2012年5月23日 (水)

'12春 新潟、会津の旅 2

4.咲花温泉
 灰爪から西山ICに行く。ここは田中角栄の故郷で、付近にある道の駅西山ふるさと公苑には田中角栄記念館がある。以前「おくのほそ道」で訪れた時はこのインターから上越ICに行ったが、今回は磐越道の安田ICに逆戻りである。五泉市の咲花温泉に泊まり翌日150万本あるというチューリップを見るつもりである。

Img_0229aImg_0231aImg_0248  五泉市にある咲花温泉は阿賀野川畔にあるあまり知られていない温泉である。湯温は54度、湯量は豊富ですべて掛け流しである。泉質は硫黄ナトリウム泉で、体の芯までポカポカあたたまると言うのが謳い文句である。じゃらんネットで調べて碧水荘という宿にした。一人8,400円で麒麟山生冷酒1本付きというのが決め手である。お蔭で飲物代は生ビール各1杯分だけで済んだ。部屋や露天風呂からは雪解けで水量が多い阿賀野川が真下に臨まれ、「五月雨を集めて早し----」の句もこの様な景観かなと想像してしまう雄大な景色である。(写真は桜の花咲く咲花温泉の脇を走る磐越西線と部屋からの阿賀野川の流れ)

Img_0238aImg_0241aImg_0253_2Img_0255a  魚沼産コシヒカリの炊き込みご飯が出るのだが、食べきれないと思ったので遠慮したら、翌朝おにぎり弁当にしてくれた。ここの温泉にも桜の木があり丁度満開でライトアップしていると言われて酔い覚ましに出かけたが、写真は夜景モードにするのを忘れたため良い写真にならなかった。(写真は夜桜2景と翌朝の桜2景)

5.チューリップ畑
Img_0230a  五泉市は150万本のチューリップ畑があることで知られているが、以前ゴールデンウイーク明けに来たら、満開だった花は摘み取られて殆んど無くなっていた。ここではチューリップ球根の販売をするので花を摘み取らないと球根が太らないからだそうである。毎年4月下旬にチューリップまつりがあると云うので前回見損なったそれを見るのが目的の一つだったが、今年(平成24年)は開花が遅れているのでまだあまり咲いていないかもしれないと宿で言われた。事実宿のチューリップはまだ蕾が硬いままだった。(写真は旅館入口のチューリップの蕾)

Img_0257aImg_0259aImg_0264a しかし例年は散ってしまう桜が満開ですよという。五泉市には全国さくら名所100選に選ばれている村松公園の桜というのがあると云うので、チューリップが駄目だったら桜にしようと思って宿を出た。

Img_0273aImg_0268aImg_0270a  まず、ダメで元々とチューリップ畑を見に行く。ところが赤・黄・白のチューリップが綺麗に咲いているではないか!地元の人が写真を撮っていたので、「咲きましたね」と声をかけたら「昨日暖かかったのでいっぺんに咲いたんですよ、この蕾の畑も明日は咲くでしょう」と蕾のままの畑を指差して言う。

Img_0260aImg_0274aImg_0262Img_0272 広いチューリップ畑からいえばまだ30~40%ぐらいの開花の様子だが、全体の面積が大きいので、見渡す限り咲いているような写真が撮れた。見に来ている人はまだ少なく、近くの保育園か幼稚園の園児が目立つぐらいである。
 
6.村松公園の桜
Img_0275Img_0278   五泉市では3月から4月にかけて3万株の水芭蕉が咲き、4月中旬にはさくら名所100選の村松公園などの桜が咲き、4月下旬にはチューリップまつり、5月には苗木、切り花の生産地として全国一の生産量がある牡丹が咲き誇るので、「五泉四華」と言って花の町をPRしている。そういえば前回チューリップが見られなかった時は大輪の花が咲いている「ぼたん百種展示園」を見たのだった。

Img_0279Img_0289   新潟県の全国さくら名所100選には日本3大夜桜の一つである上越市の高田公園、おいらん道中で知られる燕市の大河津分水桜並木とともに五泉市の村松公園が選ばれている。(因みに茨城県では日立市かみね公園・平和通りと那珂市静峰ふるさと公園の2ヶ所である。)

Img_0277aImg_0285Img_0281  村松公園にはここにしか無い穂先八重彼岸桜やソメイヨシノ、オオヤマサクラなど約3千本の桜があり、ライトアップもされるそうである。この日は天気も良く家族連れなどが沢山花見に繰り出していた。(写真はソメイヨシノの巨木とピンクの陽光という桜の全体と部分)

2012年5月20日 (日)

'12春 新潟、会津の旅 1

 平成24年(2012年)4月下旬、新潟から会津への旅をした。

  目的の一つは幕末の水戸藩が天狗党、諸生党に分れて抗争を繰り返していた時、一旦は天狗党を壊滅させて藩政を担った諸生党が明治維新により藩を追われて戊辰戦争で会津側に就き戦った後をたどることである。(天狗、諸生の乱については小生のホームページ「イバイチの旅のつれづれ」(http://www.ibaichi.com/)の「幕末の水戸」にアップしてある。)
 もう一つは新潟五泉市のチューリップと鶴ヶ城をはじめとする会津の桜を久しぶりに見ようと云うことである。

