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2016年8月21日 (日)

本をつくる(その2)

3.原稿の編集と印刷

 材料の準備名などと同時に原稿の作成は進めていたが、ワードによる書類作成はブログ、ホームページも含めて左から右への横書きがほとんどだった。それを単行本と同じにするために右から左、縦書きに変換するところから編集がはじまる。写真の掲載位置の修正やページの付け方などはワードの機能で出来るのは知っていたが、目次のページを半角で表示すると横向きになってしまい、それを修正するには「縦中横」という処理をするということは教えられて初めて知った。

 また一番上部の「ファイル」、「ホーム」などの並びにある「表示」を開いて「ナビゲーション ウィンドウ」にチェックマークを入れると見出しが表示され、見たいページがすぐ出てくるなど便利な機能がある事などを教えられ、ワードが単なるワープロでは無く、いろいろな技が出来る事が分かった。

Img_2 印刷をするに当たっては順番を決める必要がある。つまりA4の用紙裏表1枚にA5の文章や写真を4ページ分印刷し、それを4枚16ページをワンセットにして1折丁というのだが、ページはA4、4枚の用紙をセットした時に順番になるようにしなくてはいけない。即ち図の様に1枚目は表に16ページと1ページ、裏に2ページと15ページというように指定して行くのである。(写真はページの入れ替え順序)

Img_2751 そのようにして190ページ分は12折丁分をそれぞれページ付けをして印刷していくのである。なお、とびらや目次のようにページをつけない方が良い場合はセクションを分けてとびらや目次を1S(セクション)、本文を2S(セクション)とし、2Sの方にだけページ番号をつけるという処理をする必要があるが、講座ではそれを含めて知らなかったことをいろいろ教えて貰い、手始めに試作として先生の指導用と自分の学習用として2部印刷することにした。(写真は折丁別のファイル)

4.綴本折丁づくりと糸綴じ及び化粧裁ち

 原稿作成から印刷までは、決めた手順に従って進められたがここからは手工芸の世界になって行く。まず糸を通す穴を4か所つけるのだが、それは一冊分の背側を揃えて、決められた個所を糸鋸で引く。垂直に同じ深さになるように引かないと、糸を通す穴にばらつきが出て深すぎると糸がはみ出し、浅すぎると穴にならないので糸が通せない。その辺の手加減が難しく、先生が手工業の世界だといわれたことが良く分かる最初の作業である。

Img_2750_2 次に糸をひっかける帯麻を取り付け、そこに糸を通して行く作業を折丁ごとに進めて行く。これも糸が絡まったりしないように注意し、折丁と折丁の間が空かないように糸を絞めたりと気の抜けない作業が続く。(写真は糸綴じ終了後の本文)

Img_2985 それが終わるとボンドに水を加えて背の部分に塗り込み動かないようにする。その後背の部分にボンドで寒冷紗を張り付け、花ぎれ、見返し紙なども張り付けて背固めをする。次にボンドが乾いたところで「化粧裁ち」といって「Cnetひたち」にある裁断機で本の天地と小口を綺麗に裁断して貰う。(写真は化粧裁ち前の本文)

 この辺の作業は説明されただけではうまく行かず、先生の指導のもとに実践するしかない。試作をした本では、化粧裁ちをして綺麗になった小口の断面が、押さえが甘かったせいでその後の作業で凹凸が出てくる失敗があった。

5.表紙の作成と貼り付け

Img_3196Img_2987_3 次は表紙の作成である。用紙は市販の布装(クロス)裏打ち用紙であるサンリネン・青を推奨されたので、それに決め注文して貰った。
1,500×500mm/枚の用紙であり、それを指定寸法に裁断し、同じく裁断した厚板ボール紙の表裏の2枚の平ボール紙と背のボール紙に糊ボンドで張り付けるのである。(写真は青のクロス用紙と作成した表紙)

 最後に表紙に本文を張り付けるのだが、この辺の作業はボンドや糊を使用するので、余分なところに付着しないようにいったん糊付けの補助に使用した新聞紙などは1回ごとに捨てるなどの配慮が必要である。実際に不要な場所に糊が付着してやり直しをする失敗があった。

 この作業も説明されただけでは要領が分からず、また糊が乾かないうちに本文を張り付けた後、いちょうゴテで平ボール紙と背ボール紙の間を押し込んで体裁を整える溝付けという作業があり、コテの温度管理やコテで抑える力加減が分からず、もたもたして糊が乾きすぎるなどの失敗があり、だいぶ苦労をしたが手工芸の難しさが良く分かった。

