2009年12月22日 (火)

松尾芭蕉この一句

Img_0033  11月25日(平成21年)の朝日新聞「天声人語」欄に『松尾芭蕉この一句』という本の紹介があった。この本は芭蕉の約一千句とされる作品のどれが好きかを現役の俳人312人の投票によって順位を付け、その上位157作品が記載されているという。また同欄には正岡子規の芭蕉評として「過半悪句駄句を以て埋められ」と辛(から)かったが、その上で可なるもの200句余句あると認めたとも記されており、この本には子規が認めた可なる句は殆ど入っていると思われる。

 その中に「おくのほそ道」の句がどのくらい含まれているだろうと思い、早速購入することにした。この様な一般の書店ではあまり置いていそうもない本はアマゾンからネットで買うことにしている。インターネットで発注すると翌日か翌々日に届き、1,500円以上は送料も無料である。また少額だがギフト券が付き割引になる場合もある。

 芭蕉の紀行文は「おくのほそ道」の外に「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更科紀行」「嵯峨日記」があげられ、主要句集として芭蕉七部集「冬の日」「春の日」「阿羅野」「ひさご」「猿蓑」「炭俵」「続猿蓑」があり、それぞれに芭蕉の句が載っている。

良く知られた句として「古池や 蛙飛び込む 水の音」は春の日に、「野ざらしを 心に風の しむ身哉」「山路来て 何やらゆかし すみれ草」は野ざらし紀行に、「旅人と 我名よばれん 初しぐれ」は笈の小文に、「初時雨 猿も小蓑を 欲しげなり」「行く春を 近江の人と 惜しみける」は猿蓑に、「梅が香に のっと日の出る 山路かな」は炭俵にという具合で目白押しである。

そのなかで「おくのほそ道」の句を調べたところ36句入っていた。外に初案の句と曽良の俳諧書留にある句がそれぞれ1句づつあり、それを含めると157句中38句で24%と約四分の一の率になる。そして50位以内の句になると18句入っていて36%の高率に跳ね上がり、さらに20位以内では9句と約半数は「おくのほそ道」の句が占めていた。現代の俳人も「おくのほそ道」には名句が多いと認めているようである。

それでは10位以内は、またベストスリーはと知りたいところだが、この本のまえがきに「読み終わっても、まだ読んでいない人には、是非、結果を知らせないでおいてください。」とあるので、芭蕉が湯殿山で「よって筆をとどめて記さず。 語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」と何事も書かなかったように、ここで留める事にしたい。因みにこの句は82位のランクである。

2009年12月14日 (月)

コラム5(ホームページ⑤)

ブログとホームページ 5

 おかげさまで「奥の細道漫遊紀行」のブログは年末には12,000回のアクセス数を越えそうである。最近の記事だけではなく、見たいタイトルにすぐアクセスできるようにと思って作成中のホームページ 「イバイチの奥の細道漫遊紀行」(http://www.geocities.jp/okunohoso)は出羽三山まで完成した。写真を追加したり文章を校正したりしながら作っているので、やっと半分くらいまでの進捗状況である。アクセス回数も少しづつ増えて来ている。

 今年(平成21年)8月からの作成なので4ヶ月かかって道半ばということは、完成までには更にあと4ヶ月くらいはかかるだろう。その後は一応「奥の細道」から離れて、当初の目的である東北地方の見聞録と今まで歩いた甲信地方の旅のあれこれなどをアップして行きたいと思っている。

 そのことは奥の細道を巡り終えて、このブログをアップする時から考えていたのだが、「イバイチの奥の細道漫遊紀行」のホームページを、一から勉強して作っているので大幅に遅れてしまった。それというのもこのブログがこんなにアクセスを貰えるとは予想もしていなかったからである。

 私のインターネットのプロバイダーは「ぷらら」なのでそこでホームページアドレスを取得したのだが、所属しているHPの会の先輩たちから「Yahoo!ジオシティーズ」が容量50MBまで無料なので有利であると教えられ、そちらのアドレスも取得した。しかしプロバイダーの広告が画面の上部に入り、それが画像をポップアップして大きくした画面にも入ってしまうので閉口して有料の「ジオライト」に変更した。これは毎月315円の支払で広告無し、容量300MBまで使用できるというもので、ココログのブログで現在まで使用した容量が360MBになっているので、それと比べるとまだ足りない位である。

 それはさておき、取得しただけで使っていない「ぷらら」のアドレスを利用してもう一つホームページを立ち上げようと思い、2ヶ月ほど前から少しづつ作って平成21年12月1日に何とかアップ出来た。名前は 「イバイチの窓」 とした。ブログの時からペンネームを茨城一郎にしてあったのでそれを略したイバイチである。

 初めにホームページとして立ち上げた 「イバイチの奥の細道漫遊紀行」 を壱の窓とし、弐の窓を 「イバイチの甲信旅巡り」。参の窓を 「イバイチのみちのく探訪」。四の窓を 「イバイチの関東・茨城散歩」。五の窓を [その他]。とした五つの窓の構成にした。最初は写真と紀行文だけで進めようと思ったが、フォトギャラリー的なものも入れようかと思案中である。

