は白樺湖3景)

(以下次号)

2016年7月11日 (月)

ビーナスライン周辺・中山道宿場跡探訪1

 平成28年(2016)6月下旬、5月中旬に引き続き山梨県北杜市付近の旅をした。今回別荘を手放すことにしたものが一カ月延期になったので、別荘の鍵を渡すついでにまたまた名残の旅をすることになった。

 前回は新緑の山梨・長野風景県境の風景について記したが、今回は上信越道東部湯の丸ICで降りて長和町の中山道長久保宿、和田宿を観て、そこから和田峠に出てビーナスラインを通り大門峠まで行き、茅野ICから北杜市の別荘に行くことにした。

 翌日は八ヶ岳エコーラインを通って縄文のビーナスで知られる尖石(とがりいし)縄文考古館を見学し、湯みち街道を奥蓼科温泉卿にある御射鹿(みしゃか)池に行くことにした。

 その後、再びビーナスラインを蓼科湖から白樺湖まで行き、そこから女神湖畔にあるホテルに泊まる予約をした。最後の日は立科町の芦田宿、佐久市の茂田井宿、望月宿を見て帰宅する計画である。
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1.中山道宿場跡探訪Ⅰ(長久保宿、和田宿)

 前回同様朝6時10分に水戸の家を出て東部湯の丸ICに9時50分に着く。県道81号から国道152号に出て「マルメロの駅ながと」で案内所を貰い道順などを聞く。「マルメロ」とは花梨と混同されるが花梨は堅くて食用にはならず「マルメロ」はゼリーやジャムなどで美味しく食べられるそうである。ここの街道筋に多く植えられているので道の駅のその名前をつけたとの事、マーマレードの語源はマルメロの砂糖漬けなのだそうである。

 中山道は東海道と共に江戸日本橋から京五条大橋を結ぶ江戸時代の幹線道路である。東海道53次に対し中山道は69次あり、全長約534kmで東海道約488kmより46km長い道程である。東海道とは草津宿で合流し京都手前の草津宿、大津宿は東海道と共有である。

 中山道の宿場には坂本宿から碓氷峠を通り軽井沢宿へ、追分宿から小田井宿へ、茂田井宿、鳥居峠から下諏訪宿へ、福島宿、妻籠宿から馬籠宿へは行ったことがあるが、今回行く予定の長久保宿、和田宿、芦田宿、茂田井宿、望月宿は茂田井宿を除いて初めてである。どの宿場も現在の国道から少し入った場所にあるのでその宿場に行く目的が無ければ見過ごしてしまう。

Img_2765Img_2764Img_2763Img_2767 長久保宿は中山道六十九次の内、江戸日本橋から二十八番目の宿場である。その中央付近に長久保宿歴史資料館「一福処(いっぷくどころ) 濱屋」がある。明治初期に旅籠(はたご)として建てられたが中山道の交通量が減ったため開業せず住宅として使用されていた。(写真は一福処 濱屋入口、表の腰掛で談笑する地元の人達、土間にあるのれん、説明板)

Img_2775Img_2754aImg_2757Img_2758 総二階建て、一階より二階部分が突き出ている「出梁(でけた)造り」または「出桁造り」という建て方である。(写真は脇から見た「出梁(でけた)造り」、長久保甚句の版画、解説板2件)

Img_2760Img_2756aImg_2759Img_2762 現在は歴史資料館と宿跡を訪れる人の休み処になっており、建物の中には中山道や長久保宿の資料や駕籠などが陳列されている。(写真は解説資料2件、駕籠、酒をお燗するチロリと小型の長火鉢)

Img_2770Img_2768Img_2769 近くには旧本陣を初めとする古い建物が何軒か残っている。旧本陣は現在も住居になっているので内部は公開されていない。その隣には高札場が置かれていた。(写真は旧本陣、仝解説板、高札場)

Img_2772Img_2771Img_2773Img_2774Img_2777 他には本うだつがあり、酒造業を営んでいた釜鳴屋、宿場問屋・小林家、天保年間に建てられた旅籠の古久屋、江戸時代末期に建てられた出梁造りの大きな辰野屋という旅籠などが残されている。(写真は釜鳴屋正面、解説板、問屋、古久屋、辰野屋)

