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2008年11月 3日 (月)

金沢(3)

寺町願念寺

Img_0171  片町から犀川に架かる犀川大橋を渡ると高台に寺町寺院群がある。約60以上の寺院が集まっているそうである。蛤坂という急坂を上がると成学寺という寺がある。以前は小杉一笑の菩提寺と思われていた寺で、此処にも 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」 の句碑がある。句の左面には芭蕉墳とある。宝暦5年(1755)に金沢の俳人堀麦水によって建てられたものである。

 この付近には小さな寺院が多く、更に少し行くと本長寺という寺がある。ここにも芭蕉の 「春もやヽ 気しき調ふ 月と梅」 の句碑がある。大正5年に建てられたものだそうである。その隣が忍者寺として知られる妙立寺である。更にもうひとつ先の寺との境に細い道がある。願念寺小路と呼ばれ、その先に金沢で芭蕉が会うのを楽しみにしていた小杉一笑の墓所のある願念寺がある。

 曽良旅日記には「十五日快晴。高岡を立、埴生八幡を拝す。源氏山、卯ノ花山也。クリカラを見て、未の中刻、金沢に着。京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀、一笑ヘ通ズ、即刻竹雀、牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去の由。」と記している。一笑は通称茶屋新七といい、以前から貞門や談林俳諧に作品を出しており、北陸では知られた俳人だった。芭蕉とも文通がありお互いに会うのを楽しみにしていたのだが、前年の冬に36歳で亡くなっていたのを金沢を訪れてはじめて知ったのである。

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Img_0174_2  おくのほそ道には「一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、塚も動け 我泣声は 秋の風」 と、感情をあらわにした句が載せられている。芭蕉の来訪を機に、この寺で一笑の兄〆松が追善供養を催したが、同時に一笑の冥福を祈る俳諧興行を行った。芭蕉を中心に金沢付近の多くの俳人が集まったのだが、その時に披露した句である。

 後日〆松は参加者の追悼句をもとに「西の雲」という一笑追善の俳諧書を編んでいる。寺の入り口に、芭蕉の直筆の色紙を摸刻して、昭和48年に一笑の子孫が建立した句碑がある。また境内には辞世の句を刻んだ一笑塚もある。 「心から 雪うつくしや 西の雲」 という句である。

Img_0175  散策路はここから「にし茶屋街」に続くのだが、小雨がしとしとと降っており、回り道になるので犀川大橋に戻る。犀川大橋から上流の桜橋までの犀川河畔には、「犀星のみち」という遊歩道が続いている。詩人であり作家でもあった室生犀星は、犀川大橋の少し上流の川縁の家で生まれたのである。その遊歩道をしばらく行くと、小松砂丘の筆による 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」 の句碑がある。兼六園、成学寺に続く3つ目の句碑である。

Img_0176 この句は[金沢(3)]で述べたように金沢に入る前に詠まれたものだそうだが、芭蕉が金沢に着いたのは陰暦7月15日の盂蘭盆の日で陽暦では8月29日にあたる。当日は快晴だったそうで残暑が厳しかったのだろうか。私が犀川の畔に立っているのは9月5日夕刻でほぼ同じ季節だが、台風余波による小雨模様の蒸し暑い日で、当初想像していた暑苦しい陽が傾く河畔の夕暮れの光景には出会わなかった。(写真は犀川と犀星のみち)

 芭蕉は金沢に9泊したがその間、多くの俳人と会い、俳席に招かれたり寺院巡りや市中見物などで過ごした。その中のある一日、犀川の畔にあった斉藤一泉邸に招かれ、12人も集まった俳人と共に半歌仙を巻いた。その時の芭蕉の発句は 「残暑暫(しばし) 手毎にれうれ 瓜茄子」 だったが、それを推敲して 「秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子」 とした句がおくのほそ道に載っている。その頃、曽良は疲れのためか旅日記にも病気ゆえと記してその半分ほどしか同行していない。この半歌仙の句会にも曽良は出席せず、句だけ出したといわれている。この日の様子は後日発行された「俳諧一葉集」に描かれているということである。犀川を跨ぐ桜橋の先にある長久寺という寺にその句碑があるというが、あいにく行きそびれてしまった。

