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2009年2月21日 (土)

種の浜(1)

常宮神社

 芭蕉は陰暦8月14日夕刻に敦賀に着き、その日のうちに金ヶ崎城跡に行った。その夜は晴れたが、北国の天気は変わり易いと宿の主に言われて中秋の名月の前夜だが、気比神社に参詣した。翌15日は雨になって外出できず、16日に舟で種の浜(いろがはま)に渡った。

 おくのほそ道の種の浜(いろがはま)の段の前半は、「16日、空霽(はれ)たれば、ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠(わりご)・小竹筒(ささえ)などこまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。」 と酒肴を用意し、多くの下僕を従えて賑やかに舟で行ったとある。

 天屋何某は天屋五郎右衛門という回船問屋で、俳号を玄流という分限者である。破籠はかぶせ蓋で中に仕切りのある食べ物を入れる折箱で、小竹筒は酒を携行する時の竹筒である。当時、色の浜がある敦賀半島には道が通じておらず、船でなければ行けなかったのである。現在は敦賀原発に通じる立派な道路があり、敦賀市街地から1時間足らずで行ける様になった。

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 色の浜への中間地点に常宮神社がある。神社の参道入口近くに、「月清し 遊行のもてる 砂の上」 の句が大きな石に刻まれている。200年ほど前に造られたものということで、だいぶ磨耗して読めないほどである。この神社の祭神は神功皇后で、気比神宮の祭神である仲哀天皇の妻で、お産の常宮さんとしてあがめられている。(写真は常宮神社本殿と芭蕉句碑)

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 毎年7月22日には、気比神宮から祭神が船で海を渡って来る総参祭という神事がある。それを迎えるため神社の拝殿は海に面した大きな舞台として作られているが、遮るものも無く敦賀湾が一望の下に見渡され暫らくそこからの景観を楽しんだ。境内には巨木が立ち並んで静かな雰囲気である。山門の前に貝殻が沢山置かれていたが、その中に「ますほの貝」と表示がされた小皿があった。数ミリ程度の小さい貝である。写真を撮ったがあまりにも小さくてボケてしまった。欲しい人は持ち帰って良いと書いてあったので4粒ほど頂いた。最初に訪問した時は本殿の両側には紅葉が真っ赤に色付いて、華やかに彩りを添えていた。(写真は常宮神社拝殿とますほの貝)

 曽良は種の浜(いろのはま)からの帰路、常宮までの便船に乗り、この神社に参詣している。敦賀から常宮までは山越えの小道があったようである。

  (H18‐11‐20訪・H20‐12‐9再訪)

  注1:写真をクリックすると大きくなります。

  注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です

 

2009年2月17日 (火)

敦賀(3)

水戸天狗党の墓

 おくのほそ道とは無関係だが、茨城県水戸市に居住する者として、敦賀は天狗党の乱の悲惨な結末を迎えた地として特別な思いを持つ場所である。

 芭蕉翁月塚を見た後、降り続ける雨の中を武田耕雲斎等の墓に行く。明治維新の4年前の元治元年(1864)3月に藤田小五郎らの水戸藩士が藩政を尊皇攘夷に変えるべく筑波山に挙兵した。天狗党の乱である。しかし優勢な幕府軍と水戸門閥派に追われて、武田耕雲斎を首領として京都に赴き、一橋慶喜に攘夷決行の志を訴えようと言うことになり、総勢八百名が中山道を西上した。

 途中和田峠で幕府軍を破り、美濃から雪中の峠越えをして越前に入るなど苦労して敦賀近くまで進んだが、頼りとした一橋慶喜が追討の総帥になったと聞いて降伏した。しかし慶喜は、無情にも全員を幕府側に引き渡したため、水戸門閥派と結託していた追討軍総括の田沼意尊によりニシン倉に幽閉された後、翌慶応元年(1865)2月に犯罪者として353名が斬首され、百余名が遠島、軽輩者が追放という悲惨且つ過酷な処分がなされたのである。

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 そのわずか3年後に明治維新が成立した。最近亡くなった吉村昭著の「天狗騒乱」にその内容が詳しく書かれている。このときの騒乱で水戸藩は有為な人材をことごとく失い、明治新政府で活躍する余地がなくなったのである。明治になり名誉回復がなされ、敦賀の有志により処刑場跡に「水戸烈士追悼之碑」が建てられ、武田耕雲斉のブロンズ像と353名の墓石が設置された。