Img_2761Img_2823Img_0001 長久保宿の次の宿場が中山道の最高地点で最大の難所といわれた和田峠(標高約1600m)を控えた和田宿であり、長久保宿と同じ長和町にある。(写真は和田宿と長久保宿の紹介、和田宿の浮世絵と民謡、和田宿の観覧券)

Img_2820Img_2817Img_2818 この宿場は文久元年(1861)3月に本陣を始め宿場の大半が火災で焼失してしまった。しかしその年の11月に皇女和宮の御下向が控えていたため、幕府から多額の金子を借り入れ町並みを復興させている。皇女和宮の下向行列は2万5千人といわれ、1ヶ所の宿場を4日掛かりで通過したそうである。当然足軽などは宿屋には泊まれず筵1枚の野宿だったろうが、旧暦11月ではさぞ寒かったろうと思われる。本陣には武士が入出する冠木門があるが皇女和宮のために公家様式の御入門が造られた。(写真は本陣冠木門、本陣御入門、御入門の解説板)

Img_0003Img_2825Img_2824 和田宿では旧本陣が国の史跡に指定され「歴史の道『中山道』資料館」になっている。皇女和宮が宿泊した御殿は上田市に移築されており、母屋だけであるが現存する本陣の建物では最大級であり屋根に1600個以上の置き石がある栗板葺屋根は日本一の規模とされている。建物の中には中山道や皇女和宮下向に関する資料が多数展示されている。(写真は御入門と本陣の建物、中山道宿場マップ、和宮下向日程と人数)

Img_2821Img_2822Img_2826Img_2827 また当時使用していた駕籠や十返舎一九の道中記「和田峠の段」、浅野次郎の「一路」のサインなどが展示されていた。十返舎一九は東海道中膝栗毛の後、「木曾街道 続膝栗毛」という本を書いており、その内和田峠のページを拡大して展示してあった。(写真は駕籠2景、十返舎一九の道中記の一部、一路のサイン)

Img_2838Img_2833Img_2834Img_2836 近くには同じく「歴史の道資料館」になっている「かわちや」という出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構がある。(写真はかわちや2景、解説板、囲炉裏から見た室内)

Img_2831Img_2832Img_2828Img_2839 また大黒屋という大型旅籠や羽田野という門付旅籠の遺構など、数件の江戸末期の建物が残されている。両者とも出桁造りである。(写真は大黒屋2景、羽田野2景)

 国道142号線を和田峠に向かって上って行くと新和田トンネルに続く和田峠バイパスへの分岐点に出る。新和田トンネルは通行料600円である。従来の国道142号線は急坂を上って行くがその途中の接待という場所にに国史跡の永代人馬施行所がある。

Img_2808Img_2809Img_2810 ここは江戸のある呉服商が中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと幕府に寄付した金子を基にして、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に設けられた施行所であり、11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には一年中桶一杯の煮麦を明治3年まで施していたものを、復元してある。写真は永代人馬施行所外観、説明板、施行所内部)

Img_2816Img_2815Img_2807 付近には「歴史の道中山道」の標識があり、中山道の解説案内板と共に、昔の細い中山道の小道が続いている。 更に国道を上るとビーナスラインの分岐点に出る。ここからビーナスラインに入り、ビーナスライン和田峠から霧ケ峰を目指した。(写真は史跡中山道の表示、中山道の解説板、ビーナスライン和田峠の表示)

(以下次号)

2016年5月30日 (月)

新緑の山梨、長野県境の風景2

Img_2647Img_2648 翌日、別荘内部の整理をした後、時間があったので富士見坂に行き甲斐駒と北岳を眺めた。ここからは晴れれば富士の全景が見渡せるのだが、あいにく富士は雲に隠れて見えなかった。その後、北杜市ガイドマップにあった「やまなしの木」を見に八ヶ岳高原ラインを通り、山梨県立「まきば公園」に行った。(写真は富士見坂からの甲斐駒、北岳)

Img_0001Img_2649Img_2651 「やまなしの木」は果実が食べられる和ナシの野生種で、ニホンヤマナシとして自生しているものだそうである。山梨県のシンボルとして「やまなしの木」があるのかと思ったが、インターネットで調べると長野県の野辺山高原にある海ノ口牧場の「山梨の木」の方がドラマのロケに使われたりして野辺山高原のシンボルとして有名なのだそうである。そのせいかガイドマップには写真だけで詳しい説明は無かった。白い花が咲くのだが、ゴールデンウイーク明けが満開だったそうで、もう若葉になっていた。 「やまなしの木」の根本の木陰で羊の群れが草を食べていた。(写真はガイドマップの表紙、やまなしの木、羊の群れ)

