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2009年5月19日 (火)

附けたり (2) 伊賀上野②

故郷塚

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  芭蕉翁生家から徒歩5分ほどで、松尾家の菩提寺である愛染院がある。芭蕉は元禄7年(1694)10月12日に旅先の大阪で亡くなったが、遺骸は遺言により大津市膳所(ぜぜ)の義仲寺に葬られた。伊賀の門人服部土芳と貝増卓袋は葬儀に馳せ参じて遺髪を奉じて帰り、菩提寺である愛染院に埋め、しるしの碑を建て故郷塚と称えた。碑には門人服部嵐雪の筆で 「芭蕉翁桃青法師 元禄七甲戌年十月十二日」 と彫られている。毎年10月12日には墓前法要が行われ、「しぐれ忌」と称して芭蕉祭が執り行われている。

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 境内には芭蕉の句碑が二つ建てられている。一つは 「家はみな 杖にしら髪の 墓参り」 で、元禄7年7月10日に郷里の兄半左衛門の招きで帰郷し、愛染院で営まれた盆会に参列した時の句である。芭蕉はその後8月15日に新築された無名庵で月見の宴を催したり、門人の支考とともに句集 「続猿蓑」 の撰をしたりしたが、9月に伊賀を発って大阪に向いその地で亡くなるのである。

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もう一つは 「数ならぬ 身となおもいそ 玉祭り」 で、前書きに 「尼寿貞が身まかりけるとききて」 とあり、同じく元禄7年の盆にひそやかな法要を営んだ時の句である。 寿貞尼については若い日の芭蕉の妾とか、甥の桃印の妻であるなどの諸説があるが実態は不明である。しかし旅の途中、折に触れて曽良や杉風に江戸の芭蕉庵で病に臥せっていた寿貞尼の消息を尋ねている書簡が残っており、芭蕉とは深い関係があったようである。玉(魂)祭りとは盆に先祖の霊を祀る仏事である。

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 また「偲翁碑」という大きな石碑がある。これは芭蕉翁250年忌に建てられたものだそうである。他にも 「芭蕉翁全伝」 を残した籐堂藩城代家老の再形庵馬老人という人や芭蕉翁故郷塚を再興した長月庵若翁という人など芭蕉ゆかりの俳人の句碑や記念碑がいくつか建立されている。

上野天満宮

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 故郷塚から徒歩10分の所に上野天満宮がある。芭蕉は29才の時に「貝おほひ」という三十番発句合せの選集を編んだが、それを産土の神であり、文学の祖神である上野天満宮に奉納し、俳諧師として世に立つ決意を示し、江戸に下ったのである。

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 境内にある「貝おほひ顕彰記」には、そのことが記されている。続いて、江戸に移って6年目の延宝6年に桃青と号して宗匠立机のため俳諧万句を興行して出師以来の念願がようやく実り、其角、嵐雪、杉風(さんぷう)の粒ぞろいの門弟を持つ江戸俳壇に成長したと記してある。俳聖芭蕉翁と後世まで大きな影響を及ぼした松尾芭蕉の俳諧の人生はここから始まったのである。己の俳諧のレベルについて自信があった芭蕉は、「貝おほひ」を奉納した後、多少の不安よりもそれに勝る意気込みを持って江戸に向かったのである。

 「貝おほひ」とは、その序に「小六ついたる竹の杖、ふしふし多き小歌にすがり、あるは流行言葉の一くせあるを種として、云捨られし句どもを集め 右と左にわかちて つれぶしにうたはしめ 自らが短き筆の辛気ばらし 清濁高下を記して 三十番の発句合せを思い---」とあり、伊賀の俳友三十六人の句に、芭蕉自身の句を加えて左右合わせた六十句についてその優劣を判定したものである。

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  境内には、「菅社のほとり 薬師寺の会に」との前文の後 「初さくら 折しもけふは よき日なり  芭蕉」 の句碑がある。これは元禄元年に伊賀の門人たちが天満宮の傍らにあった薬師寺で月例句会を発足することにし、その最初の連句会にちょうど「笈の小文」の旅から帰郷していた芭蕉が招かれ、会の前途を祝った句である。

蓑虫庵

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 上野天満宮から銀座通りを徒歩で15~20分ほど南下し、案内標識に従って右折すると蓑虫庵に着く。伊賀の芭蕉ゆかりの草庵が五つあり、「芭蕉五庵」と称される。そのうち現存しているのは蓑虫庵だけだそうである。蓑虫庵は伊賀上野の門人服部土芳の草庵で、貞享5年(1688)の庵開きの祝いとして芭蕉が 「蓑虫の 音を聞きに来よ 草の庵」 の句を贈ったことに因んでいる。土芳は伊賀藩藤堂家に仕える武士だが、芭蕉を慕って弟子になり30才の時致仕して武士を止め、この庵で芭蕉の俳論を「三冊子」(さんぞうし)という書物に整理し書き残している。他にも「蕉翁句集」「蕉翁文集」などを著し、芭蕉亡き後も伊賀蕉門の中心人物として蕉門の発展に力を尽くした。

