福井(1)
福井
芭蕉は福井で十何年振りかで等栽という知人に会う。芭蕉より10才以上年上だったと思われる等栽と再会し、その家に2晩泊まった後一緒に敦賀に行くのである。福井は昭和20年の福井大空襲と昭和23年の福井大地震で壊滅的な打撃を受け、昔の城下町の面影は殆ど残っていない。まして須賀川での可伸庵のような、等栽が住んでいた鄙びた庵は残っていないのである。しかし僅かに等栽宅の跡地として、福井市街地南部の足羽川を渡った先の足羽山の麓にある左内公園の一隅に碑が建っている。(写真は佐内公園の橋本佐内の銅像)
左内公園は、26歳の若さで安政の大獄により刑死した、幕末の越前藩の志士である橋本佐内を記念して作られた公園で、左内の大きな銅像と橋本家の墓地がある。その一隅にここが芭蕉が訪れた等栽が住んでいた場所であるとして、「芭蕉宿泊地洞哉宅跡」と記された記念碑と「名月の 見所問ん 旅寝せむ」の句碑が置かれている。
またそれと並んで「洞哉と左内町」として街の絵図と、芭蕉がおくのほそ道に記した等栽との出合の解説文及び蕪村が画いた等栽宅に芭蕉が訪れた絵を焼付けた解説板がある。おくのほそ道には「福井は三里ばかりなれば、夕食したためて出づるに、たそがれの路たどたどし、ここに等栽といふ古き隠士あり。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋ぬ。はるか十年余りなり。いかに老いさらぼいてあるにや、はた死にけるにやと人に尋ね侍れば、いまだ存命してそこそこと教ゆ。」と等栽の消息について記し、その後等栽の家に尋ねて行き、「市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕皃(ゆうがお)、へちまの延(は)へかかりて、鶏頭、はは木々に戸ぼそをかくす。」と記しているが、その文を引用し、蕪村が画いた絵と共に掲げてある。
更にその隣には「芭蕉と月の句」として芭蕉が越前で詠んだ芭蕉翁月一夜十五句が、詠まれた場所の絵図と共に表示された解説板が置かれている。芭蕉は八月十五日の中秋の名月を敦賀で見れるように日程を調整して福井の等栽と共に出掛けたのだが、その道中でも多くの月の句を詠んでいる。
月一夜十五句のうち次の十四句が現在残っている。 「名月の見所問はん旅寝せん」(福井) 「あさむつを月見の旅の明け離れ」(あさむつ橋) 「月見せよ玉江の芦を刈らぬ先」(玉江橋) 「明日の月雨占なはん比那が嶽」(日野山) 「月に名を包みかねてや痘瘡の神」(湯尾) 「義仲の寝覚めの山か月悲し」(燧ヶ城) 「中山や越路も月はまた命」(越の中山) 「国々の八景さらに気比の月」(敦賀) 「月清し遊行の持てる砂の上」(敦賀) 「名月や北国日和定めなき」(敦賀) 「月いづく鐘は沈める海の底」(敦賀) 「月のみか雨に相撲もなかりけり」(敦賀) 「古き名の角鹿や恋し秋の月」(敦賀) 「衣着て小貝拾はん種の月」(種の浜) がその十四句である。
おくのほそ道敦賀の段には、「比那が嵩(だけ)あらはる。あさむつの橋をわたりて、玉江の蘆(あし)は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧ヶ城、かえるやまに初鴈(かり)を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」と歌枕の地を羅列しているが、十四句のうち前半の七句はこれらの歌枕の地で詠まれたものである。
(H20‐12‐9訪)
注1:写真をクリックすると大きくなります。
注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です




















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