Img_2652Img_2656 山を見上げると牧場の柵のはるか先に八ヶ岳の最高峰赤岳がその大きな山容を見せている。反対側には遥か先に奥秩父の山々が見渡せた。やまなしの木の先にある一番遠く高い山容が奥秩父の盟主金峰山である。(写真は赤岳、やまなしの木と遠く奥秩父の山並み)

Img_2661Img_2662Img_2663 「まきば公園」から八ヶ岳の赤い橋として紅葉の素晴らしさで知られている「東沢大橋」や「清泉寮」に行く。清泉寮の売店には高校生が並んで名物のソフトクリームを食べようと待っていた。近くにはミツバツツジが花盛りだった。売店前の牧場の先には甲斐駒から鳳凰三山に続く尾根や、その後ろに北岳から農鳥岳に続く白根三山が見える。(写真は東沢大橋、清泉寮のミツバツツジ、清泉寮前の牧場と南アルプスの山々)

Img_0003 国道141号線を須玉に向かって走り「南八ヶ岳花の森公園」に行く。ここには10年以上前に訪れたことがあったが、北杜市ガイドマップに鯉のぼりとシバザクラがきれいだと紹介されていたので立寄ることにしたのである。(写真は花の森公園のパンフレット表紙)

Img_2664Img_2675Img_2666 「南八ヶ岳花の森公園」は道の駅「南きよさと」が入り口で、そこから「こいのぼり号」というリフトカーで高低差100メートルを上った所にある。料金は往復で350円である。到着した地点に花壇があり、その先には八ヶ岳の赤岳が見える。(写真はリフトカー2景、花壇と赤岳)

Img_2667Img_2669Img_2670Img_2671 鯉のぼりやシバザクラは終わってしまっていて、咲いている花はオオテマリ、ルピナス、あやめ位だった。(写真はオオテマリ、ルピナス、あやめ2景)

Img_2674 ゴールデンウイークはリフトカーに乗るのに長い列ができたそうだが、今回は自分以外に乗る人は居らず、添乗の小母さんと世間話をしながらの往復だった。シバザクラは雑草に負けて殆んど無くなってしまったそうである。  ゴールデンウイークや夏休みなどのさくらんぼ狩り、ラベンダー狩り、夏野菜収穫などの親子の収穫体験がメインの様で、広い公園内は雑草を取る人手が足りず「花の森」の名前負けしているようだったが、所々に可愛い花壇が設けられていた。(写真は円形の花壇)

 翌日は小淵沢ICから諏訪ICまで行きメルヘン街道を通り、白駒池に立ち寄って帰ることにした。天気は薄曇りである。中央道の富士南IC近くにある富士見峠が従来高速道路最高地点(1015m)だったが、東海北陸道が出来て荘川ICの先にある松の木峠が現在の最高地点(1085m)になり2番目である。またこれから行く国道299号線(メルヘン街道)の麦草峠(2127m)も国道292号線(志賀草津道路)の渋峠(2172m)に次ぐ国道第2の高所にある。

Img_2691Img_2688Img_2690 Img_2692諏訪ICからしばらくはビーナスラインと同じ道だが途中から分かれてどんどん高度を上げて行く。メルヘン街道は100m高度があがる都度標高を書いた標識が現れる。標高が高くなるにつれ落葉松などが青葉から若葉に変って行った。(写真はメルヘン街道の標識で下の三角形の標識に標高が書いてある、落葉松林3景)
Img_2694Img_2696Img_2695Img_2698 標高2127メートルの麦草峠付近では青森とどまつなどの常緑樹以外はまだ芽吹いたばかりだった。峠には麦草ヒュッテという宿泊休憩施設がある。(写真は麦草峠付近の落葉松林、麦草峠標識、麦草ヒュッテ2景)

Img_2699Img_2700Img_2701Img_2702 麦草ヒュッテを過ぎるとすぐ国道に最高地点の標識がある。そこから5分ほどで白駒池入口の駐車場に着く。白駒の森という林を通り約15分位で白駒池まで行けるというマップを貰う。(写真は国道にある標識、白駒の池入口の標識、白駒の森2景)