Img_3003 最後に仕上げ締めといって手製の締め付け具で本を平板で挟み半日間締め付け、表題名を貼って完成するのだが、試作品で苦労したことがまだ完全に覚えておらず不安だったので、次に2冊をもう一度糸綴りから指導して貰った。(写真は仕上げ締め)

Img_3008a その後自分だけで6冊化粧裁ち前まで完成させたが、背の部分にボンドを塗り込んで動かなくする工程を洩らし、先生に手伝って貰ってやり直した。それでも何とか完成まで持ち込み、表題を貼り付けて立派な本になった。表題名は白楽天の漢詩から採った「往時渺茫」(おうじびょうぼう)というものにした。昔のことは遠くかすんでおぼろげであるという意味である。(写真は出来上がった本)

 父は7人兄弟だったので、その惣領の家に1部づつ配布し大いに喜んで貰えた。その後4部作成しその後更に4部作成中であり、合計16部作成して打ち止めにしようと思っている。そしてその次にどんな本を作るか思案中である。

(写真をクリックすると大きくなります)

(この項終り)

2016年8月19日 (金)

本をつくる(その1)

1.はじめに

 昨年(平成27年)春頃から本造りを始めている。きっかけは昔お世話になった叔母の13回忌の法要に招待され出席した時のことである。久し振りに逢う小生の従兄弟の4名とその配偶者とは旧交を温め昔の思い出などの話が弾んだが、30人位居た従兄弟の子供たち夫婦や従兄弟の孫に当たるその子供たちとは、殆んど面識が無く初対面の人が多かった。

 小生の祖父は明治元年(1868)生まれで現在の平成28年(2016)から148年前である。小生が12歳の時に亡くなったがその面影などは今でも覚えている。しかし平成世代の人たちは遠い昔の先祖の事としか思えない筈である。その若い世代の人たちに自分が知っている祖父母や、父母の兄弟の生きていた時代のエピソードなどを伝えるのは、先に生まれ祖父母の生きた年令を超えた者としての義務ではないかと思ったのである。

 まず、どのように祖父や父の兄弟たちのことを伝えようかと思ったが、取り敢えず従兄弟にあたる父の兄弟の子供たちに呼び掛けて資料を持ち寄って貰うことにした。父の兄弟は9人いたが結婚して一家を構える前の独身時代のころまでの話に限定し、写真や祖父や兄弟間の手紙などを選び編集を始めた。

 写真なども結構あったので、最終的にA5用紙で190ページの分量になった。それを冊子にして親戚の主だった人に配布する計画である。部数は10から15部程度にするつもりだったので、印刷屋には頼まずに自分で製本までやろうと思っていた。

2.準備段階

Cnet1Cnet2_2 丁度其の頃、日立市にある「コミュニティNETひたち」(略称 Cnetひたち)というNPO法人が「Cnet製本工房」を設置し、「パソコンによる製本講座」を開設したとの情報を聞いて何回かメールで問い合わせ、27年7月から講座に参加させてもらうことにした。(写真は「Cnetひたち」のパンフレットの一部、「Cnet製本工房」の案内)

Img_3192_2 テキストは「布装厚紙表紙の製本」という本格的なものである。最初の項目は本づくりの基礎というもので、その付録に「Wordのページレイアウトの基礎知識」「A5サイズのA4両面プリント方法」というものがあり、また副読本として「ワードで楽しく自分史作成」という本を使用し、まず原稿作成である。(写真は
「ワードで楽しく自分史作成」の表紙)
 以前からブログやホームページを作っていたので、ワードでの原稿作成は簡単だと思っていたが、本を作るための編集はA4用紙1枚の表裏を使用してA5用紙4ページ分を印刷し、それを4枚合わせた16ページを1折丁とすると、190ページの原稿は12折丁になる。さらにとびらや目次、遊び紙などを付け表裏に布装厚紙表紙を取り付けると厚さ18ミリの立派な本になるのである。日頃読んでいる単行本の大きさと同じだが、文字の大きさは読み易いように12Pと少し大きめにした。

 とにかく本造りは初めてのことなので、最初は1か月1回マンツーマンでテキストの中身を説明して貰い、必要な道具を揃え、材料を注文するところから始めた。プリントする用紙は、本の中に写真を入れるとなると通常の用紙よりも厚手の紙でないと裏側に映ってしまう。また紙の目というのがあって縦長の本では紙の目が短辺に平行な横目の紙にしないとページがうまくめくれないなどの本作りのために必要な要因を教えて貰う。