 いずれにせよ皆様のお気に召すかどうか覗いて見てください。

 「イバイチの窓」のアドレスは http://www7.plala.or.jp/ibaichi/ です。  

2009年11月12日 (木)

甲信’09秋紀行(3)

甲信’09秋紀行(3)

霧が峰

Img_2586Img_2587  翌日、岡谷ICから国道142号線に出て和田峠に上がり、ビーナスラインを八島ヶ原湿原に行く。夏とは違い訪れる人も少なく閑散としている。八島ヶ原湿原はすっかり草紅葉に変わり、すすきの穂だけが日の光を反射して輝いている。

Img_2599_2Img_2597Img_2610 夏の盛りにはニッコウキスゲの強烈な真黄色の花で覆われる強清水を過ぎると、草原の中に点在する樹木林が多くなり、木々はすっかり秋の装いになっている。今日も天気が良く北八ヶ岳の山並みが見渡せる。車山への上り口を過ぎると黄葉に囲まれた白樺湖が眺められ、さらにその先には蓼科山が大きな山容をのぞかせていた。

Img_2612Img_2613 白樺湖も10月中旬の平日ともなれば観光客は殆どいないが、湖畔は今が秋の真っ盛りである。静かな湖面に映る白樺の明るく黄色の色彩を勿体ないと思いながらいつまでも眺め、たたずんでいた。

八千穂高原

Img_0016_2  ビーナスラインから奥蓼科温泉群を横目に見て国道299号線のメルヘン街道に入る。国道299号線は茅野市から麦草峠で北八ヶ岳を横断し、佐久穂町(佐久町と八千穂村が2005年に合併した)に到る区間をメルヘン街道と称している。途中にある麦草峠は標高2,127mで国道では志賀草津道路(国道292号線)の渋峠(標高2,172m)に次ぐ高さである。峠には麦草ヒュッテという登山基地兼休憩所があるが、最近は駐車禁止になっており、近くのトイレがある場所に駐車場が出来た。

 麦草峠から少し下ったところに白駒池入口があり、何時の間にか有料駐車場が設置されていた。メルヘン街道も通る車が多くなり、何処にでも駐車できる状態ではなくなったようである。

Img_2620  更に下ると小海町松原湖方面への分岐点に着く。此処には「レストハウスふるさと」という休憩所があり、トイレや食堂もある。晴れていれば佐久平から浅間連山に至る雄大な眺望が見られる。このあたりには蓮華つつじの集落があり、シーズンには白樺の木々の間に赤いつつじの花が明るい彩りを添えるのである。

Img_2623Img_2628Img_2629Img_2635  メルヘン街道を進むと 間もなく八千穂高原スキー場口を経て八千穂高原自然園に着く。このあたりは50万本あるといわれる日本有数の白樺群生地である。青空の下、白樺の白い幹と黄色くなった葉。そこに真赤に染まった山紅葉が点在している風景はいつ見ても目を洗われるようである。今回は残念ながら白樺林を貫く道路が工事中で入れず、また紅葉の色がいまひとつで、あまり良い写真が撮れなかった。

Img_2631Img_2632 此処には八千穂レイクと駒出池という二つの沼がある。駒出池はキャンプ場になっているが、シーズンも終わりで静寂そのものだった。八千穂レイクは釣りが出来るのでいつも釣人が何人か来ている。湖畔の木々は黄色く色付き、秋たけなわの風景だった。(写真は八千穂レイク)

注) 写真をクリックすると大きくなります。

2009年11月 5日 (木)

甲信’09秋紀行(2)

甲信’09秋紀行(2)

上高地

Img_2516aImg_2517  平成13年6月以来、8年ぶりの上高地である。秋のシルバーウイーク翌日の平成21年10月13日朝早く、沢渡からバスに乗り8時に大正池に着いた。雲ひとつ無い快晴だった。穂高には3日前の台風の時、新雪が降ったのだがすっかり溶けてしまっていた。雪が無いのは残念だったが、焼岳や穂高の山々は朝日を受けて輝いていた。

Img_2522Img_2524 大正池から上高地自然研究路を田代池に向かう。田代湿原の草紅葉のかなたに明神岳から前穂、奥穂、ジャンダルムへの稜線がくっきり見える。いつ見ても見飽きることの無い景観である。帝国ホテル近くの田代橋と穂高橋を渡り、梓川の左岸に出る。この穂高橋からの穂高連峰も蛇行する梓川を前景にしてその勇姿を見せ、ビューポイントの一つになっている。

Img_2527a 少し行くとウェストン碑がある。英国人牧師のウォルター・ウェストンは明治21年(1888)から7年間日本に滞在したが、その間に槍ヶ岳や穂高の山々に登り、飛騨山脈を日本アルプスとして世界に紹介した。それを顕彰して日本山岳会がウェストンのレリーフを作ったのである。毎年6月にはここでウェストン祭を開き、釜トンネルが出来る前の上高地に入るメインルートだった徳本(とくごう)峠越えハイキングなどの催しが行われている。