Img_2712Img_2713Img_2715Img_2714 苔と原生林の森が続く。ここの苔は「カギカモジゴケというのだそうである。日本3大原生林の一つといわれる原生林はコメツガ、シラビソ、トウヒ(エゾマツ)などが生えている。(写真はカギカモジゴケの解説板、解説板のついたコメツガ、同じくオオシラビソ)

Img_2711Img_2704Img_2705Img_2706Img_2710 白駒池は10年ほど前に訪れたことがあるが、その頃と殆ど変らない風景だった。ここは海抜2100mを超える湖としては日本最大であり、秋の紅葉は素晴らしいという事だが未だ秋には来たことが無い。池を一周する小道があり約40分で一周できるそうである。(写真は白駒池5景)

Img_2716Img_2717Img_2719Img_2720Img_2721 白駒池からメルヘン街道を更に八千穂高原に向かって進むと、周りの落葉松林は若葉のしっとりとしたみずみずしい色彩に変って来る。白樺林も同じく若葉の風情である。やがて来る時に訪れた「ふるさと」に着く。今日は浅間は見えないが、新緑の落葉松林が心を慰める。道は佐久へと続き、上信越道から北関東道を戻り水戸に帰着した。(写真は若葉の落葉松林4景、若葉の白樺林)

(この項終り)

2016年5月29日 (日)

新緑の山梨、長野県境の風景1


 平成28年(2016)5月中旬、長野県佐久市から山梨県北杜市を巡る旅をした。八ヶ岳山麓の北杜市大泉町に昭和63年に建てた別荘があるが、今回手放すことにしたため名残の旅であり、新緑を愛でる旅でもある。。

Img_2678 平成21年頃までは首都高速から中央道を通って2ヶ月に1回くらいの頻度で八ヶ岳山麓迠行っていたが、外環道が出来てから混み合う首都高速を避けて関越道、上信越道を経由して行く様になった。更に平成23年に北関東道が全線開通してからは、のんびり北関東道から上信越道を経由して行く様になった。しかし80才を超えると八ヶ岳山麓は遠く感じるようになり、せいぜい年間1回から2回しか行かず子供達もあまり利用しないので、手放すことにしたのである。(写真は小生の別荘)

 今回は別荘内の整理を兼ねて久しぶりに新緑の風景を見ながらの旅である。水戸の家を朝6時に出て北関東道水戸南ICから上信越道の佐久小諸JCTから未だ無料で走れる中部横断道の佐久南ICに9時30分に到着する。そこから国道141号を南下するのだが、今回は新緑を求めて途中の佐久穂町で国道299号線(通称メルヘン街道)に入り八千穂高原駒出池に向かった。

Img_2595Img_2590 八千穂高原は標高1500メートルの高地にあり、そこにある白樺純林は日本一美しい白樺群生地と云われ、秋の山モミジの赤と白樺林の幹の白さ、青い空が混然一体となって素晴らしい景観を見せてくれる。小生のブログ、HPでも何回か紹介している場所である。(写真は駒出池の風景2景)

Img_2591Img_2593Img_2594 その最初に訪れるのが駒出池である。この場所は訪れる人が少なく、何時行っても静寂に包まれた池は周りの木々を池面に映し、同時に湖面に映る青い空と相まって湖畔に腰を降ろしていると時が過ぎるのを忘れさせ、心を穏やかにしてくれる場所である。(写真は駒出池3景)

Img_2603Img_2604Img_2605Img_2607 駒出池を過ぎるとやがて右折して見渡す限り白樺純林が連なる場所に出る。イメージしていた風景は白樺が若葉で萌黄色に霞んで風景だったが今年は更に葉が開いて若葉より青葉の風景になっていたが青空と白い白樺の幹は変わらぬ姿を見せてくれていた。(写真は八千穂高原の白樺林4景)

Img_2610Img_2723Img_2725 秋の山モミジの代わりに関東(東国)ミツバツツジがあかむらさきの花を咲かせ彩りを添えていた。(写真は白樺とミツバツツジ3景)