 また表紙は布装(クロス)裏打ちの本格的な用紙を使用するということであり、ほかにも厚板ボール紙や見返し紙、クーターという本の背中に貼る紙の筒、花ぎれという背表紙の上下を抑える紙などの材料が必要である。 そのため原稿の作成と並行してそれらの必要材料についての説明を受け、先生がいつも発注するメーカーに注文して貰った。

Img_0002 同時に本をつくるための道具を教えて貰い、自分で揃えられるものは購入し、難しいものは先生から注文して貰った。 写真の①かけへら、②竹ゆびわ、⑥製本針、⑦いちょうゴテ、⑬溝ゲージは特殊な道具なので注文して貰い、残りはホームセンターで購入した。他にも糸綴りに必要な糸のこ、ボンドや糊を薄めるための金属パッドなどを揃えた。(写真は必要な道具)

 

Img_3193 また印刷した折丁の背を均等に厚みにしたり、最後の仕上げ圧縮のために締め付ける用具があると良いといわれたので先生の手作りの締め付け具を参考にして同じような用具を作った。(写真は手製の締め付け具)

Img_3190 そのようなことで、材料の準備、用具の調達などで半年が過ぎ、いよいよ今年(平成28年)になってからEPSONのEP807AWというプリンターで印刷を始めたのである。(写真はプリンター)

(写真をクリックすると大きくなります)

(以下次号)

2016年8月 3日 (水)

ビーナスライン周辺・中山道宿場跡探訪5

6.中山道宿場跡探訪Ⅱ(芦田宿、茂田井間の宿、望月宿)

Img_2936Img_2938Img_2939Img_2941 朝起きたら晴れで蓼科山も山頂までよく見えた。今日は県道40号を下り立科町芦田に向かう。途中の蓼科第二牧場の朝日の丘からは遠く雲の上に浅間山が見えた。さらに進むと長門牧場の入口の乳牛親子のオブジェが見える。長門牧場では200頭の乳牛を飼育しており、多くの乳製品を製造販売し、レストランでは自家製乳製品を使った料理が食べられる。(写真は昨夜泊まったクリスタルチャーチのあるホテルアンビエント蓼科、女神湖からの蓼科山、朝日の丘からの浅間山、乳牛親子のオブジェ)

Img_2945 標高1540mの女神湖から840mを一気に下って標高700mの芦田に着く。立科町役場近くにある芦田中央交差点付近が旧中山道芦田宿の中心地区である。芦田宿は中山道の江戸から二十六番目の宿場で一昨日通った二十七番目の宿場の長久保宿に笠取峠を経て繋がっている。(写真は芦田宿庄屋山浦家の跡地)

Img_2947a_2Img_2948Img_2949Img_2950Img_2951 この宿場は北佐久地方で最古の宿場だそうで、現在残っている旧芦田宿本陣土屋家は寛永12年(1800)に建て替えられたもので、長野県宝に指定されている。(写真は旧芦田宿本陣土屋家入口、解説板、本陣内部の庭、本陣玄関2景)

Img_2946_2Img_2942Img_2944_2Img_2943Img_2957  旧本陣と街道を挟んで脇本陣があったが、火災により焼失し解説板だけが立っていた。近くには金丸土屋旅館という200年前に旅籠として建てられ、現在も旅館として営業を続けている建物がある。また創業明治26年創業の酢屋茂(すやも)という天然醸造の信州味噌と醤油を現在も造っている風情のある建物が建っている。(写真は脇本陣山浦家跡地、金丸土屋旅館2景、同解説板、酢屋茂商店)

Img_2956Img_2953Img_2954Img_2955 また付近には「ふるさと交流館芦田宿」という町の歴史や中山道のこと、立科の四季などを紹介するパネルが展示されているコーナーがあり、広い展示スペースでは写真展が行われていた。(写真はふるさと交流館芦田宿、展示されていた芦田宿の解説パネル、立科町宿場の解説パネル、広重の浮世絵「あし田」「望月」の解説パネル)

Img_0004Img_2959Img_2958Img_2960Img_2961 芦田宿から茂田井間(あい)の宿に向かう。茂田井の部落に入ると直ぐ一里塚跡がある。狭い旧街道は車を止めるところがない。しばらく進むとを行くと少し広がった場所があり、散策マップと茂田井間の宿の解説板が置かれていた。(写真は茂田井間の宿のパンフレット、一里塚、一里塚の解説板、散策マップ、茂田井間の宿の解説板)

Img_2962Img_2963 更に進むと左側に大沢酒造という造り酒屋がある。茂田井には武重本家酒造(明治元年創業)と大沢酒造の.2つの造り酒屋があるが武重本家酒造の明治元年創業(1868)に対し大沢酒造は元禄2年(1689)創業で、320年の歴史があり、代々茂田井村の名主を務めていた。(写真は大沢酒造入口、母屋)