Img_2530_2 Img_2535_2 Img_2534_2  自然研究路からやがて河童橋が見えてくるあたりの梓川の川原から振り返ると焼岳がきれいに見える。ここもビューポイントの一つになっている。人通りが急に増えてくると直ぐ河童橋に到着する。橋の上は混み合うので少し先の梓川が大きく蛇行している場所まで行き、穂高連峰を眺めながら一休みする。橋から少ししか離れていないのにあまり人が来ず、じっくりと景色を眺められる場所である。

Img_2540Img_2541_2   再び河童橋を渡り、梓川右岸の小梨平キャンプ場を通り、明神池に向かった。林間の整備された道を約1時間歩くと明神館の前に出る。その手前に穂高奥宮参道という大きな木製の案内表示がある。ここから左折して梓川を渡ると穂高神社・明神池に行ける。ミヤマカンボク(深山肝木)と記した札がぶら下がった赤い実が沢山なっている木が華やいだ彩を見せる。

Img_2542 Img_2543Img_2557   明神岳がよく見える明神橋を渡り、標識に従って歩くと穂高神社奥宮の手前に嘉門次小屋があり、名物の岩魚の塩焼きが食べられる。ここはウェストンの道案内を務め、名ガイドとして知られた上條嘉門次が開いた小屋で、以前(といっても50年以前、裏銀座から槍穂高を縦走して下りてきた時のことだが)立寄った時は山中にある手作りの薄暗い山小屋の風情だった記憶がある。しかし現在は普通の食堂に少し手を加えたような造りである。小屋の前には通路を隔てて嘉門次のレリーフが入った明神池と嘉門次のことを記した石碑が置かれていた。

Img_2544_2Img_2556_2Img_2545  穂高神社は穂高見尊を祭神とした神社で安曇野市穂高町に本宮があるのだが、この上高地の明神池の畔には奥宮があり、更に奥穂高岳山頂には嶺宮として石の祠が鎮座している。明神池は奥宮の神域になっているとかで、拝観料250円が必要になる。池は大きい一之池と小さいが小島や岩が多く庭園の風情がある二之池に分かれている。明神岳の伏流水が湧き出しているとかで透き通った水が清浄な雰囲気を漂わせている。

Img_2566_2Img_2565_2Img_2569_2Img_2573_2  帰りは梓川を左手に眺めながら河童橋に戻る。途中紅葉が綺麗な場所や清流が流れる小川を眺めながらのんびりと下った。13時近く河童橋に着いた頃は穂高、焼岳とも山頂は雲に覆われてしまい、午前中の素晴らしい上天気はどこに行ってしまったのかと思うばかりだった。

 (以下、次回にします)

注) 写真をクリックすると大きくなります。

2009年10月27日 (火)

コラム4(ホームページ④)及び甲信’09秋紀行

ブログとホームページ 4

 前回の「コラム3(ホームページ③)及び白石城」をアップしてから1ヶ月以上過ぎてしまった。その間、100㎡ほどある花と野菜の畑の手入れに追われていた。花畑は来春のためのチューリップ球根の植え付けやパンジー、石竹、撫子類の種まき。野菜畑はいちごの植え付け、白菜、大根、そら豆、えんどうなどの種まきである。どちらも以前植えてあった花・野菜の残りを整理し、耕して肥料を撒き、畝を立てるという前処理の作業が大変で疲労困ばいしてしまう。しかし更に頑張ってホームページ「イバイチの奥の細道漫遊紀行」(http://www.geocities.jp/okunohoso)の作成を進め、一応の区切りである平泉までアップした。

 このブログは、おかげ様で9月23日に1万回のアクセス頂き、間もなく1万1千回になりそうである。ホームページのほうもアクセスしてくれる方が増えてきているが、こちらのブログでも新しく発信しなければ申し訳ないと思い、芭蕉とは関係ないが先日甲信地方に行った紀行文をアップしたい。

 実は甲信地方には拠点があり、今までもしょっちゅう行っていたが、茨城県から首都高速を通るのがおっくうになり、のんびり行ける東北に行こうと奥の細道めぐりを志したのである。しかし最近北関東自動車道が大分整備されてきて首都高速を通らなくても長野方面にあまり時間が掛からず行けるようになり、また高速料金も休日千円や平日千キロまでは3割引きの制度ができたので、また出掛ける気になったのである。

甲信’09秋紀行(1)

 10月12日の3連休の最後の日、首都高速を通り甲府に向かった。日曜日と連休最後の日は首都高速も空いていて、殆ど渋滞無しに通れるためである。今回甲州は美術の秋として3つの美術館を巡り、信州は紅葉を探して上高地から八千穂高原への旅になった。

1.山梨県立美術館

Img_2510Img_2508  昨年開館30周年記念としてミレーの「眠れるお針子」など4点を新規購入し、本年1月に常設展示室を改装してミレー館をオープンしたというので見に行くことにした。館内の展示の位置や背景色が大分変わった。「種をまく人」は最終の展示場所から中央に移動し、廻りのスペースも広く取られて落ちついて観賞出来るようになった。