Img_2613Img_2614Img_2615Img_2601 八千穂高原には駒出池の他に八千穂レイクというため池があり、灌漑に利用されているが一方ニジマス、岩魚などが放流されておりフィッシングでも有名である。釣用に9ヶ所の桟橋があり、普通の靴で行ってもそこから毛バリを使ったフライフィッシングが楽しめる。また冬は全面結氷し厚い氷が張るので氷上走行会が開催されるとのことである。(写真は八千穂レイク4景)

 ソフトクリームを食べながら管理人の話を聞くと、ゴールデンウイークの一週間後が新緑の見頃だったとかで、以前より一週間ほど季節が早くなっていると言っていた。

Img_2617Img_2620 八千穂高原をすぎて更に進むと松原湖方面への分岐点に「ふるさと」という休憩所がある。この付近一帯は「ふるさとの森」という植林地帯だそうで、そこから付けられた名前である。標高1700メートルの地点にあり、晴れれば浅間山や佐久方面が一望できる場所である。幸い素晴らしい晴天に恵まれて、新緑の落葉松林の先に浅間連峰が良く見えた。またこの場所はレンゲツツジの群生地で、もう少し後になると白樺林の中に咲くレンゲツツジが楽しめる。(写真は「ふるさと」からの浅間2景)

Img_2625Img_2621Img_2624Img_2627_2 「ふるさと」から国道299号線と別れて松原湖に続く高原道路の県道を下りて行く。約20分ほどで松原湖畔に着く。振り返れば松原湖の先には天狗岳を始めとする残雪の北八ヶ岳が見渡せる。(写真は松原湖4景)

  ここは標高1123メートルで冬は全面結氷し、以前は雪が少ないこともあり天然のスケート練習場として利用された。現在はわかさぎの穴釣りのメッカとなっている。この場所も静寂そのものであり、暫しの休憩を楽しんだ後国道141号に戻った。

Img_2628Img_2630Img_2633 国道141号を更に南下して長い急坂を上がると眼前に雄大な八ヶ岳が姿を表わし、野辺山高原に出る。標高2899メートルの主峰赤岳を中心にした南八ヶ岳の山麓には広大な高原野菜の畑や新鮮な牛乳を作る牧場がある。その一つの滝沢牧場に立ち寄る。中学生の子供たちが大勢来ていた。(写真は野辺山高原からの八ヶ岳[左から赤岳、横岳,硫黄岳]滝沢牧場からの八ヶ岳2景)

Img_2639Img_2640Img_0002 高原列車で知られるJR野辺山駅はJRで最も標高が高い駅である。JRの最も標高が高い地点(海抜1,375m)も野辺山高原にありその近くのレストラン最高地点で八ヶ岳の各峰を箸入れに印刷してある名前と対比しながらざるそばを食べた。(写真はレストランからの八ヶ岳2景,レストランの箸入れ)

Img_2641Img_2642Img_2643Img_2644 野辺山から八ヶ岳高原大橋を通り北杜市大泉町にある別荘に行く。八ヶ岳高原大橋から八ヶ岳、南アルプスの甲斐駒、富士山の次に高い北岳がきれいに眺められた。(写真は八ヶ岳高原大橋から八ヶ岳、赤岳と阿弥陀岳、甲斐駒、北岳)

(以下次号)

 

2016年4月18日 (月)

国営ひたち海浜公園でネモフィラを見る

 平成28年(2016)4月15日(金)水戸市の自宅から20分ほどの距離にある国営ひたち海浜公園のネモフィラを見に行った。

 国営ひたち海浜公園では四季を通していろいろな花が見られ、特にみはらしの丘をライトブルーの花で覆いつくす「春のネモフィラ」と「真っ赤に染め上げる秋のコキア」は日本一といわれている。

 殊にネモフィラは「死ぬまでに行きたい!世界の絶景」の一つとして選ばれたということで人気が高まり、満開時の土日は4,350台の駐車場が一杯になってしまうらしい。

 茨城に住んですぐ近くにある場所なので、一度は行ってみようと金曜日の朝、開園時間の9時30分に間に合うように出かけた。

 国営ひたち海浜公園では「春のフラワリング」としてスイセン、チューリップ、ネモフィラが次々と開花していくフラワーリレーとして「スイセンファンタジー」「チューリップワールド」「ネモフィラハーモニー」と銘うって周遊できるようにしてあった。

