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2009年1月24日 (土)

福井(1)

福井

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 芭蕉は福井で十何年振りかで等栽という知人に会う。芭蕉より10才以上年上だったと思われる等栽と再会し、その家に2晩泊まった後一緒に敦賀に行くのである。福井は昭和20年の福井大空襲と昭和23年の福井大地震で壊滅的な打撃を受け、昔の城下町の面影は殆ど残っていない。まして須賀川での可伸庵のような、等栽が住んでいた鄙びた庵は残っていないのである。しかし僅かに等栽宅の跡地として、福井市街地南部の足羽川を渡った先の足羽山の麓にある左内公園の一隅に碑が建っている。(写真は佐内公園の橋本佐内の銅像)

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 左内公園は、26歳の若さで安政の大獄により刑死した、幕末の越前藩の志士である橋本佐内を記念して作られた公園で、左内の大きな銅像と橋本家の墓地がある。その一隅にここが芭蕉が訪れた等栽が住んでいた場所であるとして、「芭蕉宿泊地洞哉宅跡」と記された記念碑と「名月の 見所問ん 旅寝せむ」の句碑が置かれている。

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 またそれと並んで「洞哉と左内町」として街の絵図と、芭蕉がおくのほそ道に記した等栽との出合の解説文及び蕪村が画いた等栽宅に芭蕉が訪れた絵を焼付けた解説板がある。おくのほそ道には「福井は三里ばかりなれば、夕食したためて出づるに、たそがれの路たどたどし、ここに等栽といふ古き隠士あり。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋ぬ。はるか十年余りなり。いかに老いさらぼいてあるにや、はた死にけるにやと人に尋ね侍れば、いまだ存命してそこそこと教ゆ。」と等栽の消息について記し、その後等栽の家に尋ねて行き、「市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕皃(ゆうがお)、へちまの延(は)へかかりて、鶏頭、はは木々に戸ぼそをかくす。」と記しているが、その文を引用し、蕪村が画いた絵と共に掲げてある。

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 更にその隣には「芭蕉と月の句」として芭蕉が越前で詠んだ芭蕉翁月一夜十五句が、詠まれた場所の絵図と共に表示された解説板が置かれている。芭蕉は八月十五日の中秋の名月を敦賀で見れるように日程を調整して福井の等栽と共に出掛けたのだが、その道中でも多くの月の句を詠んでいる。

 月一夜十五句のうち次の十四句が現在残っている。 「名月の見所問はん旅寝せん」(福井) 「あさむつを月見の旅の明け離れ」(あさむつ橋) 「月見せよ玉江の芦を刈らぬ先」(玉江橋) 「明日の月雨占なはん比那が嶽」(日野山) 「月に名を包みかねてや痘瘡の神」(湯尾) 「義仲の寝覚めの山か月悲し」(燧ヶ城) 「中山や越路も月はまた命」(越の中山) 「国々の八景さらに気比の月」(敦賀) 「月清し遊行の持てる砂の上」(敦賀) 「名月や北国日和定めなき」(敦賀) 「月いづく鐘は沈める海の底」(敦賀) 「月のみか雨に相撲もなかりけり」(敦賀) 「古き名の角鹿や恋し秋の月」(敦賀) 「衣着て小貝拾はん種の月」(種の浜) がその十四句である。

 おくのほそ道敦賀の段には、「比那が嵩(だけ)あらはる。あさむつの橋をわたりて、玉江の蘆(あし)は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧ヶ城、かえるやまに初鴈(かり)を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」と歌枕の地を羅列しているが、十四句のうち前半の七句はこれらの歌枕の地で詠まれたものである。

(H20‐12‐9訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です

2009年1月 9日 (金)

天龍寺・永平寺

天龍寺

 越前に入った芭蕉は、汐越の松を見た後、福井県永平寺町と合併した旧松岡町にある天龍寺という永平寺の末寺に向かった。この寺の住職である大夢和尚とは以前からの知り合いだったという。

