« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2016年7月28日 (木)

ビーナスライン周辺・中山道宿場跡探訪4

5.再びビーナスライン

 御射鹿池から戻り八ヶ岳エコーラインを北上し、芹が沢から茅野から来るビーナスラインに乗る。ビーナスラインはここから蓼科高原を通り白樺湖に続くのである。この道も今まで何回通ったことか‐‐‐。

Img_2901Img_2887Img_2890_11Img_2891  蓼科湖で小休止する。ここにはマリー・ローランサン美術館と蓼科高原芸術の森彫刻公園の二つの美術館があった。というのはこの二つの美術館は「アートランドホテル蓼科」に併設されていたが、2012年(平成24年)「リゾートホテル蓼科」としてリニューアルオープンした時にマリー・ローランサン美術館は閉館してしまったのである。(写真は蓼科湖の標示、蓼科湖2景、蓼科湖越しの彫刻公園)

ImgImg_2895Img_2896 マリー・ローランサン美術館は画家の生誕100年を記念して、1983年(昭和58年)に開館し、ローランサンだけの初期から晩年に至る作品500余点を常設展示していた世界唯一の専門美術館だった。小生が昭和63年に訪れた時は芸術の森彫刻公園はまだ開設しておらず、翌年の開場に備えて北村西望の「将軍の孫」など数点が置かれていたのを思い出す。(写真は当時のマリー・ローランサン美術館の入場券、現在の「将軍の孫」像、その解説板)

Img_29781_2 マリー・ローランサンの展覧会は平成11年(1999)に茨城県近代美術館で開催され、早速見に行ったが、お目当ての「接吻」は展示されなかった。「接吻」はローランサンの代表作の一つで以前はサマセット・モームが所有していたことでも知られていたが、それをアートランドホテル蓼科のオーナーが手に入れたものである。(写真は「接吻」のコピー)


 Img_2892_3Img_2893 マリー・ローランサン美術館は閉館してしまったが、蓼科高原芸術の森彫刻公園はホテルの経営会社が変わったのを機に以前は千円の入場料だったものを茅野市が公園の維持費の半額にあたる1千万円を負担して無料開放しており、蓼科湖側の入り口から入場できる。(写真は彫刻公園入口、ふたりの像後方は蓼科湖)

Img_2899_2Img_2897_3Img_2898Img_2900 この芸術の森彫刻公園は1250mの高原にあり、芝生の広場や森などがある広い敷地(約3万7千㎡)に長崎平和記念像の作者として知られる北村西望の作品を中心にして現在活躍中の作家30余名の作品約70点が展示されており、緑の中をのんびりゆっくり歩いて鑑賞すると気持ちがゆったりと和らいでくる。上記にその幾つかを示す。

Img_2930 蓼科高原から再びビーナスラインに乗り、標高1400mある白樺湖についた。天気は曇りであり、湖畔は閑散としていた。そこから更に北上して標高1540mの女神湖を目指す。今夜の宿泊は女神湖畔のクリスタルチャーチのあるホテルである。(写真はクリスタルチャーチ)

Img_2910Img_2909  ホテルに入る前に女神湖を一周する。南側の女神湖センター入口には女神湖のシンボルとして昭和44年に建てられた女神像がある。湖畔をめぐる遊歩道が整備されており、センター近くの湿地帯には木道が設けられて、季節によっては水芭蕉やコバイケイソウなども見られる。(写真は女神湖の女神像2景)

Img_2916Img_2913_2Img_2917aImg_2912_3Img_2911  湖岸の南側(左側)の道路を湖を見ながら走る。曇天で少し晴れ間がある天候だったが、対岸の森の緑が湖面に映って静かな雰囲気を見せてくれていた。(写真は女神湖の風景5景)

Img_2915Img_2918Img_2927_3Img_2928 女神湖は北側の湖岸からは晴れていれば女(め)の神山と呼ばれる蓼科山の優美な山容を水面に映す高原の湖だが、今日は時折晴れるけれども蓼科山の中腹から上は雲の中である。
 湖畔には鴨の親子が泳いでいるばかりで、他の物音はせず静寂そのものだった。(写真は雲の中の蓼科山、鴨の親子3景)

(以下次号)

2016年7月23日 (土)

ビーナスライン周辺・中山道宿場跡探訪3

3.尖石(とがりいし)縄文考古館

 翌日は今にも雨になりそうな曇天の中を出発する。八ヶ岳高原道路から富士見高原に続く鉢巻道路を行く。続いて八ヶ岳ズームライン、八ヶ岳エコーラインと呼ばれる道路を乗り継いで蓼科高原に近い尖石縄文考古館を目指した。ここには知る人ぞ知る国宝の「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶がある。

