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2008年10月25日 (土)

金沢(2)

金沢

 金沢市は東側に浅野川が、西側に犀川が流れ、中央の丘の上に金沢城跡,兼六園がある。丘の下は武蔵ヶ辻・近江市場から香林坊・片町に続く繁華街である。浅野川の北東側は卯辰山という丘陵が連なり、その中腹に卯辰山山麓寺院群がある。また犀川の西南側は同じく丘陵地帯で此処には寺町寺院群がある。これは加賀百万石の始祖前田利家が市内の寺院を集めたもので、金沢城の出城の役割を持たせたという説と、一向一揆に備えて市内の寺院を東西の丘の上に集め、その後に領内の真宗寺院を入れて東西から監視させたという2説がある。

 金沢は前田利家からの加賀百万石の城下町であるが、その少し前には約百年間続いた一向一揆による加賀・越中の支配地であり、およそ35年の間「百姓の持ちたる国」の本拠地としての金沢御堂があった場所である。高岡の瑞龍寺は前田家二代藩主利長の菩提寺だが、一向門徒の多い越中の要として利長が築いた高岡城が徳川の一国一城の制により廃却された後、その代わりとして造営されたとの説があることは高岡瑞龍寺のところで述べた。初期の前田家は一向門徒の動きに非常に警戒していたのである。

卯辰山宝泉寺

 駅前から金沢周遊ボンネットバスに乗り、浅野川北岸の橋場町④バス停で降りる。此処から観光スポットであるひがし茶屋街は間近である。懐華楼,兎夢など旅行案内書にある茶屋街の店を通り過ぎて、宇多須神社の脇の卯辰山に通じる急坂を上って行くと、芭蕉が訪れたといわれる俳人鶴屋句空の草庵「柳陰軒」があった場所がある。現在は宝泉寺という寺になっているが、ここに芭蕉の句碑がある。

Img_0151  しかし風情のある句碑が二つあったが、それは幕末の俳人桜井梅室のもので芭蕉の句碑が見当たらず、寺の人の聞いたら入口近くにある木の根本にある小さな石碑がそうだと教えられた。文字はほとんど摩滅しているが、かすかに柳陰軒址と読める。碑の横面には ここで詠んだ 「ちる柳 あるじも我も 鐘を聞く」 との芭蕉の句が刻まれているのだがこれは殆ど読めない。しかしなかなか味のある句である。

Img_0148  本堂の裏手に廻ると東山蓮如堂という大きな蓮如上人の立像があって、ここが戦国時代の末期には浄土真宗の本拠地だったことを思い起させる。境内の南側にある展望台からは浅野川河畔までの金沢の街が一望の下に見渡せ、その先の台地には五十間長屋が連なる金沢城や兼六園が眺められる。ドナルド・キーンがここから見る落日の素晴らしさを絶賛したといわれている。

Img_0155  宝泉寺下の小路を下りると梅ノ橋という名の橋が架かる浅野川河畔に出て、徳田秋声記念館がある。浅野川東岸は「秋声のみち」という遊歩道が続いている。 梅ノ橋を渡ると浅野川西岸は「鏡花のみち」という遊歩道になっている。川の中州には青鷺が休んでいて、のんびりした風情がかもし出されている。滝の白糸の碑があると案内書にあったので探すと、「滝の白糸碑」という石碑があった。あとから案内書の写真など見ると水芸をしている石像があるというが、それは見当たらなかった。対岸を見ると徳田秋声記念館の上方の崖の上にさっきまで居た宝泉寺の見晴台が見渡せた。

兼六園

 金沢周遊ボンネットバスを兼六園下①バス停で降り紺屋坂を登ると、右手のお堀通りに架かる橋の先に金沢城公園、左手に兼六園の桂坂入口がある。ここから金沢城公園に入るには重要文化財になっている石川門を通る。屋根瓦は白く輝く鉛瓦である。高岡の瑞龍寺と同様に、いよいよの時には溶かして銃弾にするとも雪が積もりにくいからともいわれている。

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Img_01571  金沢城は天文15年(1546)金沢御堂として一向宗徒により創建され、佐久間盛政がそれを制圧して尾山城とし、その後前田家の居城となった。しかし江戸時代から度々火災に会い天守閣などは消失した。その後明治になってからの火災で二の丸が焼け石川門と三十間長屋だけが残ったそうである。石川門を過ぎると広い三の丸広場を隔てて平成13年に再建された菱櫓,五十間長屋,橋爪門続櫓が長々と威容を見せている。ゆっくりしたかったが予定時間もあまり無く、早々に兼六園に向かった。