 当日は晴天に恵まれ、スイセン、ネモフィラ、チューリップの順路に従って巡って来たので、その内容をYou Tube で紹介する。

2016年4月 8日 (金)

平成28年水戸市六地蔵寺のしだれ桜

 今年の春も水戸六地蔵寺のしだれ桜を見に行った。

 以前は4月8日の灌仏会の日がちょうど満開で、甘茶の接待を受けながら桜を愛でるのが楽しみだったが、ここ5~6年前から3月末ごろが満開になり、今年も3月29日に行った時には殆ど満開だった。

 六地蔵寺のしだれ桜については以前に

 

水戸市六地蔵寺しだれ桜20年間の変遷  と云うブログをアップしたが、今回はYou tubeでアップした。好天に恵まれた素晴らしい桜をじっくり鑑賞してください。

2015年12月28日 (月)

九州よかとこ周遊 (3)

第3日目 菊池温泉-柳川(どんこ船・うなぎのせいろ蒸し)-秋月城跡-大宰府天満宮

 菊池温泉の朝は昨夜からの雨が降り止まず、朝8時半に雨中の出発である。九州自動車道の植木ICから、みやま柳川ICまで乗る。インターを下りてから20分ほどで柳川市の御花という場所に着く。

Img_2192 柳川市は水郷柳川と言われるように市内を堀割が縦横に流れており、どんこ船と呼ばれる小舟で堀割を巡る観光ルートがある。また北原白秋の出身地である。戦国時代後期に立花宗茂が領主になり柳河城に入ったが関ヶ原の戦いで、西軍に与したため所領を没収され浪々の身になった。が、其の後徳川家康に見出され再び旧領柳河に返り咲き、以後明治まで立花氏が藩主になっている。(写真は掘割)

Img_2188a この立花氏4代目の藩主が花畑と云う名のこの地に別邸を設け休息の地とした事から立花家を御花と呼ぶようになったとのことである。その後明治になって現在の建物が新築され、明治建築を代表する建物と云われるようになった。また松濤園と名付けられた200年以上の樹齢の松を280本有する庭園は名庭園として知られており、両者合わせて国の名勝になっている。またうなぎのせいろ蒸しが柳川の名物料理という事で、どんこ船に乗った後、うなぎの昼食を食べるスケジュールである。(写真は柳川御花正面の西洋館)

Img_2189Img_2190Img_2193aImg_2220_2 Img_2195雨が降り止まないため、合羽を着て約20人づつ2艘に分かれてどんこ船に乗る。城門観光という会社の船である。きっぷのいい兄さんの船頭が竹竿一本で船を漕ぐ。小雨の中を周りの景色を見ながら進む。川べリには食事処や旅館などが並んでいる。(写真は舟下り乗り場付近2景、船頭と船に乗った乗客たち、沿岸の建物2景)

Img_2196Img_2198Img_2201Img_2204Img_2205 水面すれすれに松の枝が伸びている「出逢い橋」を潜り、なまこ壁の建物がある沖の端橋から引き返す約30分の船旅である。(写真は舟下り5景)

Img_2208Img_2209Img_2217Img_2222Img_2223 船頭は白秋の慌て床屋の歌を歌ったり、柳川の舟唄を歌ったりと大忙しである。通常の船旅の時間はおよそ4キロを約70分かけて巡るのだそうだが、あちこち見に行くツアー客は時間も距離も短い。(写真はすれ違う船、船頭、アベックの船、橋の下を潜る船、船着き場近くの風景)
Img_2194 どんこ船の川下りの後は早めの昼食で、乗り場近くにある「うなぎ屋本店」という店でうなぎのせいろ蒸しを食べる。昔から有名な柳川鍋は土鍋にさかがきごぼうを敷いてどじょうを入れとき卵をかけて煮るものだが、現在はうなぎのせいろ蒸しが柳川の名物になっている。(写真は掘割から見た食事処)

Img_2224 うなぎ料理といえばうな重やうな丼が一般的だが、せいろ蒸しとは、タレを絡めて味付けしたご飯の上に蒲焼きにしたうなぎ、錦糸玉子を乗せせいろで蒸したもので、うなぎの旨味を蒸すことによりご飯に染み込ませ、最後まであつあつのまま食べられるように考えられたもので、約300年前から作られているそうである。10時半ごろなので、あまり食欲は無かったが、食べ始めてみるとうなぎのの味が沁み込んだあつあつのご飯がとてもおいしかった。(写真はうなぎのせいろ蒸し)