 小生もそのことは知っていたが平成元年に別荘を作って以来、なかなか行くチャンスがなく、今回別荘を手放すことにしたので、もう来られないだろうとおもって出かけたのである。ここは尖石遺跡という縄文時代の遺跡があり、宮崎英弐(ふさかず)という人が独力で発掘し日本で初めて縄文集落の全容を明らかにした場所である。

 尖石遺跡は現在特別遺跡に指定されている。そして尖石遺跡を中心にして史跡公園として整備され、そのセンターとして茅野市尖石縄文考古館がある。入館して驚いたのは平成7年に国宝に指定された「縄文のビーナス」以外に昨平成26年に「仮面の女神」と呼ばれる土偶が国宝に指定されていたことと、いずれも撮影自由ということであった。

国宝と名がつけば撮影禁止になるのが普通だと思ったが.ここではどこからでも撮影して良いと云うことなので側面や後方からも撮影した。しかし「仮面の女神」の正面からの写真はブレてしまったので、ほかの画面を流用使用した。

Img_2842_5Img_2843Img_2845_4Img_2848_6Img_2851 「縄文のビーナス」はここから少し離れたところにある棚畑遺跡から昭和61年に完全な形のまま出土したもので、高さ27㎝あり、八ヶ岳山麓の縄文時代中期の特徴をよく表しており、造形的にも優れているなどの理由により平成7年、縄文時代の遺跡から見付かったものの中で初めて国宝に指定された。(写真は正面からの縄文のビーナス、国宝指定書、解説文、側面、背面からの縄文のビーナス)

Img_9246_2Img_2844_5Img_2847a_2Img_2849Img_2850 「仮面の女神」は同じく茅野市の中ツ原遺跡から平成12年に出土した。今から4000年も昔の縄文時代後期の仮面表現を持つ土偶で、 全長34㎝あり顔面に逆三角形の仮面をつけた表現の土偶である。平成26年に国宝に指定された。(写真は正面からの仮面の女神、国宝指定書、解説文、側面、背面からの仮面の女神)

Img_2856_8Img_2853_11Img_2852_10Img_2854_3 ここの遺跡には、ほかにも立派な縄文土器が発掘され展示してあった。完全な形で発掘された「蛇体把手付深鉢土器」という土器や茅野市市役所にある縄文土器型噴水のモデルになった土器などである。ほかにも大きく立派な深鉢など多くの出土品が展示され見ごたえがあった。(写真は蛇体把手付深鉢土器、縄文土器型噴水のモデルになった土器、大きな深鉢3品)

Img_2857Img_2859_7Img_2860Img_2858_6 見学が終わって縄文考古館を出ると雨が激しく降っていた。少し待っていたが降りやまないので、雨の中だったが縄文考古館の近くにある与助尾根遺跡に行く。この遺跡は縄文中期の竪穴住居址28か所が発掘された場所で、6棟の復元住居が建てられている。雨の中の見学だったので、外観だけを見て早々に引き上げた。(写真は雨の縄文考古館入口、与助尾根遺跡2景、解説板)

4.御射鹿池(みしゃかいけ)

 尖石縄文考古館から八ヶ岳エコーラインに戻り、少し北上すると麦草峠に続くメルヘン街道と呼ばれる国道299号線と交差するがその手前に、湯みち街道という奥蓼科温泉郷に通じる街道がある。その湯みち街道に入り曲がりくねった道を進むと奥蓼科温泉郷の明治温泉の手前に御射鹿池というため池がある。

Img_0002 この池は日本画家東山魁夷が昭和57年(1982)に制作した「緑響く」という作品のモチーフになった場所で、2008年に「シャープAQUOS」のテレビCMで吉永小百合が白馬と共に出演して話題になったことで知られている。(写真は東山魁夷の作品)

 東山魁夷はこの作品について「一頭の白い馬が緑の木々に覆われた山裾の池畔に現れ画面を右から左へと歩いて消え去った‎‎——そんな空想が私の心の中に浮かびました。私はその時、なんとなくモーツアルトのピアノ協奏曲の第二楽章の旋律が響いているのを感じました。
 おだやかで,ひかえ目がちな主題がまず、ピアノの独奏で奏でられ、深い底から立ち昇る嘆きとも祈りとも感じられるオーケストラの調べが慰めるかのようにそれに答えます。白い馬はピアノの旋律で、木々の繁る背景はオーケストラです。」と書いている。