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 旧松岡町役場の近くにある天龍寺の境内は山門も無く開けており、前庭に余波(なごり)の碑として芭蕉と北枝を刻んだ石像がある。その隣に 「物書て 扇引さく 餘波哉」 の句碑がある。おくのほそ道には「金沢の北枝といふ者、かりそめに見送りて、この所までしたひ来る。所々の風景過(すぐ)さず思ひつづけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既に別れに臨みて、物書て 扇引さく 余波哉 (なごりかな) 」と、ここで北枝と別れたと記されている。北枝は、脇句として 「笑ふて雰(きり)に きほい出ばや」 と付け、切ない別れを笑いに紛らわそうとしている。

北枝は加賀藩お抱えの砥師で小松に住んでいるが、芭蕉が金沢に来た時に兄牧童と共に入門したもので、そのときはまだ二十歳前後だったと思われる。その後北陸俳壇の中心人物となり蕉門十哲の一人に挙げられるようになった。芭蕉に山中温泉で教えられたことを「山中問答」として記している。

 芭蕉と北枝が実際に別れたのは吉崎御坊のもっと手前の加賀と越前の国境に近い「橘の茶屋」であるとの説もある。芭蕉の弟子の各務支考が北陸を旅した時のことを記した『古今抄』にそう書いてあるという。国境には関があり越えるにも帰るにも手形が必要なため、面倒を避けて国境の手前で別れたという方が自然であるが、これも曾良という同行者が居ないため実情は不明である。

永平寺

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 おくのほそ道では丸岡天龍寺の記述の後、永平寺について 「五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かかる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや」 と記してあり、参拝したと思われるが、曾良が同行していないので裏付けになる資料が無く、実際の道程や真偽のほどは不明である。芭蕉の行く先々を先行して訪れている曽良は永平寺には参詣していないし、永平寺にも芭蕉の足跡を偲ぶものは何も無いのである。(写真は永平寺入口付近と勅使門)

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 私が永平寺を平成17年に訪れた時、調理場である大庫院の近くが人で一杯になっていた。昼近くで食事の前の「僧食九拝」という礼拝を行おうとするところだったのである。大庫院の前に吊るしてある雲版と呼ばれる青銅製の板を打ち鳴らすのを合図に、盛付けられた食事を卓上に安置し、僧堂に向かって香を焚き九拝する。それが終了し合図の打ち鳴らすと待機していた雲水たちが食事を僧堂に運ぶのだが、その間大庫院の前は通行禁止になり混雑するのである。珍しい行事を見た気がした。(写真は大庫院)

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 七堂伽藍の中心にあり釈迦牟尼佛が祀られている仏殿から、聖観世音菩薩が安置され、伽藍の最奥にある法堂を拝観し、西側にある承陽殿に行く。ここは「只管打坐(しかんたざ)」を標榜して曹洞宗を開き、永平寺を開山した道元禅師の廟である。(写真は仏殿)

 道元禅師は名利栄達を求めず、ただひたすらに座禅を組むことによって悟りを得ることを宗派の基本とし、都から遠く離れた永平寺を本山としたのだが、三世の義介が開祖の教えに反し時の権力と結びついて大伽藍の寺院を次々と建立した。それを道元の書記役をしていた義演が攻撃し、義介を追って永平寺四世になった。義介は加賀に去り大乗寺を開山し、大乗寺二世の螢山と共に大衆化路線を強めて曹洞宗を全国に広げたそうである。(司馬遼太郎著「街道を行く-越前の諸道」)。

 北陸の名刹といわれる大伽藍の寺院の多くは大本山永平寺をはじめ、「伽藍瑞龍、規矩大乗」と称される高岡の瑞龍寺,金沢の大乗寺や螢山禅師の拓いた能登の総持寺祖院など、曹洞宗寺院が多く、北陸に於ける勢力のほどが伺える。

