小松
多太神社
小松ではまず多太神社に行った。ここには芭蕉の石像がある。おくのほそ道には、「小松と云所にて しほらしき 名や小松吹 萩すゝき 此所太田(ただ)の神社に詣。真(実)盛が甲・錦(かぶと・にしき)の切(きれ)あり。往昔(そのかみ)源氏に属せし時、義朝公より給(賜)はらせ給(たまふ)とかや。げにも平士(ひらざむらい)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊から(唐)草のほりもの金をちりばめ龍頭に鍬形打たり。真(実)盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁記にみえたり。 むざんやな 甲の下の きりぎりす」 とあるが、その太田(ただ)神社である。
芭蕉は小松について「しほらしき----」の挨拶句のあとは、多太神社と木曾義仲、斉藤実盛についてしか記していない。この話にある平家の老将斉藤別当実盛は当時七十三歳だったが、白髪を染めて義仲軍と戦った。しかし武運つたなく討死してしまった。ところが彼は、幼少の義仲が一族の争いで殺されかけた時、その命を救い木曾に逃がしてくれた恩人だった。首実検に呼ばれた義仲の家来樋口次郎が血に染まった首を池で洗ったところ、白髪が出てきて斉藤実盛と知り、「あなむざんやな」と涙を注いだという謡曲「実盛」の一節がある。芭蕉の句はそれからとられたもので、初句は 「あなむざん 甲の下の きりぎりす」 だった。
多太神社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社で、社縁起によると6世紀初め武烈天皇5年(503)に男大跡王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ、平安時代初期には延喜式内社に列している。寿永2年(1183)源平合戦のとき、木曽義仲は実盛の首級と涙の対面をし、懇ろに弔った後、その着具であった甲冑を多太神社に納めた。この甲、大袖、臑当は重要文化財に指定されているが、公開されるのは毎年7月下旬に行われる「かぶとまつり」の時だけである。
金沢から北枝が案内人になって芭蕉、曽良と共に多太神社に詣でたのは元禄2年(1698)7月25日(陽暦9月8日)であった。7月27日小松を出発して山中温泉に向かう時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。 「あなむざん 甲の下の きりぎりす 芭蕉」 「幾秋か 甲にきへぬ 鬢(びん)の霜 曾良」 「くさずりの うら珍しや 秋の風 北枝」である。
多太神社には昭和6年建立の「あなむざん‐‐‐‐」以下3人の句碑があるが磨耗して殆ど読めない。しかし最近出来た句碑があり、その方は 「むざんやな 甲のしたの きりぎりす」 になっている。他にも芭蕉の石像、直実が髪を染めている石像、かぶとの石像、奥の細道の1節を記した碑などが建立されている。
小松天満宮など
レンタカーのナビが不調になり道が分からなくなってしまったので、小松市役所を訪れ市内の案内図を貰った。その地図を見ながら郊外にある小松天満宮に行く。加賀三代藩主利常が小松城に隠居したが、その時前田家の氏神の菅原道真を祭神として、小松城鎮護のために京都の北野天満宮を四分の一に縮小して創建したものだそうでである。以来前田家歴代によって手厚い庇護を受け、本殿・拝殿、神門などが国の重要文化財になっている。神門に向かう参道に 「あかあかと 日は難面も あきの風」 の句碑がある。
芭蕉は小松に3泊した後、山中温泉に向かったのだが、加賀藩の重臣であり、俳諧を通して芭蕉と面識のある俳人の生駒万子の仲介で、小松天満宮に連歌を奉納する同意を得たため再度小松に戻った。小松天満宮は格式が高く、ここの別当職だった連歌師の能順は朝廷にも認められた大物連歌師で、生駒万子は能順に連歌の手ほどきを受けていたので、その口利きによって連歌の奉納が許されたのである。しかし、折角山中温泉から戻ったのだが、能順と芭蕉の考え方の違いにより、この連歌奉納は不調に終っている。能順が大物連歌師であったのに対して、芭蕉は名前は多少知られるようになったもののまだ一介の俳諧師であり、また当然能順は保守的な思考であったろうから、芭蕉の革新的な俳諧とは相容れなかったのだろう。
小松には寺社が多いが、曲がりくねった狭い路地をたどり芭蕉が地元の俳人と交歓した建聖寺に行く。門前に「はせを留杖の地」の碑があり、境内には大小の句碑が並んでいる。大きいほうは翁塚と呼ばれ中央に大きく蕉翁とあり、右側に小さく 「しおらしき 名や小松吹 萩すすき」 で、宝暦13年(1763)建立である。小さいほうは 「志ほらしき 名や小松ふく 萩すすき」 とあり、建立年月は不明だが、彫りの深さから大分新しいものである。この寺には立花北枝が彫った芭蕉の坐像が残されているという。北枝は金沢から松岡まで芭蕉一行と同行し、後に蕉門十哲の一人になっている。
建聖寺の手前に菟橋(うはし)神社があり芭蕉はこの神社の秋祭りを見物した。「しほらしき----」の句碑も残されているそうであるが行き洩らしてしまった。建聖寺に続いて本折日吉神社に行く。ここの宮司で俳人の藤村伊豆(鼓蟾)という人が芭蕉を歓待し句会を催したが、そのときの芭蕉の発句が 「しほらしき 名や小松吹く 萩すゝき」 である。
境内には見ざる,聞かざる,言わざるの3猿の石像などがあり、社殿右奥に昭和35年に建立された「芭蕉翁留杖の地」の大きな碑がありその両側にそれぞれ次の句が記されている。「しほらしき 名や小松吹く 萩すすき 芭蕉」 「露を見しりて 影うつす月 鼓蟾(こせん‐‐‐藤村伊豆の俳号)」。またその手前に平成10年に建てられた「芭蕉留杖の地」として、この地で句会が行われたという説明書きと上記二つの句を刻んだ円柱形の石柱がある。
おくのほそ道には、「しほらしき----」の句しか記されていないが、芭蕉は小松でも金沢に劣らず歓待を受け、句会も盛大に行われたのである。芭蕉一行は小松に3日間逗留した後、山中温泉に向かった。
(H17-9-6訪)
注1:写真をクリックすると大きくなります。
注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。


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