A0199a  開館30周年を記念して「お気に入りの一点」の投票を半年間行ったが、1位 「種をまく人」、2位 「落ち穂拾い・夏」、3位「ポーリーヌ・V・オノの肖像」、とミレーの作品が上位を占めたそうで、ミレーの作品を70点ほど所蔵する世界的に有名な「ミレーの美術館」の面目躍如たるものがある。

 茨城県にも茨城県近代美術館があり水戸市の本館、北茨城市の天心記念五浦美術館、つくば市のつくば美術館の3ヶ所に分かれている。さらに笠間市に茨城県陶芸美術館がある。4館とも70才以上の人は通常展・企画展とも無料である。山梨県立美術館は今年から通常展に限り、65才以上の県外の人も無料になった。

Img_2509  美術館の前には山梨県立文学館があり、開館20周年記念企画展として「樋口一葉と甲州」を開催していた。「たけくらべ」「にごりえ」などの作品で知られる樋口一葉の両親は山梨県塩山の出身なのだそうである。

2.韮崎大村美術館

Img_2511  韮崎市の武田八幡宮近くに「武田乃郷白山温泉」という日帰り温泉施設があるが、その隣に2年前の2007年7月に開館した韮崎大村美術館がある。この美術館は北里研究所名誉理事長であり、女子美術大学理事長でもある大村智という人が特許料などの私財を投じて蒐集した絵画、陶磁器などの美術品を展示しており、昨2008年10月に韮崎市に寄贈された美術館である。

 女子美術大学は108年の歴史を持つ在野の美大で、卒業生には片岡球子、三岸節子、堀文子などが居る。館長の大村智は女子美大の理事長という関係もあり、女流作家の作品を多く収集している。

Img_2512_2A0199b_3  企画展として「自然と共に 堀文子展」を開催している。観覧券にある太神楽の絵を初めとして20点以上の小品を展示してあった。常設展には上村松園、秋野不矩、小倉遊亀、片岡球子、三岸節子、森田元子などの日本を代表する女流作家の大作が展示されている。また鈴木信太郎のコレクションも多数展示されており、小さいながら見ごたえのある美術館だった。

3.平山郁夫シルクロード美術館

Img_2584  小海線甲斐小泉駅前にある北杜市の平山郁夫シルクロード美術館は、八ヶ岳南麓にあり富士、南ア甲斐駒、鳳凰三山が見渡せ、背景に八ヶ岳が聳える風光明媚な場所に建てられている。2004年7月にオープンし、2008年7月に増築改装した美術館である。

Img_2581A0199c  この美術館には平山郁夫の絵画と平山夫妻が長年に亘って蒐集した日本からローマまでのアジア、中近東、ヨーロッパまでの9000点にも及ぶ絵画、彫刻、工芸品などのシルクロードコレクションを保有している。現在は新館開館1周年記念として「ガンダーラ ― 仏像のふるさと ― 」展を行っている。

A0198a  作品は殆ど2~3世紀に片岩という石に彫った像が多く、日本で見る仏像の容姿では無く、ギリシャ彫刻のような彫りの深い顔立ちで、当時の有力者をモデルにして製作したものだそうである。特に驚いたのは釈迦の一生を彫った像の中に、釈迦の初説法を浮彫りにしたものを見たときである。高さ10センチ長さ50センチくらいの石に10人以上の人物が浮彫りにされており、頭や腕の裏側や天蓋の彫刻など細かく彫られており、これが本当に紀元2~3世紀のものか学芸員の人に尋ねたほどである。

 勿論これは長い時間と根気があって作られたものだということだが、学芸員の曰く、「文明の進歩と文化の進歩は反比例するもので、現在ではこの様な精巧なものは絶対に作れないだろう。」との名言を納得して聞いた。

A0198bA0198c   絵画は常設展示が大シルクロードシリーズとして中央にローマのフォロ・ロマーノを3.6メートル幅と8メートル幅の2枚の大画面に描き、左右に3.6メートル幅の四曲屏風に昼夜ローマに向かって歩むらくだに乗った隊商を各4面描いた合計10面の大作による大空間になっている。これは昨年春、北京とパリで開かれた「大いなるシルクロード展」に展示されたものである。ほかに特別展示として昨年の院展に出品された「祈りの行進・聖地ルルド・フランス」の大作などが展示されている。

  (以下次回にします)

 

2009年9月18日 (金)

コラム3(ホームページ③)及び白石城

ブログとホームページ 3

 ホームページ「イバイチの奥の細道漫遊紀行」(http://www.geocities.jp/okunohoso)をアップしてから一ヶ月と7日が過ぎた。当初、「深川」から「日光」までの5タイトルだけアップしたのだが、その後「那須野」から「白河の関」を過ぎて、「信夫の里」までの8タイトルをアップ出来た。9月中には「宮城野」か「松島」あたりまで進みたいと思っている。

 まだ画像を大きくする方法が未完成で、教えてもらいながらの作成である。現在の大きくした画像は上と右側に少し隙間があるので、それを無くしてすっきりした画像にしたいと思っている。また行間が詰まっていて読みにくいので、行間を1.5倍に広げた。これは最初のページを除き全タイトルを訂正したが、読みやすくなっただろうか?