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 道路を挟んだ松原神社は天狗勢411名を祀って建てられたもので、境内にはニシン倉が記念館として残っている。水戸市の二十三夜尊の近くにある回天神社にも敦賀から移設されたニシン倉が当時の記念として設置されている。墓に行く参道の両側には歴代の茨城県知事、県会議長、水戸市をはじめとする関係市町村長などの献樹が沢山植えられている。雨のそぼ降るなか茨城県民の一人として往時を偲び、志が果たせず無念な最期を遂げた多くの水戸藩士の冥福を祈った。

 (H18‐11‐19訪)

 注:写真をクリックすると大きくなります。

敦賀(2)

気比神社

 芭蕉は陰暦8月14日夕刻。中秋の名月の前夜に越前福井から敦賀に着いた。「その夜月殊にはれたり。『明日の夜もかくあるべきにや』と言へば、『越路の習ひ、なほ明夜の陰晴はかりがたし』とあるじに酒すすめられて、気比の明神に夜参す。」 と宿の主に明晩も晴れるかどうか北国の天気は分らないと言われ、その夜のうちにほろ酔い気分で気比神宮に参詣した。と、おくのほそ道に記している。

 気比神宮は越前一の宮として仲哀天皇などを祀っており、古事記,日本書紀にも出てくる古い社で門扉には菊の御紋章が飾られている。仲哀天皇の父は日本武尊である。また妃は新羅に遠征した神功皇后でその子供は応神天皇である。天皇家は神武天皇の系譜がこの頃絶たれて、鉞(越)の国から新たに応神天皇が来て即位したとの説があり、皇室と関係の深い神社である。

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正面入口にある大鳥居は奈良の春日大社、広島の厳島神社と共に日本三大鳥居の一つといわれている。大鳥居をくぐった境内の右側の広場に芭蕉の像がある。旅の終りに近い安堵の表情の芭蕉を、富永直樹氏(日本芸術院会員・日展審査委員長)が像にしたそうである。台座には「月清し 遊行のもてる 砂の上」の句が刻まれている。

 おくのほそ道には、「遊行二世の上人大願発起の事ありて、みづから草を刈り土石を荷ひ(にない)、泥濘をかわかせて参詣往来の煩(わづらい)なし。古例今に絶えず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申し侍ると亭主の語りける。 月清し 遊行のもてる 砂の上 15日、亭主の詞にたがはず雨降る。 名月や 北国日和 定めなき」と続いている。

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 気比神宮正面の大鳥居から大通りを隔てた向い側に、土地の男と二人で土石を入れたもっこを担いでいる上人と土を掘っている男の3人の像が設置され、その側にお砂持ち神事の由来を記した案内板が置かれている。

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 芭蕉像の傍らには「芭蕉翁月五句」の句碑がある。気比神宮に参詣した翌日の中秋は雨になり、宿で「旅泊の興」として月の句を15句詠んだ。そのうち前半の7句は福井(1)から敦賀(1)で説明したが、後半のうち5句が刻んである  「国々の 八景更に 気比の月」 「月清し 遊行のもてる 砂の上」 「ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月」 「月いつく 鐘は沈る 海の底」 「名月や 北国日和 定なき」 の5句である。おくのほそ道の旅も終章に近く、句碑にものんびりとした風情が感じられる。

金ヶ崎

気比神宮から車で5分ほどの敦賀港を見下ろす小高い山に金ヶ崎城跡がある。ここは南北朝時代に、後醍醐天皇の皇子恒良親王,尊良親王と新田義貞の南朝軍が立て籠もり足利軍に敗れた古戦場である。また戦国時代、織田信長が越前朝倉氏討伐の時、この城に陣を張ったが、近江浅井氏の裏切りで退路を絶たれそうになり総退却をした。その時木下藤吉郎がしんがりを引き受け、頭角を現すきっかけになった城でもあり、国の史跡になっている。