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 敷地内には芭蕉の 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」 「よくみれば なづな花さく 垣ねかな」の句碑があり、それぞれ古池塚、なづな塚と呼ばれている。また昭和になり義仲寺の芭蕉堂にならって、蓑虫庵の後ろに芭蕉堂が建てられ、芭蕉の木像と脇侍として土芳の位牌が祀られている。

 (H21‐2‐21訪)

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2009年5月 4日 (月)

附けたり (1) 伊賀上野①

上野市駅

 芭蕉の故郷は三重県の伊賀上野である。名古屋から関西本線伊賀上野駅に行く。名古屋からの直通は急行が1本あるだけで、あとは全て亀山で乗り換えて伊賀上野駅まで行く様になる。伊賀上野駅から伊賀鉄道に乗り換えて上野市駅に着く。ここが目指す芭蕉の故郷の駅である。駅前の観光案内所に立寄ったら 「忍者の方ですか?、芭蕉の方ですか?」 と聞かれた。ここは伊賀流忍術発祥の地として伊賀流忍者博物館があり、忍者実演ショーなどがあるということである。またここは荒木又右衛門の出身地であり、36人切りの仇討で有名な決闘鍵屋の辻のある場所でもある。「芭蕉の方」 と答えるとマップとゆかりの史跡巡りのパンフレットを出してくれ、道順などの説明をしてくれた。

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 上野市駅前広場には旅笠を背負い、手に杖を携えた芭蕉の銅像が高い台座の上に設置されている。昭和38年(1963)、芭蕉翁270回忌に上野ロ-タリ-クラブが創立10周年記念として作成し、上野市に寄贈したものである。像の高さは2.6メ-トル、台座は4メ-トル余りということである。さすが芭蕉の故郷であり、堂々たる芭蕉像である。

上野公園

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 伊賀鉄道の踏切を越えると市役所があり、その後ろが小高い丘になっている。そこが上野城や伊賀流忍者博物館、俳聖堂、芭蕉翁記念館など伊賀上野の観光名所が数多く設置された上野公園である。公園の上り口に 「やまざとは まんざい遅し 梅花」 という元禄4年に伊賀上野で詠んだ芭蕉の句碑がある。

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坂道を行くと、右側に芭蕉翁記念館がある。昭和34年(1959)に、間組の社長だった神部滿之助の篤志によって建てられたもので、芭蕉の真蹟や連歌、俳諧の資料が多くある。企画展「芭蕉に帰れ」を開催していた。芭蕉翁めぐり3施設割引共通券という、この記念館と芭蕉翁生家、蓑虫庵をめぐると900円なのだが、それが750円になる割引券を買って見学した。

 次に上野城に行く。この城は筒井定次が築城したが慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊賀、伊勢に移封され、家康の命により慶長16年(1611)に上野城を豊臣方の大阪城に対して、万一の時の根城として本丸を西に拡張、高さ約30メートルという高石垣をめぐらして防備を堅めた。建設中の五層の天守閣は、慶長17年(1612)9月に大暴風で倒壊したが豊臣家が滅亡し、幕府は諸大名に城普請を厳しく禁止したので、天守閣が再建されることがなかったが、上野城は伊賀の国の城として認められ、藤堂藩は32万石余の大藩として本城を津に置き、上野を支城として明治まで存続した。

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 現在の伊賀上野城は(雅名白鳳城)は、昭和10年に地元出身代議士の川崎克が私財を投じ、3年の歳月をかけて藤堂高虎が築いた基台に木造瓦葺き、白亜塗り、純日本建築様式で3層の天守閣とその前面に2層の小天守を造営したもので、「伊賀文化産業城」が正式名称である。今回訪問した時は小天守と前面の広い道路を補修して雑然としており、また特に見たいものも無かったので天守には入らなかった。

 芭蕉はこの城で5千石取りの侍大将であった藤堂良精(よしきよ)に召抱えられ、嫡男の良忠(よしただ)の近習になった。良忠は京都の北村季吟を師として貞門俳諧を学んでおり、蝉吟(せんぎん)と号していた。芭蕉はこの時良忠から手ほどきを受け、俳号を宗房と号して俳諧の道に入ったのである。その結果芭蕉(宗房)はみるみる俳諧の腕を上げ、北村季吟門下に入ったが、芭蕉(宗房)23才の時、2つ年上だった主君の良忠(蝉吟)が急死し、寵愛を受けていた芭蕉は前途の望みが無くなり、藤堂家を辞することになってしまった。

