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2009年3月29日 (日)

大垣(4)

史跡芭蕉木因遺跡(船町正覚寺)

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 船町湊跡の奥の細道結びの地から歩いて10分ほどの場所に正覚寺という小寺があり、芭蕉木因遺跡として市の史跡に指定されている。芭蕉は「おくのほそ道」の旅の5年後の元禄7年10月に大阪で亡くなったが、その死は木因・如行を初めとする大垣俳壇にも大きな衝撃を与え、如行が中心となって、この正覚寺で追悼の供養と俳筵を、初七日・二七日・五七日・七七日の忌日ごとに催し、その百ヶ日忌追善として路通筆の「芭蕉翁」と刻した自然石の芭蕉追悼塚(尾花塚)を建立した。

 これは最古の翁塚として世に知られている。さらに木因の死後、芭蕉と木因の親交を偲んで木因碑を建て、「芭蕉、木因遺跡」とした。その後「芭蕉翁」碑の脇に、明治になり 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風  はせお翁」 の句碑が建立された。翁塚周辺には大垣の俳人の句碑が沢山立ち並んでいる。

木因と芭蕉

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奥の細道結びの地には、奥の細道の旅を終わり、引き続き伊勢に向かう芭蕉とそれを見送る木因が広いブロンズ台の上に向かい合って立っている「芭蕉翁と木因翁」というモニュメントがある。これは昭和63年に大垣市に本拠があるコーテック㈱が創立35周年記念として建立し大垣市に寄付したものだそうである。

 また奥の細道むすびの地記念館には芭蕉・木因再会の場という木因が敦賀から来た芭蕉と路通を迎える人形が飾られている(むすびの地記念館パンフレットより複写)。

 しかし「おくのほそ道」には木因についての記述は全然無く、大垣周辺の人や俳諧について詳しい人を除くと、ここで突然木因という人が出てくる理由が分らず、奇異な感じを受けると思う。私もその一人で、如行を初めとして多くの人名が出てくるのに木因の名は見当たらず、「其外(そのほか)したしき人々」としてその他大勢の扱いなのに、何故クローズアップされているのだろうかと当初は思った。

 しかしその後、木因と芭蕉の親密な関係を知り木因の事績を調べて、大垣の人々の心情も少しは分った気がする。奥の細道むすびの地記念館には、「鳶の評論」と名付けられた(天和2年、芭蕉39才の時のもの)木因宛書簡などの芭蕉との深い交流があった資料が展示されている。また、始めて大垣を訪れた「野ざらし紀行」の紀行文には 「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野出る時、野ざらしを心におもひて旅立ければ 『死もせぬ 旅ねの果てよ 秋のくれ』」 と記されており、野ざらしの旅に出立したときの悲愴な気持ちが大垣で癒された様子が分る。おくのほそ道の時も、木因宅にも泊まり歓待されて、伊勢への出立の時も3里も同行して見送ったほどの仲だったのである。

 ではそれほどの親密だった人物を、芭蕉は「おくのほそ道」では何故無視したのだろうか、嵐山光三郎著の「芭蕉紀行」や「悪党芭蕉」によれば、おくのほそ道の旅の後、芭蕉の句風は大きく変わり「軽み」志向が生まれたのだが、それが従来の弟子たちには受け入れらず、多くの離反者が出た。そして、その中に大垣の木因もいたためだというのである。木因は弟子ではなく、京都の北村季吟門下の相弟子で親友であるが、大垣での蕉門の隆盛に大きく貢献したので影響は大きかった。

 芭蕉としてみれば「古池や 蛙飛こむ 水の音」に代表される幽玄、侘び寂びの句風に留まらず、より軽妙洒脱な句風に移行したかったのだろうが、「軽み」は一歩間違えば「軽薄」につながり、よほど力のある俳人でなければ芭蕉が嫌った言葉遊びになってしまうことになる。「軽み」の代表句といわれる「梅が香に のっと日の出る 山路かな」のような句はなかなか出来るものではなく、従来の蕉風に慣れた弟子たちが混乱するのは当たり前だったのである。

