種の浜(3)
西福寺
色浜からの帰り道、西福寺という寺院に寄る。この寺の書院庭園は国の名勝に指定されていて、紅葉が素晴らしいというので立寄ったのだが、あまり手入れされていない様子だった。また、この寺には曽良が立寄ったのに因んで、曽良文学碑が建てられている。芭蕉と曽良の旅姿と、曽良旅日記の西福寺に立寄った日の出来事を刻んだものである。(写真は西福寺庭園)
曽良は敦賀に着いた日(8月9日)に気比神社に参拝し、宿を決めて金ヶ崎に行った。宿に戻ると、夕方色ヶ浜への便船があるというので、それに乗り夜半に色ヶ浜に着いた。その晩は本隆寺に泊まっている。翌朝、上宮への便船があったので常宮神社に参拝し、険しい道を越えて西福寺に行った。
曽良旅日記の8月10日の記述は 「十日 快晴。朝、浜出、詠ム。日連ノ御影堂ヲ見ル。巳刻、便船有テ、上宮趣(おもむく)、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン(難)所。帰ニ西福寺ヘ寄、見ル。申ノ中刻、ツルガヘ帰ル。夜前、出船前、出雲ヤ弥市良ヘ尋。隣也。金子壱両、翁ヘ可渡之旨申候、預置也。夕方ヨリ小雨ス。頓テ(やがて)止。」 となっており、その全文と解説が曽良文学碑に彫られている。出雲屋弥市良は芭蕉が泊まることにしていた旅籠で、曽良はその隣の大和屋という旅籠に泊まった。(写真は曽良文学碑とその右半分)
翌11日には天屋五郎右衛門を尋ねて芭蕉への手紙を書き、預けている。天屋五郎右衛門(俳号玄流)は種の浜(1)で述べた様に、舟を出して賑やかに芭蕉と種の浜まで同行した敦賀の分限者である。曽良は、その後10時ごろ敦賀を発ち、17時ごろ木之本に着いた。と記している。
曽良が8月5日に山中で芭蕉と別れてからの日程をたどると5~6日は全昌寺に泊まり、7日は吉崎から塩越に行き、8日には今庄に泊まっている。9日に敦賀に着いてからも芭蕉の行く先々に廻り、手紙や金子を預けるなど精力的に動いていて、とても病人とは思えない。矢張り山中での別れは感情の行き違いがあったのだろうか。
この後曽良は、14日に大垣に着いて有力な俳人である如行宅を訪ね月見をしたと記している。山中温泉から芭蕉は15日の中秋の名月は大垣で迎えられるだろうと如行に手紙を出していたが、小松に戻ることになったので、曽良に芭蕉の到着が遅れると伝えるため先行させたのかも知れない。曽良は翌15日に伊勢長島(桑名市)に着き、叔父が住職をしている大智院という寺に半月ほど滞在して養生した後、9月2日に大垣に戻り芭蕉と再会するのである。
(H18‐11‐20訪・H20‐12‐9再訪)
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