 文章の方は、ブログをそのまま移行すれば良いので簡単だと思っていたが、読み返してみるとまずい点が多々あり大分修正したところがある。画像もスペースが広くなったこともあり、ブログの時より増やしているので、読み比べて欲しい。

 現在福島の飯坂温泉を過ぎて白石付近の甲冑堂のところを見直している。白石城について「おくのほそ道」には 「鐙摺(あぶみずり)、白石の城を過、」 とあるだけだったので、白石城の説明は割愛したのだが、「おくのほそ道」には関係なくても寄り道する価値はあるので、追加することにした。

白石城

A0187  白石城は徳川時代を通して伊達家家臣の片倉氏の居城だった。伊達政宗の懐刀として知られた片岡小十郎は、NHK大河ドラマ「天地人」の上杉景勝と直江兼続と同じ様な間柄で、江戸時代の一国一城の制によって多くの城が破却された中で、伊達藩は片岡小十郎の名が天下に知られていたため、例外的に青葉城と白石城の二城が認められた経緯がある。

 また明治維新の時、奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、会津藩を筆頭に官軍に抵抗したが、官軍に攻め立てられ3~4ヶ月の抗戦後降伏した。その後の削封・廃藩置県などにより士族の生活が立ち行かず、白石藩では藩主をはじめ多くの士族が北海道に移住することになった。

 しかしそのための費用が捻出できないため城を売ってやっと移住したとのことで、その時の白石城破却許可書という書類が展示されている。その時、城の瓦や石垣の石まで残らず売られてしまったので、平成7年の復元にあたっては場所を確認するための発掘調査から始めたということである。

A0186_3  二の丸跡の遊歩道に沿って建てられた幾つかの歌碑・句碑の中に芭蕉の句碑がある。 「かげろふの 我肩に立(つ) かみこかな」 という句である。この句は元禄2年(1689年)2月7日、「おくのほそ道」の旅立ち直前に行われた歌仙の発句で、「かげろふの 我肩にたつ 帋子哉  ばせを」 脇句は 「水やはらかに はしり行音  曽良」 である。白石は紙子の産地ということで建立されたそうである。紙子は 和紙を張り合わせ、柿渋を塗った防水・防寒用衣類である。(写真は句碑と筆者)

(H14-5-9訪) 

注:写真をクリックすると大きくなります。

2009年8月 8日 (土)

コラム2(ホームページ②)

ブログとホームページ 2 

 「奥の細道漫遊紀行」のブログをホームページに改編したいと書いた「コラム1」から1ヵ月半過ぎてしまった。その間ホームページ作成ソフト「ホームページビルダー13」を購入し、会社のOB会にある「HPの会」に入会し、諸先輩からアドバイスを貰いながらホームページの作成を続けた。

 最初はいろいろアドバイスを貰ってその通りにやれば良いと思っていたのだが、なかなかその通りには行かず、試行錯誤しながらHTMLというWebページを作成する言語についても覚えなくてはいけないことが分かり、文字通り悪戦苦闘の毎日だった。

 特に参ったのは画面をクリックすると大きなサイズの画面が出る様にすることで、「ホームページビルダー13」のソフトより、ワンランク上のやり方が必要なことが分かり、ココログのレベルの高さを再認識させられた。

 これは「オンクリック」という手法で、通常大きいサイズの画面を表示するには別画面にリンクで表示するのだが、それでは右上部の×マークをクリックするとページ全体が消えてしまうので必ず左上の←マークをクリックして前の画面に戻さなくてはいけない。

それを元の画面の上に新しい拡大画面を表示し、×マークをクリックすることにより拡大画面が消えるというやり方で、元のページを開いたまま画面を大きくして、それを見たり消したりする事が出来る方法である。

 ココログでも一時この方法が使えなくなり問い合わせたら、不具合があったので暫らく使用不可と言われ、しょうがないのでその都度HTMLを見て修正して直した時期があった。その経験があったので、今回もなんとかブログと同じ様に、画面を拡大して見られるようにすることが出来た。

 新しく出来たホームページでは最初のページに目次欄を作り、そこから見たいページに行ける様にし、文字の欄も広くなったのでブログより快適に読み進められると思う。まだ深川の出立から日光までしか出来ていないが、出来るだけ早く完成させたい。それまではホームページとブログと併用して見て頂きたい。

 本平成21年8月8日にホームページを「日光」まで初めてアップした。

URLは「http://www.geocities.jp/okunohoso」 「イバイチの奥の細道漫遊紀行」である。

 当分はこのホームページとブログを併用して見て頂きたい。なお このブログには今後も「芭蕉」と「みちのく」に関する紀行文を掲載するつもりなので、引き続きご愛読をお願いしたい。

 

2009年8月 1日 (土)

参考文献 3

参考図書(3)