 なんとまあロマンチックで夢幻的な感想であろうか!
 なお蛇足ながらモーツアルトは27曲のピアノ協奏曲を作曲しているがよく知られているのは第26番「戴冠式」と最後の第27番である。しかし第27番の第二楽章の方がこの場面にはよりふさわしい曲のように思われる。

Img_2861Img_2870_2 Img_2885_8 この池の水質は強い酸性で水棲生物は生息しにくいので、澄み切った水が保たれているということもあり写真愛好家が多く訪れる。小生が訪れた時も7~8人のカメラマンが来ていた。道路工事中で駐車場が臨時に作られていたがまだ車は少なかった。(写真は訪れた時の手前しか見えなかった画像、霧がだいぶ晴れて来た時、帰る頃の霧が晴れた時の画像)

Img_2865Img_2867_11Img_2869Img_2872  丁度霧がかかって水際以外は殆ど見えなかったが、しばらく待っていると少しづつ霧が晴れて対岸が見えるようになってきた。静かな湖面に森の影が映り静寂そのものの感じだった。(写真は霧の中の対岸の景色4景)

Img_2879Img_2863aImg_2871a_4Img_2876a 霧はしばらく薄くなったり濃くなったりして続き、湖面に移る木陰も光と霧の加減で深い緑になったり淡い色彩のままだったりといろいろな変化のある色合いを見せてくれ、晴れた日とは異なった奥行きのある景観を堪能して池を後にした。(写真は光と霧で変化する対岸の景観4景)

(以下次号)


 

2016年7月17日 (日)

ビーナスライン周辺・中山道宿場跡探訪2

2.ビーナスラインⅠ(和田峠~白樺湖)

Img_2807Img_2803 和田峠からビーナスラインに入り、霧ヶ峰の八島ヶ原湿原に行く。この湿原は同じ霧ヶ峰の車山湿原、踊場湿原と併せて霧ヶ峰湿原植物群落として天然記念物に指定されている。(写真は和田峠のビーナスライン入口、八島ヶ原湿原 ) 

 八島ヶ原湿原は標高1,630mあり、1万2千年前に誕生したと言われる高層湿原である。湿原保護のため尾瀬ケ原の様に湿原内には木道を造らず、湿原内に咲く花々を見るには周囲の木道から双眼鏡などで眺めるしかない。 

Img_2806 八島ヶ原湿原駐車場に隣接して町営の「八島ビジターセンターあざみ館」があって1日4回、1時間のガイドウォークによる湿原散策があるが料金は1,500円/人と高い。夏の湿原にはレンゲツツジ、ニッコウキスゲ、ノアザミ、マツムシソウなど400種類以上の亜高山植物の花が咲くそうである。(写真は八島ビジターセンターあざみ館)
   
Img_2805Img_2804 昭和24年にラジオ歌謡「あざみの歌」が発表された。この歌は作詞をした横井弘氏が昭和20年の終戦により復員し疎開先の下諏訪のこの八島ヶ原湿原で野に咲くアザミの花に理想の女性の姿をダブらせて創った。それを「さくら貝の歌」を作曲した八洲秀章が曲をつけたもので伊藤久男の歌唱によって全国に広がったが、その歌碑がこの八島ヶ原湿原の一画に建てられている。ビジターセンターのあざみ館もそれに因んで命名されたのだろう。歌碑の近くにはヤマツツジが花盛りだった。(写真は「あざみの歌」歌碑、近くのヤマツツジ)

Img_2801Img_2796Img_2800 湿原を見下ろす場所に霧ヶ峰湿原植物群落の大きな標識がある。そこから 八島ヶ原湿原が眺められる。手前に八島池が見える。池端に降りると写生をしている人たちがいた。(写真は霧ヶ峰湿原植物群落の標識、八島池、写生をする人々)

Img_2802Img_2798a 遠くにはガスの切れ目に車山の気象レ-ダ―観測所の丸い部分が見える。木道の近くにアヤメの群落があった。こには霧ヶ峰檜扇文目(キリガミネヒオウギアヤメ)というアヤメが生えているというがこの花がそうなのかは良く調べてみないと判らない。(写真は車山遠景、アヤメの群落)

Img_2795 Img_2794八島ヶ原湿原から霧ケ峰高原の中心部の強清水に行く。今はシーズンオフで人影は少ない。あと1ヶ月も過ぎるとニッコウキスゲのシーズンになり混み合う季節になる。今はレンゲツツジの季節である。(写真は強清水付近の標識2景)

Img_2788Img_2784Img_2785Img_2792  強清水から車山肩と呼ばれる場所に行く。この付近は丁度レンゲツツジが最盛期でコバイケイソウも咲いており、あまり期待していなかったが予想以上に楽しめた。(写真はコバイケイソウとツツジ、レンゲツツジ3景)