 そのため、「おくのほそ道」の2年後の元禄4年に芭蕉が4回目の大垣訪問をした時には木因とは逢わなかった。また「おくのほそ道」にも名前を載せなかったというのである。後世になって芭蕉が俳聖として崇められ、「おくのほそ道」が不朽の古典として多くの人に読み継がれることになるとは木因ばかりでなく芭蕉自身も夢にも思わなかったことだろう。

 「おくのほそ道」はこの大垣で終るのだが、附けたりとして、次回以降、芭蕉生誕の地伊賀上野や芭蕉の墓がある膳所(ぜゝ)の義仲寺などについて述べたい。

 2007年2月の「深川」以来78回に亘ってアップしてきたが、誤字、脱字、不適切な文章などあったと思うので、気づいた点は指摘してください。

(H21‐2‐21訪)

  注1:写真をクリックすると大きくなります。

  注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です 

 

2009年3月25日 (水)

大垣(3)

「奥の細道結びの地」

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 「奥の細道結びの地」は、大垣城の外濠を兼ねて市内を流れる水門川が「住吉燈台と船町港跡」として史跡になっている場所の対岸である。芭蕉が奥の細道の旅に曽良を伴って江戸深川を出発したのは元禄2年3月27日(陽暦5月16日)で、爾来140日掛かって600里の道程を踏破し、敦賀まで出迎えに来た路通と共に大垣船町港に着いたのは8月20日(陽暦10月3日)といわれている。大垣中の多くの門人に迎えられ、無事到着を歓迎された。先行した曽良も9月3日に伊勢から来て再会を果たしている。(写真は住吉燈台と船町港跡)

 奥の細道では 「駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊行父子、其外(そのほか)したしき人々日夜とぶらいて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたわる。」 とその喜びを表している。続いて 「旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の迂宮(せんぐう)おがまんと、又舟にのりて、 蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ」 と結んでおり、大垣に15日間滞在して歓待され、俳莚を重ねた後、新たな旅に出立した。

 この結びの句は千住旅立ちの句 「行春や 鳥啼魚の 目は泪」 に対応しているが、また新たな旅立ちの句になっていて、旅の疲れを取ると、半月後にまた新しい目的地を求めて旅に出るのである。奥の細道の冒頭にある 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。----日々旅にして旅を栖とす。」 と人生は旅であるとの芭蕉の人生観が、最後まで貫かれている。

 人名が多く出てくるが、「越人」は、越智越人(おちえつじん)で尾張に住み、紺屋を営んでいた。「更科紀行」「笈の小文」の旅に同行している。蕉門十哲の一人である。「如行」は近藤如行で、大垣での最初の門人である。当時大垣藩士だったが、後僧になって諸国を行脚した。曽良は山中から先行して陰暦8月14日に大垣に到着した時、如行宅に泊まっており、大垣蕉門の中心的人物である。「前川子」は津田前川(ぜんせん)で大垣藩士で大垣蕉門の一人である。「荊行父子」は宮崎荊行(けいこう)と3人の息子で荊行は大垣藩士であり、息子たちと共に大垣蕉門に名を連ねている。

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結びの地には「史跡奥の細道結びの地」の石標柱がありその傍らに伊勢に旅立とうとする芭蕉と、それを見送る大垣の俳諧の総帥谷木因が並んだ像がある。木因は芭蕉より二つ年下で十代の頃北村季吟のもとで共に俳句を学んだ人物で、結びの地の前で船問屋を営んでいたそうである。芭蕉とは親交を結び、「野ざらし紀行」では芭蕉を送って桑名・熱田まで同行している。大垣蕉門の隆盛には木因の力が大きかった。

