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2008年12月17日 (水)

山中(2)

泉屋跡

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 山中温泉は、1300年前僧行基が開いたといわれる古い歴史を持つ。町の中央部にある総湯「菊の湯」は昔から共同浴場「湯座屋」として親しまれてきた。その「菊の湯」の前に芭蕉が8泊もした泉(和泉)屋があった。現在その場所には「芭蕉逗留泉屋の址」の石碑が建てられ、側面には世話になった泉屋久米之助(桃妖)に礼として詠んだ 「湯の名残 今宵は肌の 寒からむ」 の句が刻まれている。芭蕉は衆道を好んだといわれており、そう思うと色っぽい句とも見える。

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 同じ場所に、奥の細道三百年祭記念碑として、次の「温泉頌山中の句」が刻まれた石板と奥の細道の曾良との別れの段と蕪村の「奥の細道画巻」の場面を描いた陶板をはめ込んだ大きな石碑が建てられていた。「温泉ノ頌」は泉屋に贈った真蹟懐紙で、現在は石川県立美術館の所蔵となっているが、それを下記する。

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 「北海の磯づたひして、加州やまなかの涌湯に浴ス 里人の目、このところは扶桑三の名湯のその一なりと まことに浴する事しばしばなれば 皮肉うるほひ筋骨に通りて 心神ゆるく偏に顔色をとどむるここちす 彼桃原も舟をうしなひ 慈童が菊の枝折もしらず   はせお  やまなかや 菊はたおらじ 湯のにほひ  元禄二仲秋日」

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 中国の伝説にある桃源郷では菊慈童が菊の花を手折り、その夜露を飲んで何百年も長生きしたと言うが、山中の湯はそんな必要も無い名湯だと褒めている。 北國銀行の筋向いがその共同湯の「菊の湯」である。芭蕉の句に因んで命名されたという。現在は男湯のみで女湯は近くの山中座という演芸場と共に平成14年に新設されている。北國銀行の裏手に平成16年11月にオープンした芭蕉の館という施設があり、芭蕉の資料や山中漆器などが展示されている。入口には芭蕉と曾良の別離の場面を刻んだ石像が置かれていた。

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 菊の湯から少し戻ったところに山中の入り口にあった大木戸門跡がある。小さな園地になっているが、広い通りに面して「山中温泉大木戸門跡」の石柱があり、その両側に 「やまなかや きくはた折らじ ゆのにほい」 「漁火に 河鹿や波の 下むせび 芭蕉」 の2句が刻まれている。また「手折らじの道」と刻んだ碑と 「今日よりや 書付消さん 笠の露」 の句を刻んだ碑が並んで建てられている。

 芭蕉と曽良はこの山中で別れ、芭蕉はいったん小松に戻り、曽良は腹の調子が悪いということで先行することになった。江戸を出立してから114日も師を助けて同行してきた曽良が、山中温泉で8日間も静養していた後、師と別れて一人で出立したのは何故だったのだろうか。

 曾良との別れは、おくのほそ道には 「曾良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、行き行きて倒れ伏すとも萩の原 曾良 と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の憾み、隻鳧(せきふ)の別れて雲に迷うごとし。予もまた、今日よりや書付消さん笠の露」 と感動的に記されている。

 しかし湯治にはもってこいの山中温泉から、体の調子の悪い曾良が先に行くというのはおかしな話である。また伊勢の国長島に真直ぐ行くのではなく芭蕉の道程を先行する形で福井、武生、敦賀を経由して美濃大垣に8月14日(陰暦)の中秋の名月の前日に到着している。芭蕉は山中温泉滞在中の7月29日に中秋の名月を琵琶湖か美濃の大垣で見たいものだという手紙を大垣の門人近藤如行に送っており、そのスケジュール通りに曾良は大垣に行っているのである。

  一方芭蕉は北枝と共に小松にいったん戻るが、その途中那谷寺に参詣している。小松では生駒万子の紹介で小松天満宮の別当職だった連歌師の能順と歌仙を巻くためだったが、能順が見下した態度を示したので、芭蕉も腹を立て上手く行かなかったらしい。