「おくのほそ道」とは直接の関係は無いが、関連する資料も沢山読んだ、その主要なものを列挙する。

1.「街道をゆく」-白河・会津のみち,仙台・石巻,羽州街道,潟のみち,越前の諸道-  司馬 遼太郎     朝日新聞社  1989年発行

Img_2227  「街道をゆく」の文章はしょっちゅう横道に逸れて、「ところで」とか「ついでながら」の話が続くことが多いが、それによって内容が幅広く厚みを増すのが魅力であり、筆者の独特な文体と合わせて、いつも引き込まれて読んでしまう。そしてそのなかには、「おくのほそ道」に関係する内容の文章が数多く見られる。

 「白河・会津のみち」では白河の関から、須賀川、安積、もじずり石、信夫(しのぶ)の里あたりがその背景を説明しながら「おくのほそ道」と関連付けて述べられているが、他にも伝教大師最澄と世紀の論争をした会津の徳一上人の話や戊辰戦争で朝敵にされ、敗れた後青森県下北半島の斗南藩に移され、明治以降も差別されるなどの悲劇にさらされた会津藩の話なども読み応えがある。

  「仙台・石巻」では岩沼の竹駒神社から宮城野、多賀城、さらに松島、石巻まで「おくのほそ道」や芭蕉の句を含めていろいろ述べている。多賀城での「壷の碑(いしぶみ)」の碑文に書かれている大野東人(あずまびと)の事跡の詳しい紹介や、 「松島や ああ松島や 松島や」 の句について、芭蕉はこのようなノンキなトウサンのような句を作るはずが無いではないか。と長々と書き連ねているのも面白い。

  「羽州街道」では山寺立石寺から 「まゆはきを 俤にして 紅粉(べに)の花」 の句にある紅花の話、さらに最上川を目前にしての感想などが続いている。また大河ドラマ「天地人」の主人公である上杉景勝と直江兼続についても詳しく考えを述べており、今読んでも時宜にあった読み物になっている。

  他にも「秋田県散歩」には象潟についての話があり、「潟のみち」では新潟の湖沼地帯の話、さらに「越前の諸道」には永平寺の話など、司馬遼太郎の「街道をゆく」には「おくのほそ道」に関連する話がいっぱい詰っている。

2.「百寺巡礼」-東北,北陸-     五木 寛之      講談社  2003年発行

Img_2228  「おくのほそ道」には寺社が多く出てくる。神社では日光東照宮,岩沼竹駒神社,塩竈神社,出羽三山神社,小松多太神社,敦賀気比神社など、また寺院では黒羽雲巌寺,飯塚医王寺,仙台陸奥国分寺,榴岡(つつじがおか)天満宮,松島瑞巌寺,平泉中尊寺,山寺立石寺,象潟蚶満寺,小松那谷寺,大聖寺全昌寺,松岡天竜寺,福井永平寺などである。

 五木寛之は「百寺巡礼」でこのうち幾つかの寺院について書いている。東北編では松島瑞巌寺,平泉中尊寺,山寺立石寺が、「おくのほそ道」に出てくるが、芭蕉句碑のある毛越寺を含めると関連寺院は4寺になる。この筆者の文体は多くのエッセイに見られるように他力、アニミズム(自然信仰)などの宗教観に裏打ちされた思想が読み取られ、平易だが核心を突く描写が魅力であり、司馬遼太郎と共に愛読する作家の一人である。

 北陸編では小松那谷寺,福井永平寺の2寺だけだが、「奥の細道漫遊紀行」では高岡瑞龍寺,金沢大乗寺,吉崎御坊についても書いたこともありだいぶ参考にさせて貰った。また戦国時代には、この地方には蓮如上人の影響もあって約百年間も「百姓の支配する国」が続いたことも知った。

 それ以外の北陸の寺についても、茨城からはるばると行ったこともあり、ついでながら北陸の「百寺巡礼」にある10寺のうち、能登の阿岸本誓寺,妙成寺,南砺市井波町の瑞泉寺にも廻って、小浜にある神宮寺,明通寺を除く8寺に参詣してきた。

3.西行の風景            桑子 敏雄      NHKブックス  1999年発行

 芭蕉はみちのくの歌枕の地に憧れて「おくのほそ道」の旅に出たのだが、その最大のものは西行法師ゆかりの地をたどる事だったと言われている。芭蕉が「おくのほそ道」の旅で目指したのは津軽の「外の浜」だったという説がある。それは西行の「陸奥(みちのく)の おくゆかしくぞ思ほゆる 壷の石ぶみ 外の浜風」との歌を詠んでいることによるというのである。

 芭蕉は「壷の碑」を見ることが出来た。その後平泉で中尊寺を拝観した後いよいよ津軽に足を伸ばそうとしたが、曽良が必死に止めたので思い留まり、山刀伐(なたぎり)峠を経て酒田に向かったと「おくのほそ道」を巡った翌年に書いた「幻住庵記」に載っている。

 そのように大きな影響を与えた西行法師について知りたいと思って読んだのがこの本なのだが、内容は優れた歌人である西行の本質は神仏習合、本地垂迹の思想を和歌によって表現することにあり、その集大成が晩年伊勢神宮の内宮外宮に奉納した「御裳濯河(みもすそがわ)歌合」「宮河歌合」であるということで、期待したものとは違っていた。