野田山大乗寺

 金沢市街が一望できる南方の野田山の中腹に大乗寺という曹洞宗の寺がある。芭蕉も金沢滞在中の寺社巡りの時に、犀川を遡って訪れたといわれている。隣接した野田山墓地には前田家をはじめとする金沢市民の大きな霊園がある。大乗寺は江戸時代から「伽藍瑞龍、規矩大乗」といわれ、厳しい修行で知られた寺で、今でも静寂の中に俗界を越えた雰囲気を漂わせる寺である。

 曹洞宗は福井の永平寺と横浜鶴見の総持寺を本山としているが、大乗寺はそれに次ぐ寺格を持ち、永平寺三世の徹通義介が真言宗の寺を曹洞宗に改修したのが起源とされている。また大乗寺二世は総持寺を開いた蛍山禅師である。総持寺は能登の総持寺祖院に開かれたが、明治時代の火災により横浜鶴見に移転したのである。また「伽藍瑞龍」の瑞龍寺は[越中路]で述べた高岡にある国宝になっている大寺である。

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A0131  大乗寺参道を行くと先ず黒門と呼ばれる総門がある。総門を潜ると大きな松と苔で覆われた庭の先に赤門と呼ばれる山門がある。左右に仁王像が安置され大乗寺では最も古い建物だそうである。その奥には七堂伽藍の中心になる立派な仏殿がある。国の重要文化財になっている。内部正面には釈迦如来像を中心に文殊菩薩、普賢菩薩を脇侍とした釈迦三尊が祀られている。(写真は黒門と赤門)

A0132 A0134 仏殿から向かって右側に庫院がある。その手前に受付があり土産物、写真などがある。大乗寺の名物は放し飼いで10日に1度しか産卵しないという烏骨鶏(うこっけい)の卵を使用した「天来烏骨鶏かすていら」である。庫院(庫裏)の前には仏法や伽藍の守護神、韋駄天が安置されている。方丈を左手に折れると山門、仏殿を結んだ延長線上に法堂がある。法堂と仏殿のあいだの参道の左右には睡蓮を植えた大鉢がたくさん並び、まだ咲き残っているものもあった。満開の時はさぞかし壮観だったろう。(写真は仏殿と法堂前の蓮の大鉢)

A0133  中庭は萩とすすきが咲き秋の気配が満ちている。地面はすべてふかふかとした苔に覆われ、ぐっと気持ちが落ち着く雰囲気である。大乗寺に隣接した野田山墓地近くに蓮如上人像を安置した西山蓮如堂がある。[金沢(3)]で述べた卯辰山の宝泉寺近くにある東山蓮如堂と対になって、戦国時代末期に金沢御堂として一向宗徒により創建されたその後の金沢城を、東西から見守っている。一方野田山墓地には藩主である前田家代々の墓があり、戦国時代を経て安土桃山時代から江戸時代末期まで続いた加賀百万石の繁栄をこれもまた見守っているのである。

 酒田を陰暦6月25日(陽暦8月10日)に出発した芭蕉一行は19日掛けて陰暦7月15日(陽暦8月29日)に金沢に着き、9日滞在した後、同7月24日(陽暦9月7日)に小松に向け出発している。その間約1ヶ月だが、芭蕉は市振での遊女との出会いと金沢での一笑の追善供養にポイントを絞った書き方をしており、おくのほそ道前半の歌枕をたどり、いにしえを偲ぶ記述から、同時代の人々との出会いを取り上げる記述が多くなってきている。この後も山中温泉での曽良との別れ、天龍寺での北枝との別れなどや各地で旧知の人々や俳人との出逢いと別離があり、未知の東北から勝手知ったる北陸、湖北に戻り、ほっとした気分で人々に接している様子がうかがわれる。

  (H17-9-5訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

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