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 上野城の西手にある30メートルという高石垣から下を見下ろすと青緑色の水をたたえた堀をはるか隔てて芭蕉を祀った俳聖堂が見える。芭蕉の主君だった良忠はまだ部屋住みだった筈で、芭蕉共々城内には入れなかっただろうが、良忠が長命で父良精の後を継いでいたならば芭蕉もこの城に出仕して忠勤に励み、俳聖と崇められる現在とは違った道をたどり、「古池や---」の句や「おくのほそ道」も無かったのだ。と大きな運命の分かれ目を想い、感慨にふけった。

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 俳聖堂は、昭和17年(1942)芭蕉翁生誕300年を記念して、上野城天守閣を造営した川崎克代議士が再び私財を投じて建築したものである。木造檜皮葺き屋根の二層の塔建てで、初層は八角、二層は丸型という八角重層塔建式の特殊な構造で、旅に生涯をおくった芭蕉の旅姿を象徴しているという。二階の屋根は旅笠、「俳聖殿」の文字辺りは顔、一階の八角型の屋根は衲衣(着用していた衣服)の肩から腰の姿、その屋根を支える周囲の柱は足と杖を表しているのだそうである。

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 内部には伊賀焼の芭蕉翁座像が安置されている。原型は芸術院会員の長谷川栄作が製作し、俳聖堂を建設した川崎克が自ら築いた伊賀窯をもって焼き上げたもので、等身大の伊賀焼は陶窯の歴史にも無かった大作であり、穏やかな風貌の瞑想像は陶芸芸術の傑作といわれている。毎年10月12日の芭蕉命日にはここで「芭蕉祭」が挙行され、翁の業績を称え遺徳を偲んでいる。また全国から応募された俳句や連句が芭蕉翁像に奉納されるそうである。

芭蕉翁生家・釣月軒

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 上野公園の下の国道136号線沿いを東に15分ほど歩くと芭蕉翁生家がある。通りに面して表は格子構えの古い町家で、玄関から奥まで通り土間となっている。芭蕉は正保元年(1644)松尾与左衛門の次男として伊賀市で生まれ、2男4女の3番目で、兄半左衛門のほかに姉一人妹三人がいた。

 藤堂家に召抱えられたが、図らずも良忠(蝉吟)の死によって23才で退身した芭蕉の、その後数年間のことはあまり知られていないが、伊賀上野に住みながら俳諧の修業のため、京都にも出かけて北村季吟に師事し、また俳諧に必要な学問を修めたといわれている。そして寛文12年(1672)29歳のとき伊賀の俳諧仲間を集め、処女句集である「貝おほひ」という三十番発句合せを編んだ。

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 生家の裏庭には釣月軒と呼ばれる建物が建っている。ここは芭蕉が「貝おほひ」を執筆した場所で文机と行灯が置かれた質素な部屋である。その後芭蕉が伊賀に帰省したときもここで寝起きしたといわれているが、実際は芭蕉がここで「貝おほひ」を執筆したとの話にあわせて後から建てられたものであるらしい。

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  近くには芭蕉が「笈の小文」の旅で帰郷したとき詠んだ 「古里や 臍のをに泣 としのくれ」の句碑が昭和38年(1963)の芭蕉の270回忌を記念して建てられている。  芭蕉は寛文12年(1672)に江戸に下った後、5年後の延宝4年(1676)。「野ざらし紀行」の帰途の貞享元年(1684)。「笈の小文」の帰途の貞享4年(1688)。「おくのほそ道」の旅に続いて伊勢から膳所に行った後の元禄3年(1690)の春と秋に膳所から。翌元禄4年京都から。元禄7年(1694)「おくのほそ道」素龍清書本を持参した時。と数えるほどしか伊賀上野に帰っていないが、その都度、兄の半左衛門一家が起居するこの家に温かく迎えられ、最初の帰郷の時こそ2週間の滞在だったが、それ以外は数ヶ月間長逗留して疲れを癒し、また昔からの俳諧仲間や門人たちとの交流を深めたのである。

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 釣月軒より更に裏手に、無名庵跡の碑があり、 「冬籠り またよりそはん 此はしら」 の句が記されている。解説板には「無名庵は伊賀の芭蕉五庵の一つ。伊賀の門人たちが芭蕉に贈るために生家の裏庭に建てた庵で、芭蕉は元禄7年8月15日に新庵披露を兼ねて月見の宴を催し門人たちを心からもてなした」とある。芭蕉はその年の9月に大阪に行き、10月12日(陰暦)に旅先で亡くなるのである。

 (H21‐2‐21訪)

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