Img_2226Img_2231Img_2232Img_2233Img_2235 食後、近くにある「旧柳河藩主立花邸 柳川御花」を駈け足で覗いた。松濤園という名の庭園は280本の背の低いクロマツに囲まれた大海を表わす池に二つの島と多数の岩島を配しており、おおらかで優美な庭園として昭和53年に国の名勝に指定されている。(写真は御花入口、松濤園4景)

Img_2191Img_2228Img_2236 建物は大広間や西洋館などが並んでいる。また敷地内に立花家資料館があり、初代藩主 立花宗茂が着用した甲冑などが展示してあった。(写真は柳川御花の西洋館、座敷の内部、立花家資料館入口)

 11時過ぎに柳川を出発し、みやま柳川ICから九州自動車道、大分自動車道を行き甘木ICで降り、国道322号線を秋月に行く。12時20分頃朝倉市秋月に着いた。秋月は鎌倉、戦国時代にこの地の領主だった秋月氏が築いた秋月城という山城跡がある。関ヶ原の戦いの後、黒田家の支藩になり5万石の城下町として栄えた。現在も古城の表門だった黒門や5万石時代の長屋門が残っており、石垣や堀、武家屋敷なども残っている。春の桜、秋の紅葉の名所としても知られており、筑前の小京都と呼ばれている。

 添乗員に従って駐車場から秋月城跡に続く「杉の馬場」という直線の道路を進む。秋月城への登城道だった所で、江戸時代は馬術の稽古にも使われ、杉の大樹が沢山あったのでそう呼ばれていた。現在は桜並木になっており、春は美しい桜のトンネルの名所になっているそうである。

Img_2237Img_2238Img_2239 「杉の馬場」の入り口の野鳥橋を渡る。ここも少し紅葉が始まったばかりである。橋を渡ると左手に藩士の屋敷跡に秋月郷土館があり、秋月黒田家の武具、什器などが展示されているというが時間が無いのでそのまま行き過ぎる。(写真は野鳥橋、その下の川の風景、秋月郷土館)

Img_2259Img_2258a やがて同じく左側に石垣や堀跡が見られるようになる、秋月城は陣屋形式の小さな城で、城跡は現在中学校になっている。(写真は堀と石垣、秋月の由来を記した陶板)

Img_2256Img_2242aImg_2243Img_2241Img_2257 大手門(通称黒門)が垂裕(すいよう)神社の山門として移築されている。また奥御殿に至る長屋門が唯一原位置に残っていて黒門と共に県指定史跡になっている。(写真は垂裕神社の鳥居、垂裕神社拝殿、垂裕神社本殿、垂裕神社由来記、長屋門)

Img_2249Img_2253Img_2250Img_2255 黒門の付近はモミジが多くあり、門の黒と紅葉の赤が良く映えて素晴らしい景観になるそうだが、今回はここもまだ1週間くらい早く、見ごろには程遠かった。(写真は黒門2景、黒門付近の紅葉、杉の馬場道路の奥)

Img_2269Img_2260Img_2261Img_2262Img_2263 帰路は少し離れた場所にある秋月武家屋敷久野(ひさの)邸を訪れた。初代の秋月黒田家に仕えた上級武士の屋敷で、回遊式庭園は秋月名園の一つとされている。((写真は久野邸5景)

 秋月は全体として静かな雰囲気に包まれ、お堀や石垣を眺めながら散策するだけで落ち着いた気分になる。もっと近くにあればまた行きたい場所である。

 秋月を13時30分に出発した。残るは太宰府天満宮だけである。国道322号線から366号線に入り45分後の14時15分に着いた。

Img_2270Img_2272 太宰府天満宮の祭神は言わずと知れた菅原道真公である。平安時代に右大臣であった菅原道真は当時の左大臣藤原時平の陰謀によって九州筑前国大宰府に左遷され、3年後の延喜3年(903)に亡くなった。その頃都では疫病や異常気象が相次ぎ、時平も延喜9年(909)に39才の若さで亡くなったこともあり、道真の怨霊による祟りと噂された。
 その御霊を鎮めるために時平の弟である藤原仲平が天皇の勅を奉じて大宰府に下向し、道真の墓所の上に社殿を造営したのが天満宮の始まりである。道真はその後


