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2008年6月 1日 (日)

最上川(4)

最上川船下り

A0069  道の駅「とざわ」を過ぎると直ぐ現在の最上川舟下りコースの出発点古口舟番所に着く。芭蕉一行は本合海から乗船したが、ここ新庄藩古口舟番所で船を降りて出手形を出し、別の船に乗り換えて清川に向かっている。最上川はこの古口から清川までの区間は、左右から山がせり出し最上峡と呼ばれる急流になる。この区間は昔は道も無く船便だけしか行き来の方法は無かったそうである。芭蕉が舟下りをしたのは陽暦7月19日で梅雨が明けるかどうかの水嵩さがだいぶ多い時期であり、「五月雨を集めて速し---」は実感だったのであろう。

 舟下りの料金は1,970円で約1時間かかるのだが、当日は秋の行楽シーズンの日曜日なので観光客が列をなしていた。舟はあまり間隔を置かずに運行をしているが待ち時間が40~50分あり、更に車の回送料が2,500円かかると料金表に書いてあるため、残念だが舟下りは止めて沿線の国道47号線を車で行くことにした。

 「おくのほそ道」ではこの最上川舟下りの段を 「最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてんはやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをやいな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。 五月雨をあつめて早し最上川」 と表現している。

 「ごてんはやぶさ」とは「碁点」「隼」と書くが「碁点」は岩が碁石の如く河中に点在するため、また「隼」は水の勢いが速く隼が飛ぶようであるためにこの名があり、共に最上川にある難所の中でもとりわけ危険な所と言われている。大石田の段で述べたように両方とも大石田よりも上流にあり芭蕉は実際は見ていないが、最上川の流れの激しさを強調するために入れたものであろう。

A0070 「板敷山」は仙人堂の対岸にある630メートルほどの山で「みちのくに ちかき出羽の板敷の 山に年ふる我ぞ侘しき」との歌枕の地である。また最上川は歌枕として稲舟とともに歌われることが多い。「稲つみたるをや いな船といふならし」 のいな船とは稲を積んで運ぶ船で、急流の中を危うげに上り下りする小舟の様子を表現している。 「もがみ川 のぼりもやらぬいな船の 逢瀬すぐべき程ぞ久しき 道因法師」 「もがみ川 又いなぶねのくだる瀬を しばしばかりもいかでとどめん 春宮大夫師兼」 「いなぶねも のぼりかねたるもがみ河 しばしばかりといつを待ちけむ  藤原嗣房朝臣」 などの歌が詠まれている。仙人堂は国道の対岸にあるが、高屋乗船場から船が出ていて往復できる。昔、義経主従が都落ちの時、家臣の常陸坊海尊がこの地で義経と別れ、仙人になって山巡りしたと伝えられているのでこの名がある。

 仙人堂を過ぎると間もなく現在の最上川舟下りの終点である草薙温泉降船場の立派な建物が見える。芭蕉はその少し先にある庄内藩の清川関で舟を降りた。「曽良随行日記」によると添状に不備があり、関所で一悶着あったが何とか通してもらったらしい。

A0072  最上川畔の清川小学校前の関所跡に芭蕉像や「芭蕉上陸之地」の石碑、芭蕉句碑が建っている。芭蕉句碑は昭和31年(1956)の建立で石碑に埋められた銅版に、昭和の芭蕉とも言われた俳人で書家の加藤楸邨によって以下の文字が浮彫りされている。 「清川史跡 清川関所跡  芭蕉荘内上陸地  芭蕉 五月雨を あつめて早し 最上川  楸邨筆」

 清川は幕末の志士「清河八郎」の出身地である。鶴岡市出身の藤沢周平は「回天の門」という題の小説で、新撰組の結成に関わったが後に尊皇攘夷を唱えて暗殺される清河八郎の活躍を詳しく描いている。この清川には清河八郎記念館があり、清河八郎の遺品や明治維新に関する資料が展示されている。

