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2008年11月30日 (日)

小松(2)

安宅関

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 小松天満宮から日本海を目指して行くと、勧進帳で知られた安宅関跡がある。海に面した駐車場の前に与謝野晶子の歌碑があり、「松たてる 安宅の砂丘その中に 清きは文治三年の関」 とある。関跡は県指定の文化財になっており、奥に進むと勧進帳の弁慶、富樫、義経の三体の像が広い石舞台に建てられている。弁慶は七代目松本幸四郎を富樫は二代目市川左団次をモデルにしてあるそうであり、弁慶の勇,富樫の仁,義経の智を表している。

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 安宅の関(あたかのせき)は、源義経が武蔵坊弁慶らとともに、奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかった時、弁慶が偽りの勧進帳を読み、義経だと見破りはしたものの関守・富樫泰家の同情で通過出来たという歌舞伎の「勧進帳」で有名だが、これは江戸中期の芭蕉没後に出来た出し物である。しかし謡曲『安宅』は室町時代に出来たものなので、義経贔屓の芭蕉は知っている筈であり、立寄っても良さそうに思うが予定に入れていなかった様で素通りしている。もっともここに関所があったかどうかの歴史的な実在性は「義経記」を始めとする同時代の資料には記載されておらず、疑問視されているそうである。 しかし昭和14年(1939)に石川県は「安宅の関跡」として県の史跡に指定し、現在に至っている。

実盛首洗池

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 安宅の関から海岸線を北陸自動車道に沿って南下すると片山津温泉近くに篠原古戦場跡がある。ここは倶利伽羅峠の合戦で破れた平家の軍勢が、陣を立て直して義仲軍と戦い、再び敗れた場所である。ここで多太神社に兜が奉納された斉藤別当実盛は討死した。その近くに白髪染めの首を洗ったという実盛首洗池がある。ここにも 「むざんやな 兜の下の きりぎりす」 の句碑があり、近くには実盛を討取った手塚太郎光盛と首を洗った樋口次郎兼光、総大将の木曽義仲の3人が兜を前にして慟哭する像が建てられている。

湯快リゾート

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 実盛首洗池を見た後、那谷寺に詣で、芭蕉一行が8泊もした山中温泉に向かった。この付近は加賀温泉郷で片山津、粟津、山代、山中と温泉が数多くあるが、宿泊代は一泊二食で1人1万円以上する旅館が殆どである。しかしその中で、湯快リゾート㈱が経営する山中グランドホテルは1年365日1人7,800円均一という驚くほど格安の料金で宿泊できる。温泉も広く、食事はバイキングだが品数は多く、味も悪くない。お酒も安く提供しており、従業員のマナーも良い。価格が低くても客が増えれば稼働率は向上して利益も上がるとのコンセプトは成功しており、加賀温泉郷には湯快リゾート㈱経営の旅館・ホテルが6店舗に増加している。この地区での宿泊には湯快リゾートはお勧めの宿である。

(H17-9-6訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

2008年11月16日 (日)

小松

多太神社

img_A0137  小松ではまず多太神社に行った。ここには芭蕉の石像がある。おくのほそ道には、「小松と云所にて しほらしき 名や小松吹 萩すゝき 此所太田(ただ)の神社に詣。真(実)盛が甲・錦(かぶと・にしき)の切(きれ)あり。往昔(そのかみ)源氏に属せし時、義朝公より給(賜)はらせ給(たまふ)とかや。げにも平士(ひらざむらい)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊から(唐)草のほりもの金をちりばめ龍頭に鍬形打たり。真(実)盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁記にみえたり。 むざんやな 甲の下の きりぎりす」 とあるが、その太田(ただ)神社である。

 芭蕉は小松について「しほらしき----」の挨拶句のあとは、多太神社と木曾義仲、斉藤実盛についてしか記していない。この話にある平家の老将斉藤別当実盛は当時七十三歳だったが、白髪を染めて義仲軍と戦った。しかし武運つたなく討死してしまった。ところが彼は、幼少の義仲が一族の争いで殺されかけた時、その命を救い木曾に逃がしてくれた恩人だった。首実検に呼ばれた義仲の家来樋口次郎が血に染まった首を池で洗ったところ、白髪が出てきて斉藤実盛と知り、「あなむざんやな」と涙を注いだという謡曲「実盛」の一節がある。芭蕉の句はそれからとられたもので、初句は 「あなむざん 甲の下の きりぎりす」 だった。