Img_0163  桂坂入口から入る兼六園で目を引いたのは一面の杉苔である。雨模様の天気だったので苔の緑がひときわ鮮やかだった。なだらかな坂を上り切ると霞が池にかかる有名な微軫(ことじ)灯篭が見えてくる。写真で見たときは小さなものだと思っていたが、実物はずいぶん大きい。手前の虹橋という名の石の橋で微軫灯篭と写真を写す人が大勢居た。

 芭蕉の句碑がある山崎山を目指して行くと明治記念之標というに日本武尊の大きな像がある。西南戦争で戦死した郷土軍人の霊を慰めるために建てられたそうだが、周りの風景との違和感が大きく、兼六園には似つかわしくない。いつの世にも見識の無いのに権力だけを振り回す人間が居る事を証明しているようなものだ。

 小川の清流に沿って歩く。兼六園は池や小川がその景観を支えている。相次ぐ金沢城の火災に対処するため、ここから二の丸に水を引くようにしたそうで、霞が池はその貯水池の役割がある。また園内にある噴水はそのために逆サイフォンの原理を応用した試作品で日本最古の噴水だそうである。

Img_0165  更に進むと山崎山という小高い丘があり、その上り口に芭蕉の句碑があった。 「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」 の句碑である。上部は苔で覆われているが辛うじて読める。書は江戸後期金沢の俳人梅室の筆によると案内板に書いてある。梅室は幕末の俳人で、前出の宝泉寺に句碑を残している人物である。 

 「あかあかと----」の句は金沢に入る前に作られたそうだが、おくのほそ道には金沢から小松に行く途中の句として載せられている。子規はこの句を酷評しているのだが、金沢出身の室生犀星は「子規は芭蕉の俳諧の境地に達していないので理解できないのだ」という様な事を言ったとの話がある。しかしこの句には9月になったのにまだ残暑が厳しい様子がよく表現されていると思う。金沢にはこの句碑が他にもあと二つある。金沢での芭蕉のテーマは小杉一笑なのだが、この句に捨てがたい思いを抱く人が多く居たのだろう。

Img_0170  またまた金沢周遊ボンネットバスに乗り、兼六園から金沢一の繁華街である片町まで行く。此処の片町2丁目交差点にある北国銀行の前に芭蕉の辻という小さな石の標柱がある。芭蕉は当初京や吉兵衛宅に泊まったが、翌日から8日間、宮竹屋喜左衛門宅に泊った。その家がこの付近にあったので建てたものだそうである。「元禄2年初秋焦翁奥の細道途次遺蹟」と記されている。  (H17-9-5訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

2008年10月13日 (月)

金沢(1)

倶利伽羅峠

 芭蕉は「卯の花山、くりからが谷をこえて」加賀金沢に入ったと記している。卯の花山は柿本人麿の「かくばかり 雨の降らくにほととぎす 卯の花山になほか鳴くらむ」の歌枕の地で小矢部市にあるという。くりからが谷は倶利伽羅峠である。

Img_0084  峠の登り口に埴生護国八幡宮がある。この社は千三百年の歴史を持ち、木曽義仲は倶利伽羅合戦の勝利を祈願し、また芭蕉も参拝した。本殿,拝殿は重要文化財に指定されている。正規の参拝ルートは108段の長い石段を上がるようになっており、その上がり口には木曽義仲が馬に騎乗している像があるのだが、車で社の後方から入ったので分らなかった。

 峠には八幡宮の前から源平ラインという整備された道を登って行く。山頂近くに倶利伽羅不動寺という大きな寺がある。倶利伽羅峠の由来はこの寺から来ており、倶利伽羅の意味はサンスクリット語で「剣に黒龍の巻いた不動さん」ということだそうである。ここには弘法大師が彫ったとされる御前立不動尊が安置されていて日本三大不動の一つとされており、江戸時代に加賀前田藩の祈祷所としてまた参勤交代の休憩所として栄えたといわれる。