Img_2789Img_2787Img_2786Img_2790  遠くに山々はガスが掛かって殆んど見えず、草原の中に点々と咲く赤橙色のレンゲツツジは鮮やかだった。(写真はレンゲツツジ4景)

Img_2783Img_2782 更に進むと霧ヶ峰富士見台(1702m)に出る。ここからの富士山や南・中央アルプスの眺めは素晴らしいと聞いていたが、今日は雲に覆われて近くの集落以外は何も見えなかった。やがて車山高原に着く。(写真は富士見台からの景色、車山高原入口) 

Img_2779Img_2778 車山山頂に行く展望リフトは動いていた。しかし展望は望めそうにも無かった。大門峠に行く途中からの白樺湖の眺めも蓼科山はガスの中だった。(写真は展望リフト、ビーナスライン展望台からの白樺湖)

Img_2908Img_2902Img_2904Img_2903 大門峠に着き、ガスが立ち込める中、白樺湖を一周する。安芸の宮島のように水中に鳥居が建つ景色は初めて眺めた。(写真は大門峠、白樺湖3景)

 

Img_2905Img_2906Img_2907 相変わらず霧が立ち込める中を巡る。人の姿はほとんど見えず、静かな湖畔の眺めが続いた。夕闇迫る中、白樺湖から北杜市八ヶ岳高原の別荘を目指す。
(写真は白樺湖3景)

(以下次号)

2016年7月11日 (月)

ビーナスライン周辺・中山道宿場跡探訪1

 平成28年(2016)6月下旬、5月中旬に引き続き山梨県北杜市付近の旅をした。今回別荘を手放すことにしたものが一カ月延期になったので、別荘の鍵を渡すついでにまたまた名残の旅をすることになった。

 前回は新緑の山梨・長野風景県境の風景について記したが、今回は上信越道東部湯の丸ICで降りて長和町の中山道長久保宿、和田宿を観て、そこから和田峠に出てビーナスラインを通り大門峠まで行き、茅野ICから北杜市の別荘に行くことにした。

 翌日は八ヶ岳エコーラインを通って縄文のビーナスで知られる尖石(とがりいし)縄文考古館を見学し、湯みち街道を奥蓼科温泉卿にある御射鹿(みしゃか)池に行くことにした。

 その後、再びビーナスラインを蓼科湖から白樺湖まで行き、そこから女神湖畔にあるホテルに泊まる予約をした。最後の日は立科町の芦田宿、佐久市の茂田井宿、望月宿を見て帰宅する計画である。
---------------------------

1.中山道宿場跡探訪Ⅰ(長久保宿、和田宿)

 前回同様朝6時10分に水戸の家を出て東部湯の丸ICに9時50分に着く。県道81号から国道152号に出て「マルメロの駅ながと」で案内所を貰い道順などを聞く。「マルメロ」とは花梨と混同されるが花梨は堅くて食用にはならず「マルメロ」はゼリーやジャムなどで美味しく食べられるそうである。ここの街道筋に多く植えられているので道の駅のその名前をつけたとの事、マーマレードの語源はマルメロの砂糖漬けなのだそうである。

 中山道は東海道と共に江戸日本橋から京五条大橋を結ぶ江戸時代の幹線道路である。東海道53次に対し中山道は69次あり、全長約534kmで東海道約488kmより46km長い道程である。東海道とは草津宿で合流し京都手前の草津宿、大津宿は東海道と共有である。

 中山道の宿場には坂本宿から碓氷峠を通り軽井沢宿へ、追分宿から小田井宿へ、茂田井宿、鳥居峠から下諏訪宿へ、福島宿、妻籠宿から馬籠宿へは行ったことがあるが、今回行く予定の長久保宿、和田宿、芦田宿、茂田井宿、望月宿は茂田井宿を除いて初めてである。どの宿場も現在の国道から少し入った場所にあるのでその宿場に行く目的が無ければ見過ごしてしまう。

Img_2765Img_2764Img_2763Img_2767 長久保宿は中山道六十九次の内、江戸日本橋から二十八番目の宿場である。その中央付近に長久保宿歴史資料館「一福処(いっぷくどころ) 濱屋」がある。明治初期に旅籠(はたご)として建てられたが中山道の交通量が減ったため開業せず住宅として使用されていた。(写真は一福処 濱屋入口、表の腰掛で談笑する地元の人達、土間にあるのれん、説明板)

Img_2775Img_2754aImg_2757Img_2758 総二階建て、一階より二階部分が突き出ている「出梁(でけた)造り」または「出桁造り」という建て方である。(写真は脇から見た「出梁(でけた)造り」、長久保甚句の版画、解説板2件)