 多太神社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社で、社縁起によると6世紀初め武烈天皇5年(503)に男大跡王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ、平安時代初期には延喜式内社に列している。寿永2年(1183)源平合戦のとき、木曽義仲は実盛の首級と涙の対面をし、懇ろに弔った後、その着具であった甲冑を多太神社に納めた。この甲、大袖、臑当は重要文化財に指定されているが、公開されるのは毎年7月下旬に行われる「かぶとまつり」の時だけである。

A0138_2  金沢から北枝が案内人になって芭蕉、曽良と共に多太神社に詣でたのは元禄2年(1698)7月25日(陽暦9月8日)であった。7月27日小松を出発して山中温泉に向かう時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。 「あなむざん 甲の下の きりぎりす  芭蕉」 「幾秋か 甲にきへぬ 鬢(びん)の霜  曾良」 「くさずりの うら珍しや 秋の風  北枝」である。

a0139  多太神社には昭和6年建立の「あなむざん‐‐‐‐」以下3人の句碑があるが磨耗して殆ど読めない。しかし最近出来た句碑があり、その方は 「むざんやな 甲のしたの きりぎりす」 になっている。他にも芭蕉の石像、直実が髪を染めている石像、かぶとの石像、奥の細道の1節を記した碑などが建立されている。

小松天満宮など

A0136 A0135  レンタカーのナビが不調になり道が分からなくなってしまったので、小松市役所を訪れ市内の案内図を貰った。その地図を見ながら郊外にある小松天満宮に行く。加賀三代藩主利常が小松城に隠居したが、その時前田家の氏神の菅原道真を祭神として、小松城鎮護のために京都の北野天満宮を四分の一に縮小して創建したものだそうでである。以来前田家歴代によって手厚い庇護を受け、本殿・拝殿、神門などが国の重要文化財になっている。神門に向かう参道に 「あかあかと 日は難面も あきの風」 の句碑がある。

 芭蕉は小松に3泊した後、山中温泉に向かったのだが、加賀藩の重臣であり、俳諧を通して芭蕉と面識のある俳人の生駒万子の仲介で、小松天満宮に連歌を奉納する同意を得たため再度小松に戻った。小松天満宮は格式が高く、ここの別当職だった連歌師の能順は朝廷にも認められた大物連歌師で、生駒万子は能順に連歌の手ほどきを受けていたので、その口利きによって連歌の奉納が許されたのである。しかし、折角山中温泉から戻ったのだが、能順と芭蕉の考え方の違いにより、この連歌奉納は不調に終っている。能順が大物連歌師であったのに対して、芭蕉は名前は多少知られるようになったもののまだ一介の俳諧師であり、また当然能順は保守的な思考であったろうから、芭蕉の革新的な俳諧とは相容れなかったのだろう。

A0140  小松には寺社が多いが、曲がりくねった狭い路地をたどり芭蕉が地元の俳人と交歓した建聖寺に行く。門前に「はせを留杖の地」の碑があり、境内には大小の句碑が並んでいる。大きいほうは翁塚と呼ばれ中央に大きく蕉翁とあり、右側に小さく 「しおらしき 名や小松吹 萩すすき」 で、宝暦13年(1763)建立である。小さいほうは 「志ほらしき 名や小松ふく 萩すすき」 とあり、建立年月は不明だが、彫りの深さから大分新しいものである。この寺には立花北枝が彫った芭蕉の坐像が残されているという。北枝は金沢から松岡まで芭蕉一行と同行し、後に蕉門十哲の一人になっている。

A0143  建聖寺の手前に菟橋(うはし)神社があり芭蕉はこの神社の秋祭りを見物した。「しほらしき----」の句碑も残されているそうであるが行き洩らしてしまった。建聖寺に続いて本折日吉神社に行く。ここの宮司で俳人の藤村伊豆(鼓蟾)という人が芭蕉を歓待し句会を催したが、そのときの芭蕉の発句が 「しほらしき 名や小松吹く 萩すゝき」 である。 A0144 境内には見ざる,聞かざる,言わざるの3猿の石像などがあり、社殿右奥に昭和35年に建立された「芭蕉翁留杖の地」の大きな碑がありその両側にそれぞれ次の句が記されている。「しほらしき 名や小松吹く 萩すすき  芭蕉」 「露を見しりて 影うつす月   鼓蟾(こせん‐‐‐藤村伊豆の俳号)」。またその手前に平成10年に建てられた「芭蕉留杖の地」として、この地で句会が行われたという説明書きと上記二つの句を刻んだ円柱形の石柱がある。