 曾良にしてみれば江戸を出立してから陸奥を芭蕉と二人だけで旅し、日程を組立てて訪れる先を決めたり、費用の計算や手形を貰うなどの雑事を一人でやっていたものを、金沢から北枝が割り込み小松に戻るなど、苦労して立てた行程を乱すのが耐えられなかったのだろうとする説がある。また芭蕉には衆道の気があり若い北枝を寵愛するのに嫉妬したとの説もある。

 曽良の別れの当日の随行日記には、「五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於小松、生駒万子為出会也。○談じて帰て、艮(即)刻、立。」とそっけなく書いてあるだけである。「即刻発つ」の文字に曽良の意地が見て取れる。 いずれにせよ道中の出来事を随行日記、俳諧書留として克明に記録していた曾良と別れたことから、ここから先はどこで何泊したか、道程はどうだったのかなどの旅の実情は奥の細道の本文以外は皆目分からず、後世の研究者泣かせの残念な別離であった。

(H17-9-7訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

2008年12月14日 (日)

山中(1)

医王寺・こおろぎ橋・鶴仙渓

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 山中温泉ではまず医王寺に詣でた。この寺は行基菩薩の開創とされ、。行基が温泉を発見し、薬師如来を守護仏として湯舎に安置したことが始まりと「山中温泉縁起絵巻」に記されている。昔は湯治の客が毎日この寺に参詣して療治全快を祈ったという。芭蕉もここに参詣しており、 「山中や 菊は手折らじ 湯の匂い」 の句碑が昭和35年に建立されている。(写真は医王寺の芭蕉句碑) 

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医王寺は山中温泉を見下ろす台地にあるが、そこから温泉街が立ち並ぶ大聖寺川渓谷に下り、町一番の名勝であるこおろぎ橋に行く。この橋は総檜造りで眼下の苔むした岩の間を水が流れており、川辺から橋の上まで覆いかぶさる紅葉の木々とともに深山幽谷の気配をかもし出している。ふと下を見ると青鷺が苔の岩上に休んでおり、あたかも南画の一場面を見ている気がした。こおろぎ橋の近くには多くの文人、歌人の碑があるが、その中に芭蕉の詠んだ 「かゞり火に かじかや波の 下むせび」 の小さな句碑がある。

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こおろぎ橋から下流の黒谷橋までの1.3キロの間は鶴仙渓と呼ばれる渓谷である。その中頃にあるあやとり橋という赤紫の鉄骨がくねくね曲がって出来ている橋に行き、そこから鶴仙渓に降りた。この橋は草月流家元の勅使河原宏が昇竜のイメージをデザインしたものだそうである。川縁に降りると道明ヶ淵という景勝地があり、 「やまなかや きくは手折らじ ゆのにおい」 の芭蕉句碑がある。

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 鶴仙渓遊歩道を黒谷橋に向かって歩く。15分ほど歩くと黒谷橋のたもとの芭蕉堂に出た。芭蕉は山中の湯に浸かってはこの付近を散策し、岩に座って杯を傾け 「行脚の楽しみここにあり」 と言っていたことから明治の終わり頃建てられたものだそうである。4坪ほどの小堂だが中には芭蕉の小像が安置され、芭蕉を偲んだ句会や茶会が行われるという。堂の近くに 「紙鳶きれて 白根ヶ岳を 行方かな   桃妖」 の句碑がある。桃妖とは芭蕉が8日間滞在した泉屋の若い主(14歳)で芭蕉は自分の桃青の一字を取って与え、 「桃の木の その葉ちらすな 秋の風」 の句を贈っている。(写真は芭蕉堂内部と桃妖句碑)