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芭蕉は大垣に9月6日(陽暦10月18日)まで半月滞在し、この船町港から曽良と共に舟に乗り桑名に旅立った。木因らも途中まで同行し見送っている。芭蕉と木因の像の後ろに「木因俳句道標」という道しるべがある。谷木因が建てたもので 「南いせ くわなへ十り ざいがうみち」 の句である。

 その後に蛤塚がある。昭和32年に建立されたもので 「伊勢にまかりけるを ひとの送りけれは 蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ  はせを」 とある。毎年10月に近くの奥の細道むすびの地記念館で、蕉蛤塚忌(ばしょうこうちょうき)として献吟、献花などが行われる。同時に全国から募集した俳句を表彰する全国俳句大会が行われている。

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 桜並木の葉が赤く色づいた小路を通り、赤い手すりの住吉橋を渡ると、住吉燈台の近くに芭蕉送別連句塚があり、碑面には、『木因舟に而送り如行其外連 衆舟に乗りて三里ばかりしたひ候  「秋の暮 行先々ハ 苫屋哉   木因」 「萩にねようか 萩にねようか   ばせを」 「雰晴ぬ 暫ク岸に 立玉へ   如行」 「蛤のふたみへ別行秋ぞ   愚句(芭蕉)」  先如此に候  以上 はせを 九月廿二日』 という杉風あての書簡を拡大した伊勢に旅立つ日に詠まれた送別の連句が刻まれている。続いて如行霧塚として、芭蕉送別連句塚にもある 「霧晴ぬ 暫ク岸に 立給へ 如行」 の句碑がある。

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、その先には奥の細道文学碑という 「駒にたすけられて‐‐‐‐且つ悦び且ついたはる」 の大垣の段が刻まれた細長い石碑がある。更にその先には 「花にうき世 我酒白く めし墨し」 の芭蕉の赤い石柱の句碑がある。またむすびの地記念館の前には 「ふらすとも 竹植る日は みのと笠  芭蕉」。 田三反句塚として、木因亭に泊まって詠んだ 「木因何某隠居をとふ  はせを 『隠家や 菊と月とに 田三反』 」 など多くの句碑が設置されている。

 平成18年に訪れた時には、結びの地の前の道を挟んだ建物に「芭蕉元禄船町湊お休み処」という土産物店兼喫茶店兼案内所があった。その時の所長の話では、おくのほそ道を徒歩で巡った人や、3回も巡った人も来られたということで、札所巡りと同じ感覚でたどっている人が多いのだと思った。私自身は東北を旅するなら先ず奥のほそ道からと軽い気持ちだったのだが、芭蕉関連の本を読んだり、ユーキャンの俳句講座で俳句の添削を受けたりして、俳諧や芭蕉についてだいぶ理解が深まった気がする。

 また大垣市ではここの整備を進めていて、来春には案内所も今の3倍くらい大きくなるのだという話もしていたので楽しみだったのだが、平成21年に再訪した時には案内所ばかりでなく土産物や喫茶室も跡形も無くなっていた。大垣市もいろいろ大変なのかもしれないが、今後、芭蕉を偲び、おくのほそ道をたどる人たちが来た時、この結びの地でゆっくり休み、お茶の一杯も飲みながら思い出を語りたいと思っても、ベンチが一つあるだけの殺風景な休み場所しか無くなってしまったのはつくづく残念である。

 (H18‐11‐20訪・H21‐2‐21再訪)

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  注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です 

2009年3月20日 (金)

大垣(2)

ミニ奥の細道(水門川遊歩道[四季の道])

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 JR大垣駅を右手に少し行くと、愛宕神社という社がある。そこから大垣城の外濠になっている水門川に沿ってむすびの地まで遡る2.2kmを、ミニ奥の細道(水門川遊歩道「四季の路」)と名付け、奥の細道で芭蕉が詠んだ句の中から代表的な22句を選び、旅の順序に従って句碑が置かれている(平成16年に芭蕉生誕三百六十年記念として大垣市が設置)。出発点には、千住での矢立初の句である 「行く春や 鳥啼魚の 目ハ泪」 の句碑がある。

