山中(2)
泉屋跡
山中温泉は、1300年前僧行基が開いたといわれる古い歴史を持つ。町の中央部にある総湯「菊の湯」は昔から共同浴場「湯座屋」として親しまれてきた。その「菊の湯」の前に芭蕉が8泊もした泉(和泉)屋があった。現在その場所には「芭蕉逗留泉屋の址」の石碑が建てられ、側面には世話になった泉屋久米之助(桃妖)に礼として詠んだ 「湯の名残 今宵は肌の 寒からむ」 の句が刻まれている。芭蕉は衆道を好んだといわれており、そう思うと色っぽい句とも見える。
同じ場所に、奥の細道三百年祭記念碑として、次の「温泉頌山中の句」が刻まれた石板と奥の細道の曾良との別れの段と蕪村の「奥の細道画巻」の場面を描いた陶板をはめ込んだ大きな石碑が建てられていた。「温泉ノ頌」は泉屋に贈った真蹟懐紙で、現在は石川県立美術館の所蔵となっているが、それを下記する。
「北海の磯づたひして、加州やまなかの涌湯に浴ス 里人の目、このところは扶桑三の名湯のその一なりと まことに浴する事しばしばなれば 皮肉うるほひ筋骨に通りて 心神ゆるく偏に顔色をとどむるここちす 彼桃原も舟をうしなひ 慈童が菊の枝折もしらず はせお やまなかや 菊はたおらじ 湯のにほひ 元禄二仲秋日」
中国の伝説にある桃源郷では菊慈童が菊の花を手折り、その夜露を飲んで何百年も長生きしたと言うが、山中の湯はそんな必要も無い名湯だと褒めている。 北國銀行の筋向いがその共同湯の「菊の湯」である。芭蕉の句に因んで命名されたという。現在は男湯のみで女湯は近くの山中座という演芸場と共に平成14年に新設されている。北國銀行の裏手に平成16年11月にオープンした芭蕉の館という施設があり、芭蕉の資料や山中漆器などが展示されている。入口には芭蕉と曾良の別離の場面を刻んだ石像が置かれていた。
菊の湯から少し戻ったところに山中の入り口にあった大木戸門跡がある。小さな園地になっているが、広い通りに面して「山中温泉大木戸門跡」の石柱があり、その両側に 「やまなかや きくはた折らじ ゆのにほい」 「漁火に 河鹿や波の 下むせび 芭蕉」 の2句が刻まれている。また「手折らじの道」と刻んだ碑と 「今日よりや 書付消さん 笠の露」 の句を刻んだ碑が並んで建てられている。
芭蕉と曽良はこの山中で別れ、芭蕉はいったん小松に戻り、曽良は腹の調子が悪いということで先行することになった。江戸を出立してから114日も師を助けて同行してきた曽良が、山中温泉で8日間も静養していた後、師と別れて一人で出立したのは何故だったのだろうか。
曾良との別れは、おくのほそ道には 「曾良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、行き行きて倒れ伏すとも萩の原 曾良 と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の憾み、隻鳧(せきふ)の別れて雲に迷うごとし。予もまた、今日よりや書付消さん笠の露」 と感動的に記されている。
しかし湯治にはもってこいの山中温泉から、体の調子の悪い曾良が先に行くというのはおかしな話である。また伊勢の国長島に真直ぐ行くのではなく芭蕉の道程を先行する形で福井、武生、敦賀を経由して美濃大垣に8月14日(陰暦)の中秋の名月の前日に到着している。芭蕉は山中温泉滞在中の7月29日に中秋の名月を琵琶湖か美濃の大垣で見たいものだという手紙を大垣の門人近藤如行に送っており、そのスケジュール通りに曾良は大垣に行っているのである。
一方芭蕉は北枝と共に小松にいったん戻るが、その途中那谷寺に参詣している。小松では生駒万子の紹介で小松天満宮の別当職だった連歌師の能順と歌仙を巻くためだったが、能順が見下した態度を示したので、芭蕉も腹を立て上手く行かなかったらしい。
曾良にしてみれば江戸を出立してから陸奥を芭蕉と二人だけで旅し、日程を組立てて訪れる先を決めたり、費用の計算や手形を貰うなどの雑事を一人でやっていたものを、金沢から北枝が割り込み小松に戻るなど、苦労して立てた行程を乱すのが耐えられなかったのだろうとする説がある。また芭蕉には衆道の気があり若い北枝を寵愛するのに嫉妬したとの説もある。
曽良の別れの当日の随行日記には、「五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於小松、生駒万子為出会也。○談じて帰て、艮(即)刻、立。」とそっけなく書いてあるだけである。「即刻発つ」の文字に曽良の意地が見て取れる。 いずれにせよ道中の出来事を随行日記、俳諧書留として克明に記録していた曾良と別れたことから、ここから先はどこで何泊したか、道程はどうだったのかなどの旅の実情は奥の細道の本文以外は皆目分からず、後世の研究者泣かせの残念な別離であった。
(H17-9-7訪)
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注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。




















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