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2010年8月10日 (火)

上州富岡から信州松代へ(3)

[奥の細道紀行文について]

 奥の細道の漫遊紀行文はイバイチの奥の細道漫遊紀行にまとめて掲載しておりますので、そちらをご覧ください。

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「休暇村鹿沢高原」近辺

Img_1066 Img_1065 Img_1064 Img_1068Img_1067Img_1069 Img_1070   標高1400mの高地に建つ「休暇村鹿沢高原」を中心にした一帯は鹿沢園地という名で、渓流沿いの小道を歩く「清流の小径」と自然林の中を歩く「かえでの小径」という自然歩道が整備され、4月~9月まで高原の花が楽しめる。(写真は野草園に咲く花)

 今回は6月下旬にレンゲツツジが咲く大群落で有名な湯の丸高原地蔵峠から湯の丸高峰林道に入り、標高2000mの場所にある「池の平湿原」という高山植物の宝庫と言われ、コマクサの群落もあるという高層湿原を訪れる事が主目的だったが、昨日からの雨が降りやまず池の平駐車場に停まっている車も、ガスの先にぼんやり見える状況だったので、探勝はあきらめ、代替えとして考えていた長野市松代町に行くことにした。

松代町松代城(海津城)跡

Img_1073 Img_1074  長野電鉄屋代線松代駅を挟んで市街地の反対側に松代城(海津城)跡がある。この城は川中島合戦の前年である永禄3年(1560)に山本勘助が築いたと伝えられ、川中島の合戦ではこの城から武田信玄以下2万の軍勢が上杉謙信陣取る妻女山に向かったとされている。今年は松代城開府450年にあたり、記念行事もあるらしい。(写真は解説板と太鼓門)

Img_1085Img_1075 Img_1081 城跡は平地にあり、天守などの建物もないので直ぐ近くまで行かなければ判らない。江戸時代には上州上田から移封された真田家が幕末まで城主だった。明治初期に取り壊されたが、その後城門や石垣などが復元され、国の史跡に指定されている。二の丸から内堀に架かる前橋をわたると本丸入口の太鼓門があり、桜の木が多く植えられている本丸跡に出る。(写真は太鼓門と前橋、本丸内部からの太鼓門、本丸内部の桜の木)

Img_1083 Img_1079 Img_1080 Img_1076  本丸跡には大きな「海津城跡之碑」や大正時代に建てられた「松代開府三百年記念碑」が建立されてる。 搦め手側には北不明門と呼ばれる門が復元されている。北不明門の外側が三の丸であり川中島合戦の頃はその外側が千曲川の河川敷になっていたので「水の手御門」とも呼ばれていた。しかし度重なる水害のため江戸時代に大規模な改修工事を行って現在の流れの位置に変え、旧川筋を外堀にしたという。本丸東側には東不明門と呼ばれる門があり、二の丸に通じていたのだが、前橋だけが復元されている。(写真は海津城跡之碑、三百年記念碑、戌亥櫓から見下ろした北不明門付近、東不明門前橋)

 本丸跡と二の丸の一部の復元工事は平成7年から平成15年にかけて行われたそうであるが、実質城の天守閣だった戌亥櫓や城主の御殿などの建物は復元されていないので、川中島合戦の頃の海津城、江戸時代の松代城の二つの顔を持つ城の全貌は訪れる人の想像に任せられている。しかし復元された石垣、城門、橋などを見ると海津城の面影が色濃く残っているようだ。この城の外側に千曲川が滔々と流れている風景を思い浮かべるとはるかに戦国時代に遡って行く気がする。

真田公園

Img_1103 Img_1088  松代城跡と線路を隔てて「池田満寿夫美術館」がある。この付近に三の堀が巡らされ三の丸の大御門があったそうで、松代城はだいぶ大きな城郭だったようである。「池田満寿夫美術館」と道を隔てて松代観光案内所、松代物産館や真田邸、真田宝物館がある真田公園に行く。「真田邸」は江戸時代に参勤交代制が改められ、藩主の妻子を江戸に留め置くことが緩和された時、当時の藩主の母堂を江戸から迎え入れるために、三の堀南側に隣接して造られた邸宅で、全国でも類例の少ない江戸末期の庭園を有する御殿建築として松代城跡と共に国の史跡に指定されたものである。(写真は真田邸表門、真田公園側からの真田邸)

Img_1089 Img_1090  しかし3カ月後参勤交代制が旧に復したため、藩主の母堂は再び江戸詰になってしまったとのことである。明治以後は真田家の私邸として使用されていたがその後市の管轄になった。庭園が素晴らしいと聞いていたが現在は修復工事が行われており、その一部を垣間見ることしか出来なかった。修復は間もなく終わり、本年9月21日から全面公開予定である。(写真は庭園の一部と池の先にある屋敷)

Img_1086  真田公園の中に「恩田木工(もく)民親(たみちか)の像」が置かれている。真田藩の財政再建に尽力した恩田木工については、作者不詳「日暮硯(ひぐらしすずり)」、池波正太郎著「真田騒動-恩田木工」などにより、知っている方も多いと思うが、知らない方は「新訂日暮硯 - tokyokidの【書評・論評】日記(http://d.hatena.ne.jp/tokyokid/20070123) 」にあらすじと解説が簡明に記されているので参考にされるとよい。恩田木工は時の藩主真田幸弘に抜擢されて治世にあたったがその任期の5年を過ぎた時、病を得て亡くなってしまった。文字通り身命を投げ打って職務に邁進したのである。「日暮硯」は真田藩士によって著され、その事績は江戸時代から写本によって流布され広く知られていた。

 (H22-7-12訪)

 

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