 水門川には橋が多く、その橋の間毎に句碑がひとつずつ在る様に配置されている。主な橋は橋の名や地名に因んでデザインされており、また橋の間隔が長いところは毎年行われる大垣市のコンクールで優秀賞をもらった句が対岸の石に大きく刻まれ、たどる人が飽きないように工夫されている。水門川は大垣城の西側から北川に流れ外濠の役を果たしているが、肝心の大垣城は平城なので水門川からは見えて来ない。

 句碑はいろいろな種類の石に達筆で刻まれており、デザインされた橋の多さと共に、大垣市は文化的に豊かな町のように感じた。人口は16万6千人とかで水の豊かな都市である。ミニ奥の細道句碑の22句を順に下記に記す。平成13年から始めた奥の細道をたどった8年間の情景を思い出しながら足を運んだ。

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 水門川は水量が多く、水も澄んでいて水草が茂り、鯉などの魚も多く泳いでいる。 千住を発つ時に詠んだ矢立初の句碑を見て細い牛尾橋を過ぎると、日光で詠んだ 「あなたふと 青葉若葉の 日の光」 の句碑がある。この句碑は派手な東照宮から少し離れた宝物館近くの閑静な場所にあったことを思い出す。

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広い平和橋を渡ると那須町芦野の遊行柳で詠んだ 「田一枚 植て立去ル 柳かな」 の句碑がある。その前に、那須野で詠んだ 「かさねとは 八重撫子の 名なるべし  曽良」 の良い句があるのだが、曽良の名になっているためか入っていない。岐阜町橋の先には白河の関を越えた時の 「風流の 初めや奥の 田植歌」 では無く、須賀川での 「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」 の句碑が置かれている。黒羽から雲巌寺、芦野は、奥の細道を辿る旅を志して、平成13年に最初に行った所であり、思い出に残る場所である。

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 次は最上橋を渡り、信夫の里、飯塚を過ぎて、笠島での 「笠嶋は いつこさ月の ぬかり道」 の句碑がある。その後の、武隈から仙台、塩竈、松島、石巻は省略されて、赤坂口橋から右に大きく曲がったところの貴船広場に、ひと際大きい石に彫られた平泉での 「夏艸や 兵共か 夢の跡」 の句碑がある。平泉は義経堂のあった高館からの北上川の流れや中尊寺金色堂、毛越寺庭園など印象深い場所が多かった。

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  貴船橋を過ぎると封人の家で詠んだ 「蚤虱 馬の尿する 枕もと」 の句碑がある。山刀伐峠に登る旧道の、車一台分の巾しかない山間の道を思い出す。更に小原橋の先に尾花沢での 「涼しさを 我宿にして ねまる也」 の句碑が続いている。大垣のメインストリートに架かる新大橋を渡ると、山寺立石寺での 「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」 の句碑がある。山寺の長い石段を登った後の五大堂からの眺望は素晴らしかった。

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  新外側橋を通ると最上川舟下りの 「さみたれを あつめて早し 最上川」 の句碑がある。ここに行った時は車だったので、舟下りは楽しめなかった。高岡橋の先には出羽三山の代表句として 「有難や 雪をかほらす 南谷」 の句碑がある。ここは月山の 「雲の峰 幾つ崩れて 月の山」 の句が欲しかった。平成20年に75才になってなんとか月山に登れた。眺望は無かったが多くの高山植物が鮮やかに咲いていたのが目に浮かぶ。

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  龍の絵が彫られている龍の口橋を渡ると、裏日本に入った酒田での 「暑き日を 海に入レたる 最上川」 の句碑がある。地元の人と話しながら日本海に沈む夕日を感動を持って眺め、スワンパークで物凄い数の白鳥が飛立った光景を思い出す。象潟での 「象潟や 雨に西施が 合歓の花」 は割愛され、武者溜橋を渡ると出雲崎での 「荒海や 佐渡によこたふ 天河」 の句碑がある。出雲崎は芭蕉より良寛の町だった。次の花月橋の所で川は直角に左手に曲がり、次の八幡大橋まで広く続いて橋上広場と名付けられている。その向いに八幡神社があり、湧水が滾々と湧き出ていて車で水を汲みに来る人が何人も居た。ここには芭蕉の 「折々に 伊吹をみては 冬ごもり」 の句碑が置かれている。