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 中腹に恒良親王,尊良親王を祀った金崎宮がある。境内には紅葉の大木が数十本あるが、11月下旬にはまだ青々とした葉を付けていた。神社の裏手から城址に続く道を花換の小道といい、桜並木の続く敦賀湾が一望できる小径である。そこから敦賀の市街地と港が見える。明治大正時代はウラジオストックの玄関口だったそうで、赤レンガ倉庫や旧敦賀港駅舎などがあり、港町独特の雰囲気を漂わせている。現在は北海道苫小牧との間にカーフェリーが運航している。

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城跡の上り口に金ヶ崎金前寺がある。芭蕉はここに遊んだということで、芭蕉翁鐘塚という句碑がある。「月いづく 鐘は沈る 海のそこ」 の句で、月五句の中の1句である。新田義貞の軍が敗れた時の陣鐘を後で引き揚げようとしたが、逆さに沈んでいて引き揚げられなかった話を聞いて詠んだという。訪れた時は雨模様で金崎宮入り口にある落城や退却の説明文を読むのには打って付けの天候だった。

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 港近くにある市民文化センターに行く。正面玄関近くに芭蕉翁月塚という立派な句碑ががあり、気比の海の題目で 「国々の 八景更に 気比の月」 の句が刻まれている。脇に解説の碑があり、月一夜十五句が戦後大垣市で発見され世に出たことなどが記されている。

 (H18‐11‐19訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

2009年2月 9日 (月)

敦賀(1)

今庄付近

 福井の芭蕉と等栽は、中秋の名月を敦賀で見ようと旅立った。その道中をおくのほそ道には 「名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾おかしゅうからげて、路の枝折(しおり)とうかれ立。漸(ようよう)白根が嶽かくれて、比那が嵩(だけ)あらわる。あさむつの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾(ゆのお)峠を越れば燧が城、かえるやまに初鴈(かり)を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」 と記している。

 芭蕉は等栽と共に敦賀を目指して楽しく出立したのは陰暦8月12日と思われる。おくのほそ道にある「路の枝折」とは道案内のことである。その後に地名が沢山出てくるが、「白根が嶽」は加賀の白山で標高2702メートルの高山である。次の「比那が嵩」は越前市武生の日野山のことでこちらは794メートルの低山である。「あさむつの橋」、「玉江の蘆」は玉江跡、あさむつ橋で順序が逆になっている。芭蕉は等栽宅で月一夜十五句の一つを詠んだが、福井(2)に記したように、この二ヶ所でもそれぞれ月の句を詠んでいる。

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 県道30号線の浅水のあさむつ橋を過ぎると、福井市から鯖江市に入る。更に南下すると越前市武生で、昔は越前国府が置かれ、府中宿といわれていた。その中心部に「蔵の辻」という江戸時代以降、物資の中継地点として栄えた商家や白壁の土蔵が集まっているのを整備し直した場所がある。一休みするのに良い所である。武生は紫式部が父の越前国司だった時、2年間少女時代を過ごした。 おくのほそ道に「比那が嵩」と書かれた日野山は武生の郊外にある「越前富士」とも呼ばれる美しい山で、紫式部は、そこに雪が積もる様子を眺め 「ここにかく ひのの杉むら うづむ雪 をしほの松に けふやまがへる」 と詠んだ。芭蕉も 月一夜十五句の中で、「あすの月 雨占なはん ひなが嶽」 と詠んでいる。(写真は蔵の辻)

 武生から国道365号線に入り南条に行く。駅を過ぎて旧道を少し行った関ケ鼻集落口に「鶯の関跡」の石碑があるという。 「うぐいすの 啼きつる声にさそはれて ゆきもやられぬ関の原かな」 という歌から鶯の関と呼ばれるようになったそうである。次の宿が湯尾で、そこから旧北国街道は「湯尾峠」に上り、今庄宿に下るのである。

 現在の国道365号線は山すそを大きくカーブして燧の集落を経て今庄に通じており、湯尾峠への路はハイキングコースになっていて車では行けない。この辺りは雪が多く残り、峠への路は通れそうも無かった。芭蕉は湯尾峠で月一夜十五句の一つである 「月に名を 包みかねてや いもの神」 の句を残しており、句碑もあるとの事である。いもの神とは峠の頂上にある孫嫡子神社という疱瘡の守り神の事で、ここの守り札が疱瘡除けに効能があるということで有名だったそうである。