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峠付近は県立公園になっており、大きな源平供養塔が立っている。また源平合戦火牛の計像があり、その付近のやや平坦な地が猿ヶ馬場古戦場という10万余騎の平家軍が終結した場所である。この場所に江戸宝暦年間に建てられた 「義仲の 寝覚の山か 月かなし」  との芭蕉塚句碑がある。更に少し離れた場所に最近建てられた同じ文句の句碑がある。この句は8月15日に敦賀で詠んだ「芭蕉翁月一夜十五句」の中にある。芭蕉は義経びいきと同時に義仲びいきでもあるのだが、奥の細道では倶利伽羅峠については一言も触れていない。敦賀で月を詠んだ十五句からも選ばなかったので、地元の俳人が残念に思い建立したものである。 

 峠を過ぎると加賀に入る。芭蕉が江戸深川の採茶庵を旅立ったのは陰暦3月27日、現在の暦の5月16日である。山寺には陰暦5月27日(陽暦7月13日)、象潟には陰暦6月16日(陽暦8月1日)、出雲崎には陰暦7月4日(陽暦8月18日)に着いている。そして倶利伽羅峠を越えて北陸路金沢に着くのは陰暦7月15日(陽暦8月29日)であり、新緑の江戸を離れてから106日目の秋の気配が漂う頃であった。

 源平ラインを峠から下ると倶利伽羅源平の郷竹橋口という石川県側から倶利伽羅峠に行く歴史国道の出発点になる道の駅に似た休憩・展示の建物がある。ついでながら富山県側には埴生護国八幡宮の近くに倶利伽羅源平の郷埴生口という同様な建物があるそうである。ここから国道8号線に出て金沢までは車で30分ほどの距離である。    (H16-10-12訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

2008年10月 9日 (木)

越中路

放生津八幡宮

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 国道8号線の道の駅「越後市振の関」を過ぎると富山県に入る。当初は句碑を訪ねながら8号線を行く筈だったが、予定時間から大幅に遅れてしまったため、朝日ICから北陸自動車道で富山西ICまで行った。途中の有磯海SAに 「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」 の句碑がある。

 おくのほそ道では越中について記した段は、「くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠(たご)の藤波は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、『是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ』といひをどされて、かヾの国に入。 わせの香や分入右は有磯海」 とあるだけで越後路の記述同様簡素なものである。

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 芭蕉は市振の次に滑川(なめりがわ)に泊った後、富山湾沿いの浜街道を放生津に向かった。国道415号線を行くと昔の潟湖,現在の富山新港に出て、海王丸パークの案内標識を見ながら走ると新湊市(現在射水市)の放生津八幡宮に着く。

Img_0066 此処は越中の国守をしていた大伴家持が宇佐八幡宮から分霊して祀った所だという。境内には佐々木信綱筆の、家持の大きな歌碑が建っている。「安ゆ(北東)の風 いたく吹くらし奈呉の海人(あま)の 釣りする小舟こぎ隠る見ゆ」 と刻まれている。その裏手の海岸の方に老松があり「奈呉之浦」との石柱がある。大伴家持以来、このあたりは奈呉の浦として歌枕になっていたのである。

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 家持の歌碑から少し離れて芭蕉の 「早稲の香や 分け入右は 有磯海」 の古い句碑がある。芭蕉の百五十回忌(天保14年)に建立されたものである。 有磯海も歌枕のひとつであり、大伴家持が詠んだ 「かからむと かねて知りせば越の海の 有磯の波も見せましものを」 が出典になっている。放生津八幡宮の拝殿前には江戸中期に奉納された大きな木彫りの阿吽の狛犬があるのが目を引いた。担籠(たご)の藤波は藤原縄麿の 「たこの浦の 底さへ匂ふ藤波を かざして行かむ見ぬ人のため」 の歌枕の地で氷見市にある。この歌は家持の「あゆの風---」と共に万葉集に載せられているそうである。芭蕉はこの八幡宮あたりから海を眺めたが、行こうとした担籠(たご)の藤波は蘆の一夜の宿かすものあるまじ、といひをどされた。として高岡に向かったのである。

高岡瑞龍寺

 高岡は加賀前田家第二代藩主の前田利長が高岡城を築いてから発展した所である。1609年(慶長14年)に、加賀藩二代藩主前田利長が、この地に城を築き、詩経の「鳳凰鳴矣干彼高岡」(鳳凰鳴けり彼の高き岡に)からとって高岡と名づけたが、6年後の元和元年(1615)に「一国一城の令」により高岡城は廃城となり、城下は急速に衰退した。しかし利長の異母弟であった三代藩主利常は、利長の遺志を継いで手厚い保護のもとに高岡を商工の町へと転換し発展させたのである。