A0075  記念館の前に清河八郎を祀った清河神社があるのには驚いた。昭和8年(1933年)の創建とのことである。鳥居の脇に清河八郎の坐像が鎮座している。坐像の横には、「明治維新と清河八郎」と題する説明板があり以下の事が書いてある。 「天保元年(1830年)10月10日、出羽庄内清川村斎藤豪寿の長男として生れる。18才で江戸に出て学を東條一堂に、剣を千葉周作に学び北辰一刀流兵法皆伝の域に達した。25才で神田三河町に清河塾を開いた文武兼備の英士であった。その後、全国に雄飛し尊皇攘夷討幕の同志と結び、明治維新の風雲を起した主役といわれている。文久3年(1863年)4月13日、麻布一ノ橋において幕府刺客のために暗殺され34才で生涯をとじた。」

 乃木神社は東京,栃木,山口,京都の4ヶ所あり、東郷神社は東京,福岡の2ヶ所にあることを考えれば維新の魁の人物を祀った清河神社があっても可笑しくは無いのかもしれないが、何と無く違和感がある。

 立川町清川はまた庄内戊辰戦争の清川口古戦場として知られる。境内に正岡子規の大きな句碑があり、子規が書いた「はて知らずの記」8月9日の一節が刻んである。 「漸くにして清川に達す。舟を捨てて陸に上る。河辺杉木立深うして良材に富む。此処戊辰戦争の故蹟なりと聞きて、 蜩(ひぐらし)の 二十五年も 昔かな」

A0074 正岡子規は明治26年26歳の時、松尾芭蕉の「おくのほそ道」に憧れて東北を旅し、「はてしらずの記」を書き上げた。7月19日に東京を出発し、白河,須賀川,飯坂,岩沼,仙台つつじが丘から松島まで10日掛けて回っている。更に多賀城址から反転して作並温泉を経て大石田から最上川を下った。前述のように大石田の乗舩寺に 「ずんずんと 夏を流すや 最上川」 の句碑がある。清川から酒田に出たのが更に10日後の8月9日である。そこから象潟を経由して八郎潟,秋田,大曲に向かい黒沢尻から水沢に出て8月19日の夜行で帰京した。ちょうど1ヶ月間の旅だった。

 大曲から友人である夏目漱石に出した手紙に 「秋高う 象潟晴れて 鶴一羽」 というのがある。子規はその2年後の明治28年に日清戦争の従軍記者として大陸に渡るが、喀血して入院後松山に帰郷し、更に東京に戻って1902年(明治35年)わずか35歳でこの世を去るのである。

 国道47号線を清川から狩川に向かい、最上川から離れて手向(とうげ),羽黒山に続く県道46号線に入ると林立する風車群が見えて来る。この付近は「清川ダシ」と呼ばれる強風が吹く地帯で風力発電が盛んな所なのである。

 曲がりくねった山間の道を暫らく走ると1軒だけぽつんと建っている蕎麦屋があった。最上川近辺で昼飯を摂り損ねたため何か食べなくては、と恐る恐る入口を開けると営業していると言う。喜んで入り天麩羅蕎麦を注文したが空腹のせいもあってかとても旨い蕎麦だった。こんな山の中で商売になるのかと思いながら車を走らせると急に人家が増えて手向の集落に入り、成る程反対側には直ぐ近くに客が大勢いたのだと納得した。 (H15-10-19訪)

 注1:写真をクリックすると大きくなります。

 注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。

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コメント

 曾良の日記を日々追いかける形で《おくのほそ道》を少しずつ読み返しています。茨城さんのブログのていねいな奥の細道旅には、教えられることが多く、先日来少しずつ読ませていただいています。子規の旅の旅程もくわしく知りたいところです。
 お暇な折に、拙日記↓にもおいでいただければ幸いです。
http://www3.diary.ne.jp/user/325457/

こんばんは

ぼくは仙台に住んでいます。今日から!芭蕉の追っかけをしようと思い立ちまして、岩出山から尿前の関まで車で走ってきました。茨城さんみたいな緻密な旅日誌はかけませんが、まあ、気楽に適当な旅をしてゆきたいと思っています。
よろしくお願いします。

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