 「おくのほそ道」には「あるじとする物(者)は、久米之助とて、いまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰(ここ)に来たりし比(ころ)、風雅に辱められて、洛に帰て貞徳の門人となって世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。」と記している。泉屋の若い主(桃妖)泉屋甚左衛門久米之助はまだ子供だが、その父である又兵衛は俳諧を好み、貞門七俳仙の一人である貞室が若輩の頃山中温泉に来て、自分の俳諧が又兵衛より劣っていることを知り、京に帰って貞門俳句の祖である貞徳の門に入って研鑽を積み名を知られるようになった。しかしそれ以後山中の人からは俳諧を指導しても謝礼を取らなかった。という昔からの伝承がある。と又兵衛と貞室を褒めている。曽良の「俳諧書留」にもそのことは記されているが、それには、又兵衛は久米之助の祖父だと記されている。

(H17-9-6訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

2008年12月 1日 (月)

那谷寺

 那谷寺は小松から山中温泉に行く途中にあり、「おくのほそ道」でも小松の次に記されているが、実際は山中温泉から北枝と共に小松にいったん戻る途中に参詣したもので、曾良は同行していない。

 この寺は養老元年(717)に創建された古刹である。平安中期に花山法王が訪れ、岩窟に観音菩薩を拝し、西国33ヶ所観音霊場の第一番山青岸渡寺の「那」と第三十三番谷汲山華厳寺の「谷」をとって那谷寺と改めたという。「おくのほそ道」には「左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の巡礼とげさせ給いて後、大慈大悲の像を安置し給いて、那谷と名付給うと也。那智・谷組の二字をわかち侍りしとぞ。」とその由来を記している。その間、南北朝時代の戦乱で堂宇は灰燼に帰したが、加賀藩三代藩主前田利常が再興した。

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 山門を入ると左手に平成2年に再建されたきらびやかな金堂があり、同じく平成2年に造られた高さ7.7メートルあるおおきな丹塗りの十一面千手観音が安置されている。その右手に入ると書院があり、裏手には小堀遠州の指導を受け、国の名勝に指定されている庫裏庭園がある。更にその奥に行くと琉美園という広い庭園がある。中央部には池があり大きな自然石の岩壁が三つに別れて聳え立っている。阿弥陀三尊を表わす三尊石と言われるが江戸時代にはそこから滝が流れ落ちていたそうである。一時荒廃したが戦後復元したものだそうであるが、雨天時でないと滝は流れず池の水も大分少なくなっていた。(写真は山門)

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 参道に戻りしばらく進むと左手が蓮池になっており、対岸には奇岩遊仙境という岩山がある。崩れると白砂になる岩石で出来ていて中腹に洞窟のような裂け目のある奇妙な形をした岩山が続いていて、階段や鳥居があり小径でつながって、回遊できるようになっている。しかし手すりも無くさらさらした砂で出来ているので、雨天時にはとても行く気にはなれない道だった。

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 奇岩遊仙境を横に見て更に進み、岩壁に向かって続く石造りの階段を上ると唐門があり、続いて舞台造りの本殿がある。岩窟内に建てられているので岩屋本殿と呼ばれ重要文化財である。本殿内部の厨子の中に本尊である十一面千手観音が祭られている。本殿からこれも重要文化財の三重塔に続く道があり、小振りだが落ち着いた感じの立派な三重塔である。さらに回遊路を行くと遊仙境が正面に展望できる鎮守堂という場所に出る。そこからは奇岩遊仙境の全体が眺められ、秋には前景にある紅葉との対比で素晴らしい景観が眺められる場所である。しかし芭蕉の頃には紅葉は無く、松の緑に白い岩山が良く映えた名勝だったようである。「おくのほそ道」には「奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。」と褒め称えている。

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 鎮守堂から階段を下りると大きな岩の前に芭蕉の苔むした句碑がある。 「石山の 石より白し 秋の風」 の句であるが欠落してうまく読めない。その隣には「奥の細道」の那谷寺の部分が「翁塚」というこれも苔に覆われた石碑に刻まれている。この辺りは湿気が多いのか太い木々の間はびっしりと苔が張り付いている。台風が間近に来ていて風が強く厚い雲が垂れ下がっており、もう少しゆっくりして居たかったのだが、名残惜しく那谷寺を後にし山中温泉に向かった。

(H17-9-6訪)

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 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

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