 高岡を代表する観光拠点である国宝瑞龍寺は、三代藩主利常が利長の菩提を弔うために造営したものであるが、加賀・能登・越中は前田利家が領有する前には一向一揆が支配し、秀吉が全国を統一する十年ほど前までおよそ百年間、念仏の共和国が存続していた所である。利家は真宗寺院に対し懐柔策を採ったが、それと並行して武力の準備も怠らなかった筈で、当時の境内は約4万坪という広大なものであり、周囲に2重の堀を廻らし高岡城廃城の後、一旦緩急あれば城郭としての機能も果たす役割もあった。

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 駐車場から八町道という長い参道を行くと重文に指定されている総門の前に出る。案内人の後から総門を潜ると一面の白砂が敷かれた広場があり、その先に国宝に指定されている壮大な山門が姿を現す。雨模様の天気だったが左右に東司と浴室を配置し、白壁と杉皮葺の回廊で結ばれた山門は、重厚さと威圧感を漂わせている。(写真は山門)

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 白砂の広庭の中を総門から続く石畳を行くと、山門の先は青々とした芝生で覆われその中を石畳が一筋の線になって仏殿(国宝)から法堂(国宝)に続いている。前庭の白砂と緑の芝生との対比が鮮やかである。仏殿の瓦屋根は鉛で出来ていて一旦緩急ある時は鋳つぶして弾丸にするためだといわれている。しかし鉛はかわらの表面を薄く覆っているだけで普通のかわらより軽く、雪の滑りも良いとの事であり、また白銀に輝き見栄えもするので、実際はその全ての理由だったのかもしれない。(写真は仏殿と法堂)

Img_0071  仏殿(国宝)の内部には釈迦、文殊、普賢の三尊が祀られ、間近に拝することが出来る。仏殿の左右には緑の芝生を隔てて雲水が起居し、座禅を組む禅堂と食事を作る大庫裏がああり、仏殿を囲んで山門から法堂まで回廊で結ばれている。その禅堂,大庫裏,回廊はすべて重要文化財に指定されており、国宝の山門,仏殿,法堂と共に江戸初期の禅宗伽藍建築として威容を誇っている。 しかし明治初期の神仏分離令の頃は、ご他聞に漏れず苦境をしのぐために土地や建物の切り売りをして仏像も散逸し、平成9年に国宝指定を受けるまでには大庫裏の玄関が他の寺院にあったのを発見して戻してもらったりするなど苦労の連続だったという。(写真は仏殿内部)

 芭蕉はもとより前田家菩提寺である瑞隆寺に立寄る訳は無く、高岡旅篭町に泊った。曽良は「翁、気色勝れず、暑極て甚」と記している。翌日は市内を流れる小矢部川に出て、舟で石動(いするぎ)まで遡り倶利伽羅峠に向かったといわれる。 

(H16-10-13訪)

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 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

2008年10月 5日 (日)

市振

親不知

 能生ICから北陸自動車道で親不知ICに行く。親不知ICは海の上に突き出た場所にあり、いかにも難所にあるICだと思わせる。おくのほそ道、市振の段の始めには「今日は親知らず・子知らず・犬戻・駒返などいふ北国一の難所を越えて疲れ侍れば---」と親不知の険を越えた事が記されている。

 親不知ICから国道8号線に出て、少し行くと親不知観光ホテルがあり、親不知展望台に連なっている。昔の北陸街道はこの付近の親不知子不知海岸の波打ち際を通っており、片側は断崖絶壁であるので天候が急変しても逃げ場が無く、親子が互いに手を取り合うことも出来ず、波にさらわれても助けられない北国一の難所として知られていた。

 源平の昔、壇ノ浦で滅びた平家の一族池大納言平頼盛は、死ぬべき命を敵の源氏に助けたれ、おのが領地の越後の蒲原の五百刈村へ隠れた。この夫を慕って奥方がこの天険を通りかかり、ふところの2才の愛児を波にさらわれて、悲しみのあまり詠んだ 「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」 の歌から親不知子不知と呼ぶようになったといわれている。

 車がゆっくりすれ違えるほどの広い石畳の坂道を親不知の天険断崖の上にある展望台に行くと、親不知付近の海岸線の模型があり、大懐,小穴,大穴,髭剃り岩,弁慶の力水などの難所や避難所がその由来と共に描かれている。また青海八景として「四世代道暮色」との道標が建っていて、昔の北陸街道,明治16年に天皇行幸にあわせて作られた旧国道,現在の国道8号線,北陸自動車道の四世代道が海岸に突き出た親不知IC付近に望見できる場所である。この辺りは現在新潟県糸魚川市だが以前は青海町だったところである。