Img_2760Img_2756aImg_2759Img_2762 現在は歴史資料館と宿跡を訪れる人の休み処になっており、建物の中には中山道や長久保宿の資料や駕籠などが陳列されている。(写真は解説資料2件、駕籠、酒をお燗するチロリと小型の長火鉢)

Img_2770Img_2768Img_2769 近くには旧本陣を初めとする古い建物が何軒か残っている。旧本陣は現在も住居になっているので内部は公開されていない。その隣には高札場が置かれていた。(写真は旧本陣、仝解説板、高札場)

Img_2772Img_2771Img_2773Img_2774Img_2777 他には本うだつがあり、酒造業を営んでいた釜鳴屋、宿場問屋・小林家、天保年間に建てられた旅籠の古久屋、江戸時代末期に建てられた出梁造りの大きな辰野屋という旅籠などが残されている。(写真は釜鳴屋正面、解説板、問屋、古久屋、辰野屋)

Img_2761Img_2823Img_0001 長久保宿の次の宿場が中山道の最高地点で最大の難所といわれた和田峠(標高約1600m)を控えた和田宿であり、長久保宿と同じ長和町にある。(写真は和田宿と長久保宿の紹介、和田宿の浮世絵と民謡、和田宿の観覧券)

Img_2820Img_2817Img_2818 この宿場は文久元年(1861)3月に本陣を始め宿場の大半が火災で焼失してしまった。しかしその年の11月に皇女和宮の御下向が控えていたため、幕府から多額の金子を借り入れ町並みを復興させている。皇女和宮の下向行列は2万5千人といわれ、1ヶ所の宿場を4日掛かりで通過したそうである。当然足軽などは宿屋には泊まれず筵1枚の野宿だったろうが、旧暦11月ではさぞ寒かったろうと思われる。本陣には武士が入出する冠木門があるが皇女和宮のために公家様式の御入門が造られた。(写真は本陣冠木門、本陣御入門、御入門の解説板)

Img_0003Img_2825Img_2824 和田宿では旧本陣が国の史跡に指定され「歴史の道『中山道』資料館」になっている。皇女和宮が宿泊した御殿は上田市に移築されており、母屋だけであるが現存する本陣の建物では最大級であり屋根に1600個以上の置き石がある栗板葺屋根は日本一の規模とされている。建物の中には中山道や皇女和宮下向に関する資料が多数展示されている。(写真は御入門と本陣の建物、中山道宿場マップ、和宮下向日程と人数)

Img_2821Img_2822Img_2826Img_2827 また当時使用していた駕籠や十返舎一九の道中記「和田峠の段」、浅野次郎の「一路」のサインなどが展示されていた。十返舎一九は東海道中膝栗毛の後、「木曾街道 続膝栗毛」という本を書いており、その内和田峠のページを拡大して展示してあった。(写真は駕籠2景、十返舎一九の道中記の一部、一路のサイン)

Img_2838Img_2833Img_2834Img_2836 近くには同じく「歴史の道資料館」になっている「かわちや」という出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構がある。(写真はかわちや2景、解説板、囲炉裏から見た室内)

Img_2831Img_2832Img_2828Img_2839 また大黒屋という大型旅籠や羽田野という門付旅籠の遺構など、数件の江戸末期の建物が残されている。両者とも出桁造りである。(写真は大黒屋2景、羽田野2景)

 国道142号線を和田峠に向かって上って行くと新和田トンネルに続く和田峠バイパスへの分岐点に出る。新和田トンネルは通行料600円である。従来の国道142号線は急坂を上って行くがその途中の接待という場所にに国史跡の永代人馬施行所がある。

Img_2808Img_2809Img_2810 ここは江戸のある呉服商が中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと幕府に寄付した金子を基にして、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に設けられた施行所であり、11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には一年中桶一杯の煮麦を明治3年まで施していたものを、復元してある。写真は永代人馬施行所外観、説明板、施行所内部)

Img_2816Img_2815Img_2807 付近には「歴史の道中山道」の標識があり、中山道の解説案内板と共に、昔の細い中山道の小道が続いている。 更に国道を上るとビーナスラインの分岐点に出る。ここからビーナスラインに入り、ビーナスライン和田峠から霧ケ峰を目指した。(写真は史跡中山道の表示、中山道の解説板、ビーナスライン和田峠の表示)

(以下次号)

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

折に触れて(コラム)

カテゴリー

  • 文化・芸術
  • 旅行・地域
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 趣味

最近のトラックバック

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