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 次の句碑は、市振での 「一家に 遊女も寝たり 萩と月」 である。市振の宿は艶やかな話の舞台だったが、現在は通る人も少ない寒村の風情で、その前の親不知海岸の印象が強い。丸の内橋を渡ると那古の浦での 「わせの香や 分入右は 有そ海」 の句碑がある。この辺は大伴家持の歌碑が多かった。興文橋を過ぎると、金沢での 「あかあかと 日は難面も 秋の風」がある。兼六園、犀川の畔、成学寺の3ヶ所に同じ句碑があった。この辺りの水門川の対岸には、市民の俳句を刻んだ碑が幾つも置かれている。こちらの岸からもよく読める大きさで、大会で入賞し句を刻んでもらった人はさぞ嬉しかったと思う。

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 清水橋を過ぎると、小松での 「しおらしき 名や小松吹 萩薄」 次の西外側橋の先には那谷寺での 「石山の 石より白し 秋の月」 の句碑があり、次の山中温泉の 「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」 の句は入らず、竹橋を渡った先に加賀全昌寺での 「庭掃て 出はや寺に 散柳」 の句碑がある。

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 俵橋を渡ると川は左折し、川幅も広くなり四季の広場という舟が置かれ、滝の水が流れる綺麗な公園に出る。そこに敦賀での 「名月や 北国日和 定なき」 の句碑が置かれている。川は更に右折し、川幅も元の広さに戻ったところに色の浜での 「さひしさや すまに勝ちたる 浜の秋」 の句碑がある。

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 色の浜での句碑と道を挟んで「奥の細道むすびの地記念館」がある。ここには芭蕉の大垣来遊、特に大垣俳壇の雄、谷木因との交流についての資料が多く、正面奥には水門川を臨む木因亭で芭蕉と路通を迎える木因との再会の場面を示した人形がある。記念館の前辺りから川に沿って多くの俳人の句碑が並ぶようになり、やがて船町港跡の「奥の細道むすびの地」に到着する。ここには、「蛤塚」として 「 蛤の ふたみに別 行秋ぞ」 の句碑が置かれ、千住の矢立初の句碑から大垣蛤塚まで22句の碑をたどる「ミニ奥の細道 芭蕉句碑めぐり」は終る。 

 (H18‐11‐20訪・H21‐2‐21再訪)

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  注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です 

2009年3月12日 (木)

大垣(1)

西村屋孫兵衛茶屋

 芭蕉は、数日後に大垣から迎えに来た路通と共に敦賀を発って美濃の国に向かった。路通は当初おくのほそ道の旅に同行することになっていたのだが、事情があって曽良が同行することになったのである。事情とはいろいろな説があるが、まず路通がずぼらで芭蕉の世話など出来るはずがないと門人一同が反対したという説。次は当時日光東照宮の修営を命ぜられていた仙台伊達藩の内情を調査するために、幕府巡見使の随員などをしていた曽良を同行するよう要請されたといういわゆる隠密説がある。

 また昨平成20年6月に、芭蕉がおくのほそ道に出発する2ヶ月ほど前に書いた新しい手紙が発見され、旅に同行する予定の路通が突然江戸を去って上方に向かったので「泪落としがちにて---」と記しているとの記事が11月の朝日新聞に掲載されていた。いずれにせよ、曾良が同行することになったため、旧暦3月27日に千住を出立してから8月4日に山中温泉で別れるまでの125日間に亘る旅の行程、天候、宿屋や出会った人々の名前などが克明に記した日記が残されたことは、後世、おくのほそ道を辿る者にとっては大変有難い事である。