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 今庄の駅を過ぎ、「燧ヶ城」址の案内があった県道207号線に入る。さらに案内板に従って脇道に入ったが、雪が多くあり、燧ヶ城址に行く道は通行止めになっていた。この城は木曽義仲が平家と対峙した時、味方の裏切りによって敗れた所である。芭蕉はそれを偲び 「義仲の寝覚めの山か月悲し」 (芭蕉翁月一夜十五句)の句を詠んだ。その句碑は此処では無く倶利伽羅峠に置かれている。(平成10年8月、金沢(1)参照)。(写真は燧ヶ城址下の集落)

 「かえるやま(帰山)」は福井県南条郡今庄町南今庄にある低い丘で、鹿蒜(かひる)神社があるという。 「越えかねて今ぞ越路へかへる山雪ふる時の名にこそありけれ」(千載集 源頼政) 「頼めてもかるけかるべき帰山幾重の雲の下に待つらむ」(新古今集 加茂重政) などにより歌枕になっているが、昔は木の芽峠一帯の山並みを「かへる山」と称したとされている。木の芽峠は越の中山とも言われ、今庄から北国街道と分かれて敦賀に向かう西近江路の途中にある峠で、木曽義仲や水戸天狗党も通ったところである。

 芭蕉はこの木の芽峠で、「中山や 越路も月は また命」 (芭蕉翁月一夜十五句)の句を詠んだ。これは東海道の小夜の中山で西行法師が69才の時に 「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山」 と詠んだことを思い浮かべて詠んだ句であるが、句碑は置かれていない。

  国道365号線で道路工事をしていた人が「敦賀への道は雪で通行止めだよ」というので、今庄ICまで戻って高速道路で敦賀ICに行くことにした。冬の北陸路は常に雪のことを考えに入れておかなくてはいけないと痛感した。(H20‐12‐9訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

 

2009年2月 5日 (木)

福井(2)

玉江跡

 左内公園から15分ほど鯖江に向かって県道30号線を南下すると北陸本線越前花堂という駅があり、花堂(はなんどう)地区に出る。この近くに月の名所の玉江があったといわれている。新古今和歌集、藤原俊成の 「夏刈の 蘆のかりねもあはれはり 玉江の月のあけがたのそら」 後拾遺集、杉山重行の 「夏かりの 玉江の蘆をふみしだき むれ居る鳥のたつ空ぞなき」 の和歌によって歌枕の地とされている。

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 しかしナビでもその場所が分からずにコンビニででも聞こうと思っていた矢先に、丁度交番がありお巡りさんに教えてもらった。それによるとメイン道路の一筋裏側に昔の北陸街道があり、そこの狐川という小川に架かる玉江二の橋の畔に石碑があると教えられた。行ってみるとそこが目指す地点で、親鸞聖人の片葉の葦の伝説を刻んだ碑と、玉江跡として芭蕉の 「月見せよ玉江の芦を刈らぬ先」 (芭蕉翁月一夜十五句)を刻んだ碑が置かれていた。道路に沿った民家も鄙びたものが多く、いかにも旧街道の感じだった。(写真は石碑と街道筋の民家)

あさむつ橋

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 更に旧街道を15分ほど南下し、北陸本線浅水駅近くの浅水(あそうず)という地区にあるあさむつ橋に着く。この橋は清少納言の「枕草子」の橋づくしに 「橋は、あさむづの橋。ながらの橋。浜名の橋----」 と載せられるほど昔から知られた橋だそうで、現在の橋は5メートルほどだが、以前は25メートル近くある大きな橋だったそうである。また旧浅水(あそうず)宿は北国街道と美濃街道との分岐点として賑わったところである。

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 橋の袂にはあさむつ橋の由来を刻んだ石碑と西行の 「越に来て 富士とやいはん角原に 文殊がたけの雪のあけぼの」 の歌、及び芭蕉の 「朝六つや 月見の旅の 明けはなれ」 (芭蕉翁月一夜十五句)の句を刻んだ碑がある。現在の旧北国街道に沿った浅水地区は明治天皇の休憩所になった家など風格のある家々が並び、ゆったりした時が流れる風情だった。

(H20‐12‐9訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です

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