 しかし、西行は鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集「新古今和歌集」に94首も選ばれ最も入選歌が多かったことからも、「新古今和歌集」の選者の一人だった藤原定家と共に平安末期の代表的歌人であることに疑いは無い。

 西行は陸奥には2回旅している。最初の旅は26才から30才の頃らしい。2回目は69才の時で奈良東大寺再建の砂金勧請を藤原秀衡に依頼するためで、途中鎌倉で源頼朝と会見したことが吾妻鏡に記されている。

 西行が陸奥で詠んだ歌は白河、武隈、笠島、宮城野、衣川、束稲山などに残されているが、殆ど最初の旅の時である。冒頭の「外の浜」とは津軽半島の青森湾に面した場所を指しているということであり、当時の状況から実際には行っていないと思われる。またその当時は壷の碑というのは「外の浜」にある碑のことを指していたとの説もある。

4.炎(ほむら)立つ        高橋 克彦    日本放送出版協会  1994年発行

 前九年の役から奥州藤原氏の滅亡までを画いた歴史小説で全5巻の大作である。NHKの大河ドラマにもなり、現在は文庫本が講談社から出版されている。源頼義と八幡太郎義家に対する安倍頼時、貞任による前九年の役、後三年の役から藤原清衡、家衡、秀衡の藤原三代、更に四代目泰衡と源頼朝による奥州合戦で奥州藤原氏が滅亡するまでを主に蝦夷側の視点から画いている。

 同じ作者による平安時代初期の坂上田村麻呂と阿弖流爲(アテルイ)との争いを画いた「火怨」(1999年発行)と共に、大和朝廷と陸奥との関係がよく現されており、支配者側の視点とは異なった平泉を中心とする陸奥のバックグラウンドがよく分かる。 

  注1:写真をクリックすると大きくなります。

  注2:青字の句は「おくのほそ道」にある句です。 

2009年7月17日 (金)

参考文献 2

参考図書(2)

5.週刊おくのほそ道を歩く(全30巻)    金森 敦子他    角川書店  2003年

Img_2216  2003年(平成15年)に発売されたこのウイークリー百科はその2~3年前から「おくのほそ道」をたどる旅を始めた私にとって非常に時宜を得た資料になった。 殊に芭蕉の歩いた道筋や句碑のある場所などが書かれたマップは大いに重宝し、「ほそ道」をたどる旅の日程を立てたり、順路を決めるのに大いに役立った。

 また金森敦子の「江戸庶民はどんな旅をしたのか」の連載は芭蕉の旅の解説が多く、参考になった。また山下一海の「おくのほそ道」の「観賞と解説」も毎号の短い部分だけなので、読みやすく、また文体についても芭蕉の意としているところを細かく説明しているので、「おくのほそ道」をより深く理解できるようになった。

6.芭蕉「おくのほそ道」の旅          金森 敦子    角川oneテーマ21 2004年

Img_2211  角川書店の文庫本である。5.の「週刊おくのほそ道を歩く」の連載に加筆し、同じく掲載されていたマップが入っており、これから「おくのほそ道」を歩こうという人には恰好の案内書である。

 題名に惹かれて購入したのだが、5.の方が充実していてほとんど読まなかった。しかし文章も平易で楽しい読み物になっており、5.の「週刊おくのほそ道を歩く」を持っておられない方には必携の書だろう。

7.芭蕉紀行                   嵐山 光三郎    新潮文庫  2004年

Img_2213

 嵐山光三郎といえば趣味が料理で、食べ歩き本、温泉旅行記などが知られているが、俳諧の方も造詣が深い。この本は2000年に「芭蕉の誘惑」という題名でJTB紀行文学大賞を受賞したものを改題し、2004年に新潮社が文庫本で発売したものである。

「おくのほそ道」ばかりでなく「野ざらし紀行」「更科紀行」などについても書かれているが、全体の半分近くは「おくのほそ道」の紀行文で手書きの地図などもあって、名物料理を食べる話も織り込み面白い読み物になっている。

 8.悪党芭蕉                   嵐山 光三郎    新潮文庫  2008年

Img_2212  この本は2006年に新潮社から発行され、第34回泉鏡花文学賞と第58回読売文学賞をダブル受賞している。その後2008年に文庫化された。「おくのほそ道」への直接の言及は少ないが、随所に「ほそ道」で詠んだ句が出てくる。

また「古池や----」の句は「蛙合(かわずあわせ)」という蛙の句40首を左右に分け優劣を競った句合せの巻頭の句だが、その主要な句について論評したり、芭蕉の俳論として知られる「不易流行」から晩年の「軽み」志向についての見解を述べたりした第一級の芭蕉論である。

 芭蕉に周辺には危険人物が多いとか衆道についてなど刺激的な文章が多いが、俳聖といわれた芭蕉も一人の人間であるということであり、尚且つその裏にある天才芭蕉の凄さをよく表しており、「おくのほそ道」を書いた芭蕉の生涯を知るにはぜひ読みたい本である。

注:写真をクリックすると大きくなります。

2009年7月12日 (日)

参考文献 1

参考図書(1) 

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。船の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。」ではじまる奥の細道の跡をたどってみようと思ったのは平成十二年の頃である。