 山中を出てからの芭蕉の行程は、まず吉崎御坊や永平寺に参拝したのか、敦賀までどこを通ったのか、敦賀を何時出立したのかなど不明な点が多い。敦賀から大垣までも様々なルートがあるのだが、おくのほそ道には 「露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、---」 とあるだけで、路通と同行した事と馬に乗った事だけしか記していない。

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 敦賀から次の宿泊地は近江の木之本である。道順は2通りあり、一つは現在の北陸自動車道が走っている柳ヶ瀬から北国街道に合流し余呉を経由する道であり、もう一つは現在の国道8号線のある塩津街道という道である。塩津街道を行くと、滋賀県との県境に新道野越えという峠があリ、そこに1軒の萱葺の大きな茶屋がある。ここは西村屋孫兵衛茶屋であり、入口近くに福滋県境孫兵衛茶屋の標柱と、「芭蕉翁と西村家という西村家の由来や芭蕉との関わりを刻んだ石柱が置かれている。

 西村家にはおくのほそ道の原本として知られている能筆家の柏木素龍が清書をし、題簽(だいせん=表題)を芭蕉が「おくのほそ道」と自筆した素龍清書本があるので、それを見せて貰うため立寄ったのである。

 この素龍清書本は、芭蕉が兄の半左衛門に預けていたが、臨終に際し、かねてからこれを欲しがっていた向井去来に譲る約束をし、去来は代わりに書写したものを半左衛門のもとに送った(いわゆる去来本、現存不明)。素龍清書本の方は去来の死後転々とした後、敦賀の俳人白崎琴路の許に移り、現在は琴路の親戚である西村家に伝わっており、国の重要文化財に指定されている。茶屋に展示しているのはその複製本で、元本は自宅の土蔵に保管してあるそうである。

 茶屋の主人の説明によると、素龍は2回清書しているそうで最初のは文字の角々がはっきりした楷書に近いものだったが、芭蕉から俳諧の書には相応しくない字体だとクレームがつき、流れるような行書体に変更したという。最初の書の初めの部分の写しも展示してあったが、それの方がよほど読み易く思えた。その清書したものは、兵庫県伊丹市にある俳諧コレクションで知られた柿衞文庫(かきもりぶんこ) が所蔵しているが、それには題簽が付けられておらず、また一部亡失している部分があるそうである。

 素龍清書本が完成したのは元禄7年4月で、元禄2年9月のおくのほそ道の旅から4年半が経過している。芭蕉が亡くなったのは同年10月である。そして8年後の元禄15年に、当時去来が所持していた素龍清書本を摸して、井筒屋が版元なって木版印刷として出版された。

 ところで私が原本を見たかったのは、市販の本には「市振」とか「敦賀」とかの区切りの表題がついているが、本によってそれがまちまちなので、原本はどうなっているかと思ったからである。主人に説明すると、「原本には区切りは全然無く、ずらっと書いてあるだけですよ」と複製本を展示場から出して見せてくれた。

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 撮影する許可を貰って表紙と最初の頁を写した。その時の説明で表題を題簽(だいせん)ということや、それを芭蕉が書いたと云う事ははじめて判った。これは平成17年に敦賀市で、国民文化祭俳句大会開催記念として写真複製したもので表紙の文字はだいぶ薄くなっているが、現在の原本はもっと薄れているとの話だった。またその時の複製本がまだ数冊残っていると言われた。値段はいくらかと聞くと3千円だという。折角おくのほそ道を巡っている事でもあり、記念にと買うことにした。

 書庫から出して来たのは桐の箱に入った立派なもので、床の間にも飾っておいても見栄えがすると思えるほどである。家に帰ってから中身を良く見ると句読点は無く、俳句、和歌の部分は行を変えて一段下げて書いている。しかし大きな区切りは行を変えており、それが市販本の区切りの表題を入れる場所なのだと思えた。最後に素龍の跋も入っている縦167ミリ、横144ミリ、108ページの小冊子である。

