附けたり (2) 伊賀上野②
故郷塚
芭蕉翁生家から徒歩5分ほどで、松尾家の菩提寺である愛染院がある。芭蕉は元禄7年(1694)10月12日に旅先の大阪で亡くなったが、遺骸は遺言により大津市膳所(ぜぜ)の義仲寺に葬られた。伊賀の門人服部土芳と貝増卓袋は葬儀に馳せ参じて遺髪を奉じて帰り、菩提寺である愛染院に埋め、しるしの碑を建て故郷塚と称えた。碑には門人服部嵐雪の筆で 「芭蕉翁桃青法師 元禄七甲戌年十月十二日」 と彫られている。毎年10月12日には墓前法要が行われ、「しぐれ忌」と称して芭蕉祭が執り行われている。
境内には芭蕉の句碑が二つ建てられている。一つは 「家はみな 杖にしら髪の 墓参り」 で、元禄7年7月10日に郷里の兄半左衛門の招きで帰郷し、愛染院で営まれた盆会に参列した時の句である。芭蕉はその後8月15日に新築された無名庵で月見の宴を催したり、門人の支考とともに句集 「続猿蓑」 の撰をしたりしたが、9月に伊賀を発って大阪に向いその地で亡くなるのである。
もう一つは 「数ならぬ 身となおもいそ 玉祭り」 で、前書きに 「尼寿貞が身まかりけるとききて」 とあり、同じく元禄7年の盆にひそやかな法要を営んだ時の句である。 寿貞尼については若い日の芭蕉の妾とか、甥の桃印の妻であるなどの諸説があるが実態は不明である。しかし旅の途中、折に触れて曽良や杉風に江戸の芭蕉庵で病に臥せっていた寿貞尼の消息を尋ねている書簡が残っており、芭蕉とは深い関係があったようである。玉(魂)祭りとは盆に先祖の霊を祀る仏事である。
また「偲翁碑」という大きな石碑がある。これは芭蕉翁250年忌に建てられたものだそうである。他にも 「芭蕉翁全伝」 を残した籐堂藩城代家老の再形庵馬老人という人や芭蕉翁故郷塚を再興した長月庵若翁という人など芭蕉ゆかりの俳人の句碑や記念碑がいくつか建立されている。
上野天満宮
故郷塚から徒歩10分の所に上野天満宮がある。芭蕉は29才の時に「貝おほひ」という三十番発句合せの選集を編んだが、それを産土の神であり、文学の祖神である上野天満宮に奉納し、俳諧師として世に立つ決意を示し、江戸に下ったのである。
境内にある「貝おほひ顕彰記」には、そのことが記されている。続いて、江戸に移って6年目の延宝6年に桃青と号して宗匠立机のため俳諧万句を興行して出師以来の念願がようやく実り、其角、嵐雪、杉風(さんぷう)の粒ぞろいの門弟を持つ江戸俳壇に成長したと記してある。俳聖芭蕉翁と後世まで大きな影響を及ぼした松尾芭蕉の俳諧の人生はここから始まったのである。己の俳諧のレベルについて自信があった芭蕉は、「貝おほひ」を奉納した後、多少の不安よりもそれに勝る意気込みを持って江戸に向かったのである。
「貝おほひ」とは、その序に「小六ついたる竹の杖、ふしふし多き小歌にすがり、あるは流行言葉の一くせあるを種として、云捨られし句どもを集め 右と左にわかちて つれぶしにうたはしめ 自らが短き筆の辛気ばらし 清濁高下を記して 三十番の発句合せを思い---」とあり、伊賀の俳友三十六人の句に、芭蕉自身の句を加えて左右合わせた六十句についてその優劣を判定したものである。
境内には、「菅社のほとり 薬師寺の会に」との前文の後 「初さくら 折しもけふは よき日なり 芭蕉」 の句碑がある。これは元禄元年に伊賀の門人たちが天満宮の傍らにあった薬師寺で月例句会を発足することにし、その最初の連句会にちょうど「笈の小文」の旅から帰郷していた芭蕉が招かれ、会の前途を祝った句である。
蓑虫庵
上野天満宮から銀座通りを徒歩で15~20分ほど南下し、案内標識に従って右折すると蓑虫庵に着く。伊賀の芭蕉ゆかりの草庵が五つあり、「芭蕉五庵」と称される。そのうち現存しているのは蓑虫庵だけだそうである。蓑虫庵は伊賀上野の門人服部土芳の草庵で、貞享5年(1688)の庵開きの祝いとして芭蕉が 「蓑虫の 音を聞きに来よ 草の庵」 の句を贈ったことに因んでいる。土芳は伊賀藩藤堂家に仕える武士だが、芭蕉を慕って弟子になり30才の時致仕して武士を止め、この庵で芭蕉の俳論を「三冊子」(さんぞうし)という書物に整理し書き残している。他にも「蕉翁句集」「蕉翁文集」などを著し、芭蕉亡き後も伊賀蕉門の中心人物として蕉門の発展に力を尽くした。
敷地内には芭蕉の 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」 「よくみれば なづな花さく 垣ねかな」の句碑があり、それぞれ古池塚、なづな塚と呼ばれている。また昭和になり義仲寺の芭蕉堂にならって、蓑虫庵の後ろに芭蕉堂が建てられ、芭蕉の木像と脇侍として土芳の位牌が祀られている。
(H21‐2‐21訪)
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