 旅の楽しみもまたプラン・ドゥ・チェックであり、まず計画を立てるための資料集めからのスタートである。主な蒐集先は近くの公立図書館とインターネットである。図書館には奥の細道関連の本が何冊かあり、インターネットでも「奥の細道」で検索すると数多くのホームページが出てきて資料探しには事欠かない。

まずは「おくのほそ道」をたどる旅をし、「奥の細道漫遊紀行」をアップするに当たっての主要な参考図書について説明する。

1.「奥の細道」を歩く -歩く旅シリーズ-  松井利彦監修   山と渓谷社 1999年発行

Img_2209  奥の細道の本文と解説や芭蕉が歩いた「奥の細道」をたどる全30コースなどが要領よくまとめられており、はじめ図書館で読んだ後すぐに購入して毎回の「奥の細道」をたどる旅の出発前後に愛読している。

 巻頭に俳人山口誓子の「奥の細道」の秀歌という文があるが、それによると次の三句が選ばれている。 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」  「五月雨を あつめて早し 最上川」 「荒海や 佐渡によこたふ 天川」 がそれである。説明によると「おくのほそ道」の当初の目的である歌枕を巡る旅から開放されたあとに秀句が有り、そのなかでも「荒海や ----」 が最も良いと書いている。

 歌枕とは古歌に詠みこまれた枕詞(まくらことば)または歌の名所のことであるが、インターネットで調べると奥の細道に関連した歌枕の地には沢山の古歌があり、読むだけでも大変である。古歌どころかその場所場所で芭蕉や曾良が詠んだ句も、今まではあまり判らなかったのだが、関心を持って読んでいると少しづつ頭に入ってくる。 栃木県黒羽町の雲厳寺には今までも何回か行っているが、境内の芭蕉の句碑が 「木啄(きつつき)も 庵(いほ)はやぶらず 夏木立」 だと知ったのはこの本を読んでからのことである。

2.「おくのほそ道」全行程を往く        石堂 秀夫    三一書房  1994年発行

Img_2217  これも図書館で読んでから購入した。筆者がミニバイクで全行程を踏破し、まとめた本である。随所に細かい解説や感想が述べられていて非常に参考になると共に面白く読めた。

 例えば新潟には「降雨庵」という芭蕉堂がある。それは芭蕉が「海に降る 雨や恋しき 浮身宿」という句を新潟で詠んだという話があるためである(実際は詠んでいない)。

 この話は「奥の細道」の江戸時代の代表的解説書である「奥細道菅菰抄(すがごもしょう)」をはじめ多くの本に出ているためだと具体的に紹介し、「それにしてもこんなロマンチックな句を芭蕉が詠むだろうか----」と自分の感じたことを記している。

 他にも芭蕉は何故道に迷ったといって石巻に行ったのだろうかとか、石巻からは見えなかった金華山を見に行ったり、月山山頂で暴風雨に逢った話しとかがあり、楽しい紀行文でもある。

 この本は発行されてから15年過ぎ、発行部数も少ないので手に入らないかなと思いながらアマゾン(amazonn.co.jp)で調べたら、思いがけず取り寄せ可能とのことで購入できた。

3.奥の細道の旅ハンドブック         久富 哲雄     三省堂   1994年発行

Img_2210  この本も「奥の細道」の旅の案内書だが、前の2冊に比べると資料の説明が多くなかなか読みづらいところがある。しかしこの本の良いところは細かい手書きの地図がたくさん載っていることで、ナビを持っていない私には大変有難かった。それにしても10年以上前の手書き地図が今でも殆ど変わっておらず、ちゃんと使えたのも驚きだった。

 1994年(平成6年)は芭蕉没後300年忌の年であり、その前年あたりから奥の細道紀行三百年記念の像や句碑が沢山建てられたりして芭蕉ブームがあった時であっため、この2.3.などの図書も出版されたのだろう。

4.芭蕉 おくのほそ道(付曽良旅日記,奥細道菅菰抄) 荻原恭男校注 岩波文庫 1979年

Img_2214  この本には、素龍清書本「おくのほそ道」を底本にした全文のほかに「曽良旅日記(元禄2年日記抄・俳諧書留)」が入っていて、本文と対比して読むと実際の行程や行動との差異が良く判る。

 曽良の作として「那須野」の段にある有名な 「かさねとは 八重撫子の 名なるべし」 の句は俳諧書留には入っておらず、旅日記にも馬に乗ったとか童に会ったとかの記載は無く、ただどこからどこまで何里とか何丁とかあるだけなので、この句も童二人との出会いも芭蕉の創作ではないかといわれている。

 同じ様なことは市振でも有り、 「一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩と月」 の句を曽良に語れば書き留めたとの話や遊女から同行してくれと言われて断ったという話についても曽良は何も記しておらず、これも芭蕉の創作だろうといわれている。 

 また江戸時代に発行された「おくのほそ道」注釈本のなかで、最も優れているとされる「奥細道菅菰(すがごも)抄」も入っているが、最近は多くの解説書があり、文体も古く読みづらいのでこれは殆ど読まなかった。

 

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