 芭蕉はその後、福井の等栽を尋ねていくのだが、おくのほそ道の半年に亘る道中のうち、山中までは曽良が同行し、山中から小松に戻った後天龍寺までは北枝と一緒である。この後福井から敦賀までは等栽、敦賀から大垣までは路通が同行しており、芭蕉が一人だけで旅をしたのは天龍寺から永平寺を経由して(?)福井に着くまでの1日だけである。いつも誰かと共に歩いていた芭蕉は一人のとき、何を思いながら歩いたのだろうか。

(H17-9-7訪・永平寺H20‐12‐8再訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です

2009年1月 8日 (木)

全昌寺・汐越の松

全昌寺

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  芭蕉は小松に2泊した後大聖寺に向かった。ここの全昌寺という禅寺に泊るのだが、この寺は山中の泉屋の菩提寺であるのでその紹介によるものだろう。前夜には曾良が泊まっている。おくのほそ道には 「大聖寺の城外、全昌寺といふ寺にとまる。なお加賀の地なり。曽良も前の夜、この寺に泊りて、 終宵(よもすがら) 秋風きくや うらの山 と残す。一夜の隔(へだて)、千里に同じ。吾も秋風を聞きて衆寮に臥ば、明ぼのの空近う、読経声すむままに、鐘板鳴て食堂に入。」と曽良との別離を偲んでいる。鐘板とは食事の合図に叩く板である。

更に「きょうは越前の国へと心早卒(そうそう)にして堂下に下るを、」と心もそわそわと寺の堂の下におりると若い僧たちが紙や硯を持って追い掛けて来たので、「掃て 出ばや寺に (ちるやなぎ)」 の句を残し、北枝と共に汐越の松へと向かった。

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 境内に芭蕉と曽良の句碑がある。芭蕉の碑は正面に「はせを塚」とあり、裏面に「庭掃きて----」の句が刻まれている。山中温泉和泉屋の桃妖が伝えた硯,墨などを埋めた塚の上に明治になって碑を建てたものだそうである。

おくのほそ道では山中の後、大聖寺町の全昌寺を経て汐越の松に行っている。「越前の境、吉崎の入り江を船に棹さして汐越の松を尋ぬ。」と述べ、その後に 「終宵(よもすがら) 嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松」 との西行の歌を記している。更に「この一首にて数景尽たり、もし一弁を加るものは、無用の指を立るがごとし。」と断定している。しかしこの歌は西行の歌集には載っておらず蓮如上人御文集に載っているので、吉崎御坊を開いた蓮如の作ではないかといわれている。

 吉崎は大聖寺町から日本海に注ぐ大聖寺川の近くの北潟湖に囲まれた台地にあり、汐越の松はその対岸にある。汐越の松は現在芦原ゴルフクラブのコース内にあり、現在は碑と松の枯れ木が横たわっているだけだというので行くのは割愛した。芭蕉は「吉崎の入り江を船に棹さして」と記しているが、吉崎御坊に立ち寄ったのかどうかは判らない。

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 吉崎は蓮如上人が迫害を受けた京都を逃れ、北陸布教の根拠地として開いた地である。ここからの布教が農民の支持を受け、大きな勢力になった門徒たちの集団が一向宗一揆から加賀に百年近く続いた「百姓のもちたる国」を形成する原動力になったのだが、蓮如自体は一揆に反対して4年後に吉崎を退いた。その後加賀国守護との戦いで吉崎御坊は消失し、現在は堂宇は無く、「史跡吉崎御坊跡」になっている。

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  御坊跡の山麓には江戸時代中期に東西の本願寺がそれぞれ別院を建て、浄土真宗の聖地になっている。広い駐車場から東西両別院の間にある細い参道を登ると「史跡吉崎御坊跡」の大きな碑がある。丘上の台地は広く、高村光雲作の大きな蓮如上人像が強風のなか毅然として立っている。近くに蓮如腰掛の石があり、反対側に加賀千代女の「すみれ草」の句碑がある。あとは松と芝生の園地になっているが、日本海側には鹿島の森という樹木に覆われた島があり、蓮如上人も良く眺めていたとの解説板がある。訪れる人も無い強風の中、しばし昔を偲んで佇んだ。

(H17-9-7訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です

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