木之本

 孫兵衛茶屋から更に国道8号線を木之本に向かって走り、塩津の集落を過ぎると琵琶湖北岸に達する。左手に秀吉と柴田勝家との戦いで有名な賎ヶ岳が見えると木之本町で、孫兵衛茶屋から車で30分弱の距離である。

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 木之本は旧北国街道の大きな宿場町で、本陣、問屋、伝馬所が置かれたところである。以前から木之本地蔵院の門前町として賑わっていたが、江戸時代は北国街道と関ヶ原に続く北国脇往還との分岐点として繁栄していた。 そのため今でも「うだつ」や紅殻格子のある家々が続く街並みになっている。また室町時代から牛馬市が開かれたことでも知られており、山内一豊もここで妻の貯めた金子で名馬を買ったと伝えられている。敦賀の次の宿泊地は木之本宿が普通なのだが、ここには芭蕉についての痕跡は何も無かった。(写真は地蔵院、旧本陣、元庄屋、馬宿平四郎家跡)

 木之本を過ぎると左手に伊吹山を見ながら中山道に入り、関ヶ原を抜けた後、垂井から美濃路に分かれて終着点の大垣に到る行程になる。しかし芭蕉は 「駒にたすけられて大垣の庄に入ば」 としか記して居らず、途中何泊したのか、どこを通ったのかも不明である。

 芭蕉はこの辺りの道は通い慣れており、大垣へも貞享元年(1684)野ざらし紀行の時、貞享5年(1688)笈の小文の旅の帰路から更科紀行に引き続き出掛けた時に訪れている。そして今回は元禄2年(1689)おくのほそ道むすびの地として3回目の訪問である。ともあれ、大垣には陰暦8月20日か21日には到着した様子である。

 (H20‐12‐10訪)

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2009年3月 6日 (金)

種の浜(3)

西福寺

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 色浜からの帰り道、西福寺という寺院に寄る。この寺の書院庭園は国の名勝に指定されていて、紅葉が素晴らしいというので立寄ったのだが、あまり手入れされていない様子だった。また、この寺には曽良が立寄ったのに因んで、曽良文学碑が建てられている。芭蕉と曽良の旅姿と、曽良旅日記の西福寺に立寄った日の出来事を刻んだものである。(写真は西福寺庭園)

 曽良は敦賀に着いた日(8月9日)に気比神社に参拝し、宿を決めて金ヶ崎に行った。宿に戻ると、夕方色ヶ浜への便船があるというので、それに乗り夜半に色ヶ浜に着いた。その晩は本隆寺に泊まっている。翌朝、上宮への便船があったので常宮神社に参拝し、険しい道を越えて西福寺に行った。

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 曽良旅日記の8月10日の記述は 「十日 快晴。朝、浜出、詠ム。日連ノ御影堂ヲ見ル。巳刻、便船有テ、上宮趣(おもむく)、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン(難)所。帰ニ西福寺ヘ寄、見ル。申ノ中刻、ツルガヘ帰ル。夜前、出船前、出雲ヤ弥市良ヘ尋。隣也。金子壱両、翁ヘ可渡之旨申候、預置也。夕方ヨリ小雨ス。頓テ(やがて)止。」 となっており、その全文と解説が曽良文学碑に彫られている。出雲屋弥市良は芭蕉が泊まることにしていた旅籠で、曽良はその隣の大和屋という旅籠に泊まった。(写真は曽良文学碑とその右半分)

 翌11日には天屋五郎右衛門を尋ねて芭蕉への手紙を書き、預けている。天屋五郎右衛門(俳号玄流)は種の浜(1)で述べた様に、舟を出して賑やかに芭蕉と種の浜まで同行した敦賀の分限者である。曽良は、その後10時ごろ敦賀を発ち、17時ごろ木之本に着いた。と記している。