Img_2964 ここには「しなの山林美術館」という美術館がある。今から23年前の平成5年に日本ロマンチック街道を巡っていた時にこの美術館に立ち寄った思い出があり、今回再訪できるのを楽しみにしていた。
 この美術館はこの大沢家出身の大沢邦雄画伯が喜寿になったのを記念して平成元年に開館したのだが、その落成を見ずに大沢邦雄画伯は亡くなってしまったそうである。大沢画伯は第一美術協会長も務めたが、同時に「日本山林美術協会」に所属していたので、そこからこの館名にしたのだろう。(写真はしなの山林美術館入口)

Img_2966_2Img_2967Img_2968 大沢画伯は昭和40~50年代にヒマラヤ遠征に参加し、その後もネパールを毎年のように訪問していたそうで、美術館には山岳美術協会員の作品や親しくしていた画家の作品を含め、ヒマラヤでの作品や甲信の山々の作品が数多く展示されている。開館当初から入館料は無料で、係員もおらず写真もOKなので気軽に好きなだけ鑑賞できる。(写真は美術館内部3景)

Img_2969Img_3006 大沢酒造は「しなの山林美術館」の他に「大沢酒造民俗資料館」を開設して酒造りや街道文化の資料を展示している。その中に元禄2年の創業時の酒が詰められた白磁古伊万里の壺があった。漆で封じられた壺の栓は昭和42年に東京のNHKスタジオで、醸造微生物学の権威である坂口博士という人の立会いの下に280年振りに開栓され、日本最古の酒と評価された。その入れ物を「秘蔵元禄の壺」として展示してある。また創業の元禄2年に善光寺管主の宿になったそうで、前回訪れたときはそれにちなんだ「善光寺秘蔵酒」という酒を買ったが、辛口過ぎて味のふくらみがなかったので今回は「茂田井宿の酒」というあまり辛くないという酒を買ってきたがこれは美味かった。(写真は「大沢酒造民俗資料館入口、茂田井宿の酒)

Img_2970_3 旧中山道から望月側の広い県道148号線に出るところに「中山道茂田井入口」の大きな標識があった。中山道の標識は江戸から京に宿場をたどる人向けになっているのか、芦田の方には茂田井入口の小さな標示しかなかった。(写真は茂田井入口の標識)

Img_0002Img_2971 県道を進むと国道142号線の下を潜り旧中山道の道路になる。そのまま進むと望月歴史民俗資料館への標識があるのでそれに従って進む(小生の車にはナビが無いので)。望月歴史民俗資料館が望月宿の本陣跡である。その隣に「御本陣」という看板が掲げられた大森小児科医院があるが本陣を務めた大森家の子孫の家なのだろう。(写真は歴史民俗資料館入場券、大森家)

Img_2972Img_2976 望月歴史民俗資料館に入る。望月は奈良時代に御料牧場が設けられ、御料馬は満月の日に献上していたので望月の駒として知られるようになった。歴史民俗資料館に馬や人たちが描かれた大きな板絵があった。その後中山道が制定されると宿場町として賑わう様になった。望月宿は八幡宿の次の宿場で江戸から第25番目の宿である。次は茂田井間の宿を経て芦田宿に続いている。(写真は歴史民俗資料館入口、大きな板絵)

Img_2974Img_2975 資料館の中山道望月宿の展示室に水戸天狗党の通行というコーナーがあり、天狗党通過と追討軍の通過によって大きな損害があったという記録を記した「御籾百表」という記録が展示されていた。写真は御籾百表の展示品2景)

Img_2979Img_2982 本陣跡と道路を挟んで鷹野家脇本陣跡の建物がある。江戸時代は問屋も兼ねており前記の「御籾百表」を残した家である。出梁に木鼻彫刻という彫刻が施されている。(写真は鷹野家脇本陣跡2景)

Img_2981Img_2980_3 その他にも望月宿最古の旅籠である「真山(さなやま)家住宅」がある。この建物は大和屋という屋号で問屋と旅籠を兼ねており、明和3年(1766)建設された建物で建築年代が明確であることで国の重要文化財に指定されている。この建物にも木鼻彫刻が施されており現在も住居として使用されているそうである。(写真は真山家住宅2景)

 今回の旅の目的はここで終了し、望月トンネルを経て国道142号線を佐久方面に走る。佐久南ICから中部横断自動車道に入り、上信越道、北関東道を通って水戸に戻り、最後のわが別荘に泊まる旅は終わった。

(この項終り)

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