太政大臣を追贈されており、やがて学問の神として信仰されるようになったのである。(写真は参道入口の大鳥居と参道の先にある一の鳥居)

Img_2274Src_149346151Img_2275Img_2276 天満宮の参道を登りつめた一の鳥居の手前を右に曲がると光明禅寺という寺院がある。この寺は「苔寺」とも呼ばれており、「一滴海庭」という名の庭園は石組や苔を島と大陸に見立て、水を表わす白砂が東から西に流れて大海となる風景を描いたもので、特に紅葉の頃が素晴らしく、昭和32年(1957)に重森三玲という作庭家が以前あった庭に手を加えたもので、九州随一の枯山水庭園なのだそうである。(写真は光明禅寺入口、説明板、、「一滴海庭」の庭2景)

Img_2278Img_2279Img_2283Img_2281Img_2277 ここも紅葉には早かったが雨に濡れる庭園の景色はゆっくり眺めたいと思わせる雰囲気がある。(写真は、「一滴海庭」の庭5景)


Img_2307Img_2288 天満宮一の鳥居に戻ると正面に御神牛の像がある。道真が亡くなりその遺骸を牛車で運んだところ、牛が伏して動かなくなったので、その場所に遺骸を葬って墓所にしたことから牛の像が置かれているのである。その近くに、京を出る時紅梅殿の梅に別れを惜しんで詠じた「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」の歌碑がある。(写真は御神牛の像、道真の歌碑)

Img_2286Img_2289Img_2294Img_2295 参道は御神牛の像の前から左に折れて心字の池に架かる過去、現在、未来を表わす太鼓橋、平橋、太鼓橋の三橋を渡り楼門を潜る。(写真は太鼓橋手前の鳥居、太鼓橋、楼門2景)

Img_2299Img_2304Img_2303 正面に本殿があり、その右側に御神木「飛梅」がある。先ほどの紅梅殿の梅が道真を慕って飛来したものとされている。(写真は天満宮本殿、御神木「飛梅」、飛梅の解説板)

Img_2298Img_2301Img_2271Img_2308Img_2310 本殿に参詣する頃から雨が激しくなった。しばらく本殿前の懸崖菊などを眺めてから参道に戻り、名物の「梅ヶ枝餅」を買って、舞妓さんの艶姿を見ながら16時15分に天満宮を後にし、途中土産物屋に立ち寄って福岡名物の「明太子」を買い、福岡空港に17時15分に到着した。空港でもイルミネ―ションが壁面を飾っていた。(写真は激しい雨の本殿、本殿前の懸崖菊、「梅ヶ枝餅」の販売店、ラーメン屋の前の舞妓、福岡空港のイルミネーション)

Img_2311 食事をして定刻より30分遅れの19時15分発のスカイマークに乗り、茨城空港に21時到着である。今日は終日雨の中の行程だった。(写真は福岡空港の全日空機、食事処の灯りが写っている)

 第3日目は柳川どんこ船○、柳川うなぎのせいろ蒸し○、秋月城跡○、大宰府天満宮△ である。


 今回の九州北部の旅行では季節限定のツアー旅行の不安定さをまざまざと見せつけられた思いがする。今迄もツアー旅行に参加した事は数えるほどで、最近では一昨年(‘13)9月の四国への旅、今年(‘15)4月の近畿への旅しかない。今春の近畿への旅はたまたま吉野山や姫路城の桜が満開の時で充分満足したが、今回は九州の紅葉すべて外れだったのでただ行ったという事だけで終わってしまった感じである。

 グルメの方も関サバは期待はずれだったし、イカの生き造りとうなぎのせいろ蒸しも昼食だったので落ち着いて食べて居られず中途半端な感じだった。ツアーを企画する担当がお客本位で考えなくなってしまったのかと思わずにいられない。

 しかしこれが紅葉の真っ盛りに巡り逢えたら今回の旅行は素晴らしい思い出として心に残ったのだろう。見方を変えてみれば今回の旅行は九年庵や深耶馬渓、柳川、秋月城跡と普通のツアーではなかなか行けないところに連れて行って貰えたという事で以って瞑すべきなのかもしれない。

(この項終り)

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