大垣(4)
史跡芭蕉木因遺跡(船町正覚寺)
船町湊跡の奥の細道結びの地から歩いて10分ほどの場所に正覚寺という小寺があり、芭蕉木因遺跡として市の史跡に指定されている。芭蕉は「おくのほそ道」の旅の5年後の元禄7年10月に大阪で亡くなったが、その死は木因・如行を初めとする大垣俳壇にも大きな衝撃を与え、如行が中心となって、この正覚寺で追悼の供養と俳筵を、初七日・二七日・五七日・七七日の忌日ごとに催し、その百ヶ日忌追善として路通筆の「芭蕉翁」と刻した自然石の芭蕉追悼塚(尾花塚)を建立した。
これは最古の翁塚として世に知られている。さらに木因の死後、芭蕉と木因の親交を偲んで木因碑を建て、「芭蕉、木因遺跡」とした。その後「芭蕉翁」碑の脇に、明治になり 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風 はせお翁」 の句碑が建立された。翁塚周辺には大垣の俳人の句碑が沢山立ち並んでいる。
木因と芭蕉
奥の細道結びの地には、奥の細道の旅を終わり、引き続き伊勢に向かう芭蕉とそれを見送る木因が広いブロンズ台の上に向かい合って立っている「芭蕉翁と木因翁」というモニュメントがある。これは昭和63年に大垣市に本拠があるコーテック㈱が創立35周年記念として建立し大垣市に寄付したものだそうである。
また奥の細道むすびの地記念館には芭蕉・木因再会の場という木因が敦賀から来た芭蕉と路通を迎える人形が飾られている(むすびの地記念館パンフレットより複写)。
しかし「おくのほそ道」には木因についての記述は全然無く、大垣周辺の人や俳諧について詳しい人を除くと、ここで突然木因という人が出てくる理由が分らず、奇異な感じを受けると思う。私もその一人で、如行を初めとして多くの人名が出てくるのに木因の名は見当たらず、「其外(そのほか)したしき人々」としてその他大勢の扱いなのに、何故クローズアップされているのだろうかと当初は思った。
しかしその後、木因と芭蕉の親密な関係を知り木因の事績を調べて、大垣の人々の心情も少しは分った気がする。奥の細道むすびの地記念館には、「鳶の評論」と名付けられた(天和2年、芭蕉39才の時のもの)木因宛書簡などの芭蕉との深い交流があった資料が展示されている。また、始めて大垣を訪れた「野ざらし紀行」の紀行文には 「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ 『死もせぬ 旅ねの果てよ 秋のくれ』」 と記されており、野ざらしの旅に出立したときの悲愴な気持ちが大垣で癒された様子が分る。おくのほそ道の時も、木因宅にも泊まり歓待されて、伊勢への出立の時も3里も同行して見送ったほどの仲だったのである。
ではそれほどの親密だった人物を、芭蕉は「おくのほそ道」では何故無視したのだろうか、嵐山光三郎著の「芭蕉紀行」や「悪党芭蕉」によれば、おくのほそ道の旅の後、芭蕉の句風は大きく変わり「軽み」志向が生まれたのだが、それが従来の弟子たちには受け入れらず、多くの離反者が出た。そして、その中に大垣の木因もいたためだというのである。木因は弟子ではなく、京都の北村季吟門下の相弟子で親友であるが、大垣での蕉門の隆盛に大きく貢献したので影響は大きかった。
芭蕉としてみれば「古池や 蛙飛こむ 水の音」に代表される幽玄、侘び寂びの句風に留まらず、より軽妙洒脱な句風に移行したかったのだろうが、「軽み」は一歩間違えば「軽薄」につながり、よほど力のある俳人でなければ芭蕉が嫌った言葉遊びになってしまうことになる。「軽み」の代表句といわれる「梅が香に のっと日の出る 山路かな」のような句はなかなか出来るものではなく、従来の蕉風に慣れた弟子たちが混乱するのは当たり前だったのである。
そのため、「おくのほそ道」の2年後の元禄4年に芭蕉が4回目の大垣訪問をした時には木因とは逢わなかった。また「おくのほそ道」にも名前を載せなかったというのである。後世になって芭蕉が俳聖として崇められ、「おくのほそ道」が不朽の古典として多くの人に読み継がれることになるとは木因ばかりでなく芭蕉自身も夢にも思わなかったことだろう。
「おくのほそ道」はこの大垣で終るのだが、附けたりとして、次回以降、芭蕉生誕の地伊賀上野や芭蕉の墓がある膳所(ぜゝ)の義仲寺などについて述べたい。
2007年2月の「深川」以来78回に亘ってアップしてきたが、誤字、脱字、不適切な文章などあったと思うので、気づいた点は指摘してください。
(H21‐2‐21訪)
注1:写真をクリックすると大きくなります。
注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です
























































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