 おくのほそ道には、「しほらしき----」の句しか記されていないが、芭蕉は小松でも金沢に劣らず歓待を受け、句会も盛大に行われたのである。芭蕉一行は小松に3日間逗留した後、山中温泉に向かった。

(H17-9-6訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

2008年11月 3日 (月)

金沢(3)

寺町願念寺

Img_0171  片町から犀川に架かる犀川大橋を渡ると高台に寺町寺院群がある。約60以上の寺院が集まっているそうである。蛤坂という急坂を上がると成学寺という寺がある。以前は小杉一笑の菩提寺と思われていた寺で、此処にも 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」 の句碑がある。句の左面には芭蕉墳とある。宝暦5年(1755)に金沢の俳人堀麦水によって建てられたものである。

 この付近には小さな寺院が多く、更に少し行くと本長寺という寺がある。ここにも芭蕉の 「春もやヽ 気しき調ふ 月と梅」 の句碑がある。大正5年に建てられたものだそうである。その隣が忍者寺として知られる妙立寺である。更にもうひとつ先の寺との境に細い道がある。願念寺小路と呼ばれ、その先に金沢で芭蕉が会うのを楽しみにしていた小杉一笑の墓所のある願念寺がある。

 曽良旅日記には「十五日快晴。高岡を立、埴生八幡を拝す。源氏山、卯ノ花山也。クリカラを見て、未の中刻、金沢に着。京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀、一笑ヘ通ズ、即刻竹雀、牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去の由。」と記している。一笑は通称茶屋新七といい、以前から貞門や談林俳諧に作品を出しており、北陸では知られた俳人だった。芭蕉とも文通がありお互いに会うのを楽しみにしていたのだが、前年の冬に36歳で亡くなっていたのを金沢を訪れてはじめて知ったのである。

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Img_0174_2  おくのほそ道には「一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、塚も動け 我泣声は 秋の風」 と、感情をあらわにした句が載せられている。芭蕉の来訪を機に、この寺で一笑の兄〆松が追善供養を催したが、同時に一笑の冥福を祈る俳諧興行を行った。芭蕉を中心に金沢付近の多くの俳人が集まったのだが、その時に披露した句である。

 後日〆松は参加者の追悼句をもとに「西の雲」という一笑追善の俳諧書を編んでいる。寺の入り口に、芭蕉の直筆の色紙を摸刻して、昭和48年に一笑の子孫が建立した句碑がある。また境内には辞世の句を刻んだ一笑塚もある。 「心から 雪うつくしや 西の雲」 という句である。

Img_0175  散策路はここから「にし茶屋街」に続くのだが、小雨がしとしとと降っており、回り道になるので犀川大橋に戻る。犀川大橋から上流の桜橋までの犀川河畔には、「犀星のみち」という遊歩道が続いている。詩人であり作家でもあった室生犀星は、犀川大橋の少し上流の川縁の家で生まれたのである。その遊歩道をしばらく行くと、小松砂丘の筆による 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」 の句碑がある。兼六園、成学寺に続く3つ目の句碑である。

Img_0176 この句は[金沢(3)]で述べたように金沢に入る前に詠まれたものだそうだが、芭蕉が金沢に着いたのは陰暦7月15日の盂蘭盆の日で陽暦では8月29日にあたる。当日は快晴だったそうで残暑が厳しかったのだろうか。私が犀川の畔に立っているのは9月5日夕刻でほぼ同じ季節だが、台風余波による小雨模様の蒸し暑い日で、当初想像していた暑苦しい陽が傾く河畔の夕暮れの光景には出会わなかった。(写真は犀川と犀星のみち)