 曽良が8月5日に山中で芭蕉と別れてからの日程をたどると5~6日は全昌寺に泊まり、7日は吉崎から塩越に行き、8日には今庄に泊まっている。9日に敦賀に着いてからも芭蕉の行く先々に廻り、手紙や金子を預けるなど精力的に動いていて、とても病人とは思えない。矢張り山中での別れは感情の行き違いがあったのだろうか。

 この後曽良は、14日に大垣に着いて有力な俳人である如行宅を訪ね月見をしたと記している。山中温泉から芭蕉は15日の中秋の名月は大垣で迎えられるだろうと如行に手紙を出していたが、小松に戻ることになったので、曽良に芭蕉の到着が遅れると伝えるため先行させたのかも知れない。曽良は翌15日に伊勢長島(桑名市)に着き、叔父が住職をしている大智院という寺に半月ほど滞在して養生した後、9月2日に大垣に戻り芭蕉と再会するのである。

  (H18‐11‐20訪・H20‐12‐9再訪)

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2009年3月 1日 (日)

種の浜(2)

種の浜(いろがはま)

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 色ヶ浜地区は敦賀市内から原子力発電所に通じる道を12キロほど行った所にある敦賀湾に面した小さな村落である。県道の色ヶ浜入口から狭い道に入るとすぐに本隆寺開山堂がある。本隆寺は日蓮宗の寺で日隆上人を開基としており、その日隆を祀ったのが開山堂である。境内には芭蕉がここを尋ねる因になった西行の 「潮染むる ますほの小貝ひろふとて 色の濱とはいふにやあるらむ」 の歌碑と、寂塚として芭蕉の 「寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋」 の句碑が置かれている。

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 開山堂から部落の中央近くにある本隆寺に行く。ここには芭蕉翁月一夜十五句の一つである 「衣着て 子貝拾わん 色の月」 の句碑と、等栽の文に収録されている 「小萩ちれ 増穂の小貝 小盃  桃青」 の萩塚という句碑がある。後の句は、おくのほそ道に記されている「波の間や 子貝にまじる 萩の塵」の初案のものである。

 おくのほそ道の種の浜(いろがはま)の段の後半は、「浜はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘しき法花寺あり。爰(ここ)に茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。 寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋   波の間や 小貝にまじる 萩の塵  その日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。」となっている。 酒肴も積み込んで賑やかに海上を行ったのだが、着いてみると家もまばらな寒漁村で侘しさが募った様子である。

 「侘しき法花寺」である本隆寺には、等栽の文書が残っている。「気比の海のけしきに愛で、種の浜の色に移りてますほの貝とよみ侍りしは、西上人の形見なりけらし、されば所の小童まで、その名を伝へて、汐の間をあさり、風雅の人の心を慰む。下官(やつがれ)年ごろ思ひ渡りしに、このたび武江芭蕉庵桃青巡国のついで、この浜に詣ではべる。同じ舟にさそはれて、小貝を拾ひ、袂つゝみ、盃にうち入れなんどして、かの上人の昔をもてはやすことなむ。 越前ふくい洞栽書  小萩散れますほの小貝小盃  桃青」 というものである。

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 部落入口から海を眺めると明るいコバルトブルーの先に水島という珊瑚礁のような砂州で出来た島がある。島の端の方に小さな松林があり、手前にある紺碧の水面と島近くのコバルトブルーに変わった水の色と砂の白、松の緑、空の青が素晴らしく、美しい景観を形作っている。更にその先を北海道に行くフェリーがゆっくりと走っていた。夏は海水浴で賑わい、他の季節でも釣りをする人が多く訪れるようで、釣宿の民宿がたくさんある。あいにく曇っていたが、晴れた日に日がな一日この景色を眺めていたら日ごろの鬱屈も吹き飛んでしまうだろう。

 (H18‐11‐20訪・H20‐12‐9再訪)

  注1:写真をクリックすると大きくなります。

  注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です 

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