 旧国道は現在「町道天険親不知線」として日本の道100選に選ばれており、展望台から更に遊歩道として続いているが、日本海を見渡す大きな一枚岩に「如砥如矢(とのごとくやのごとし)」と刻まれた場所がある。この辺りは親不知海岸でも最も厳しい天険であり、明治時代に旧国道が開通したことで厳しい親不知海岸を通らなくても「砥石の如く滑らかに、矢の如く早く通れる」との意味で、当時の人々の喜びを刻んだそうである。

Img_0055_3   また展望台の前にはウェルター・ウェストンが椅子に腰掛けて海を眺めているブロンズ像がある。この場所は北アルプスの北端が海に落ち込んで断崖になっているのだが、日本アルプスの名付け親であるウェストンは明治27年にそれを確認するため、わざわざ「天下の険親不知」を訪れた。その全身像を昭和63年に建立したのを機に「海のウェストン祭」が毎年5月に開催されるそうである。

 親不知の断崖から、北アルプスの朝日岳(2,418メートル)に伸びる栂海(つがみ)新道は国内で唯一、山から海へまた海から山へと、ダイナミックな縦走ができる登山道として知られ、全長約27キロ、標高差約3000メートルに及ぶ急峻な道は高山植物や野鳥の宝庫だといわれている。

  断崖下の海岸にあった北陸街道は冬は日本海の荒波が押し寄せるが、夏は穏やかな時が多く、曽良の旅日記には何も記されていない。現在の親不知海岸は漁港の整備により、海岸線が侵食されて常に波が打ち付けて通行不可となり、舟で眺めるしか無いないそうである。

市振

A0128 A0114  親不知を過ぎるとすぐ市振宿がある。国道8号線を海寄りに旧道を行くと集落の入り口に街道の松という老松が立っている。昔の旅人は親不知の難所を通り抜けこの松を目にした時、ほっとした気分で市振宿に入ったのだろう。芭蕉は脇本陣だった桔梗屋に泊ったと言われているが、大正初めに市振で大火があり、資料は何も残されていないそうである。現在の市振宿は殆ど車の通りも人通りも無く、寂れた寒村の風情で、芭蕉が書いた遊女との話の舞台としてはちょっと物足りないところがある。

Img_0057 Img_0058  おくのほそ道には「疲れ侍れば、枕引き寄せ寝ねたるに、一間隔てて面の方に、若き女の二人ばかりと聞こゆ。----白波のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、----」と記し、若い女性の声が聞こえ、それは伊勢参りの遊女だと分かる。翌朝「行方知らぬ旅路の憂さ、あまりおぼつかなう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたい侍らん。衣の上の御情けに大慈の恵をたれて結縁せさせ給え」と泪ながらに同行を頼まれるが「不便の事には侍れども、我々は所々にてとどまる方おほし。ただ人の行くにまかせ行くべし。神明の加護かならず恙(つつが)なかるべし」と断ったとある。そのとき詠んだ 「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」 の立派な句碑が、集落から国道を隔てた長円寺に、相馬御風の筆により、大火の後の大正14年に建てられている。

  このいろどりのある市振の段は芭蕉の創作であろうといわれている。おくのほそ道を連句の三十六の歌仙形式にすると、ここは恋の座に当たるというのである。歌仙は表(オモテ)六句、裏(ウラ)十二句、名残の表(ナオ)十二句、名残の裏(ナウ)六句の三十六句で構成されるが、表(オモテ)の始めの句を発句(ホック)、次の句を脇、三十六句目を挙句(アゲク)という。裏(ウラ)十一句目は花の句の定座で桜を詠むことになっている。名残の表(ナオ)十一句目は秋の月の句の定座である。

 恋の歌は名残の表(ナオ)の七~十句辺りで詠まれることが多い。おくのほそ道を三十六に区分すると、分け方にもよるが出立から芦野遊行柳までの日光路が七区分。白河から平泉までの奥州路が十区分。尿前から象潟までの出羽路が七区分。越後から大垣までの北陸路が十一区分になり、市振はさいしょから二十八番目で、名残の表(ナオ)の十番目の句の位置になるというのである。真偽はともあれ、事実上のおくのほそ道だった象潟までと第二部に当たる北陸路を結ぶエポックとなる彩りのある場面である。 (H16-10-12訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

 

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