 芭蕉は金沢に9泊したがその間、多くの俳人と会い、俳席に招かれたり寺院巡りや市中見物などで過ごした。その中のある一日、犀川の畔にあった斉藤一泉邸に招かれ、12人も集まった俳人と共に半歌仙を巻いた。その時の芭蕉の発句は 「残暑暫(しばし) 手毎にれうれ 瓜茄子」 だったが、それを推敲して 「秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子」 とした句がおくのほそ道に載っている。その頃、曽良は疲れのためか旅日記にも病気ゆえと記してその半分ほどしか同行していない。この半歌仙の句会にも曽良は出席せず、句だけ出したといわれている。この日の様子は後日発行された「俳諧一葉集」に描かれているということである。犀川を跨ぐ桜橋の先にある長久寺という寺にその句碑があるというが、あいにく行きそびれてしまった。

野田山大乗寺

 金沢市街が一望できる南方の野田山の中腹に大乗寺という曹洞宗の寺がある。芭蕉も金沢滞在中の寺社巡りの時に、犀川を遡って訪れたといわれている。隣接した野田山墓地には前田家をはじめとする金沢市民の大きな霊園がある。大乗寺は江戸時代から「伽藍瑞龍、規矩大乗」といわれ、厳しい修行で知られた寺で、今でも静寂の中に俗界を越えた雰囲気を漂わせる寺である。

 曹洞宗は福井の永平寺と横浜鶴見の総持寺を本山としているが、大乗寺はそれに次ぐ寺格を持ち、永平寺三世の徹通義介が真言宗の寺を曹洞宗に改修したのが起源とされている。また大乗寺二世は総持寺を開いた蛍山禅師である。総持寺は能登の総持寺祖院に開かれたが、明治時代の火災により横浜鶴見に移転したのである。また「伽藍瑞龍」の瑞龍寺は[越中路]で述べた高岡にある国宝になっている大寺である。

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A0131  大乗寺参道を行くと先ず黒門と呼ばれる総門がある。総門を潜ると大きな松と苔で覆われた庭の先に赤門と呼ばれる山門がある。左右に仁王像が安置され大乗寺では最も古い建物だそうである。その奥には七堂伽藍の中心になる立派な仏殿がある。国の重要文化財になっている。内部正面には釈迦如来像を中心に文殊菩薩、普賢菩薩を脇侍とした釈迦三尊が祀られている。(写真は黒門と赤門)

A0132 A0134 仏殿から向かって右側に庫院がある。その手前に受付があり土産物、写真などがある。大乗寺の名物は放し飼いで10日に1度しか産卵しないという烏骨鶏(うこっけい)の卵を使用した「天来烏骨鶏かすていら」である。庫院(庫裏)の前には仏法や伽藍の守護神、韋駄天が安置されている。方丈を左手に折れると山門、仏殿を結んだ延長線上に法堂がある。法堂と仏殿のあいだの参道の左右には睡蓮を植えた大鉢がたくさん並び、まだ咲き残っているものもあった。満開の時はさぞかし壮観だったろう。(写真は仏殿と法堂前の蓮の大鉢)

A0133  中庭は萩とすすきが咲き秋の気配が満ちている。地面はすべてふかふかとした苔に覆われ、ぐっと気持ちが落ち着く雰囲気である。大乗寺に隣接した野田山墓地近くに蓮如上人像を安置した西山蓮如堂がある。[金沢(3)]で述べた卯辰山の宝泉寺近くにある東山蓮如堂と対になって、戦国時代末期に金沢御堂として一向宗徒により創建されたその後の金沢城を、東西から見守っている。一方野田山墓地には藩主である前田家代々の墓があり、戦国時代を経て安土桃山時代から江戸時代末期まで続いた加賀百万石の繁栄をこれもまた見守っているのである。

 酒田を陰暦6月25日(陽暦8月10日)に出発した芭蕉一行は19日掛けて陰暦7月15日(陽暦8月29日)に金沢に着き、9日滞在した後、同7月24日(陽暦9月7日)に小松に向け出発している。その間約1ヶ月だが、芭蕉は市振での遊女との出会いと金沢での一笑の追善供養にポイントを絞った書き方をしており、おくのほそ道前半の歌枕をたどり、いにしえを偲ぶ記述から、同時代の人々との出会いを取り上げる記述が多くなってきている。この後も山中温泉での曽良との別れ、天龍寺での北枝との別れなどや各地で旧知の人々や俳人との出逢いと別離があり、未知の東北から勝手知ったる北陸、湖北に戻り、ほっとした気分で人々に接している様子がうかがわれる。

  (H17-9-5訪)

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 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

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