1. 北越戦争と諸生党
 まず、明治初めの水戸藩の天狗、書生の動きは、慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで勝利した薩長を主体とする官軍がすぐさま江戸に向かって進軍を開始した時、京都にいた天狗党寄りの本圀寺一派は官軍として江戸の水戸藩邸に入り、更に3月初め水戸に向かった。事態の急変により一夜にして罷免された水戸藩の執政だった市川三左衛門を首領とする諸生党約500名は天狗勢の追求から逃れるため、同年3月10日に水戸を脱出し、薩長を主体とする官軍と対抗しようと会津に向かった。

 しかしこの頃会津藩は新政府軍に恭順する意向で折衝中だったため会津藩内での助力を断り、代わりに武器弾薬の調達基地だった新潟方面の治安維持を依頼されて新潟から弥彦を経て、出雲崎にある旧幕府代官所を拠点として戦いの準備をした。そのとき、一部の隊員を割いて佐渡に送り、軍資金を調達しようとした。しかし佐渡の金山は掘り尽くし、貯蔵してあった金塊なども全て江戸に送ってしまっていたので、なんら成果は得られなかった。一方水戸では旧天狗党派による粛清が行われていたため、脱出して諸生党勢を頼る者が多く、総人員も一時は1000名以上に膨れ上がっていたという。

 東征の官軍は東海道や北陸道などに分れて攻め上がってきたが、北陸道では長岡藩の河井継之助が総指揮官として官軍に対抗し、北越戦争と呼ばれる激しい戦闘が行われた。市川三左衛門が率いる諸生党(以下市川勢と呼ぶ)は長岡藩、会津藩と連携してこの地域で戦ったのである。

 市川勢最大の激戦は出雲崎と柏崎の中間にある灰爪という小高い丘での戦闘だった。ここと近くの市の坪、与板での戦いで市川勢は70数名の戦死者と百数十名の戦傷者を出したという。戦いに敗れた市川勢は出雲崎から弥彦に撤退した。

 その間、一旦敵の手に落ちた長岡城を奪還した長岡藩だったが、数に勝る官軍に圧倒され、また指揮官の河井継之助が重傷を負ったことなどで再占領され、新潟を守備していた会津藩も破れて会津に撤退することになり、市川勢もそれにつれて会津に向かい、北越戦争は終結したのである。

2. 弥彦から出雲崎まで
 今回の旅行は平成24年4月24日朝6時過ぎに妻と二人で出発した。日立南ICから常磐道に入り、磐越道の阿武隈SA、磐梯山SA、阿賀野川SAと休みながら行く。北陸道巻潟東ICに10時50分ごろ着く。弥彦神社に参拝するつもりだった。
Img_0211aImg_0209aImg_0204a  平成16年10月に「おくのほそ道」をたどる旅で訪れたのだが、休日で混み合っていたため参拝できなかった場所である。前回の秋に対し今回は春で、境内入口付近にあるソメイヨシノの桜並木は満開だった。

Img_0199aImg_0202a 弥彦神社は越後一ノ宮として万葉集にも詠み込まれている古社で、拝殿の後ろにそびえる弥彦山全体が神域とされ、山頂には御神廟と呼ばれる弥彦神社奥宮がある。越後路を辿った芭蕉一行は前日新潟に泊まった後、当日弥彦に宿をとって明神(弥彦神社)に参詣したと曽良旅日記にある。(写真は弥彦神社拝殿と神鹿) [弥彦、出雲崎の紀行文は「奥の細道漫遊紀行」http://www.geocities.jp/okunohoso/okuno/index.html の「38.出雲崎」の項を参照してください。]

Img_0220aImg_0218a  次に出雲崎に行く。前回も訪れた芭蕉園、良寛記念館を再訪する。しかし今回は明治初めの北越戦争で市川勢が拠点にした旧幕府代官所跡を訪問するのが目的だったが、場所が分らず、道の駅「越後出雲崎天領の里」の入口で露天を開いていた小母さんに尋ねたところ、町はずれにある代官所付属の獄門跡を教えられてしまった。しかしそこにあった案内絵図に「妻入り」の町並みの中ほどに代官所跡があると書かれていた。

Img_0222aImg_0221a  その場所に行ったが、そこには代官所跡の案内板があるだけだったので、道の向い側で庭の手入れをしていた主婦に尋ねたところ、場所はここだが、建物は個人の家になっており、町では看板を立てただけで、他には何もないのだとの返事だった。帰宅してから良く調べたら幕末の頃の代官所は獄門跡近くの少し奥まったところに移っていて、そこには代官所跡の石碑があることがわかったが、代官所が移転することなど夢にも思わず事前の調査が足りなかったと反省しきりである。結果的には最初に教えてくれた小母さんが正しかったのだ。残念だが機会があれば再訪したい。

3.灰爪
 出雲崎の海岸通りの国道352号線から出雲崎駅近くの山側の国道116号線に出る。荒谷という交差点を右折すると灰爪という信号のある交差点に出る。交差点近くの食糧品店に行き、幕末の戦いがあってその時の慰霊碑を探しているのだがと尋ねたら、家族に聞いて交差点の左上の丘にあるのがそうかもしれないというので礼を言って細い道がある急坂を上ったが、普通の墓が何カ所か散在しているだけで道も無く空しく戻ることになった。

 少し離れた家の人に尋ねたら、灰爪の集落はもっと奥の方なのでそこで聞いたら判るのではないかと言われた。幕末のことを知っている人は意外に少ないものだと思いながら更にその先にある灰爪の集落に行った。小さな集落で外を歩いている人も居ない。

Img_0225aImg_0226a   困ったなと思っていたら林の茂った山の急坂を下りてくる人を見付け、降り切るのを待って幕末の慰霊碑について尋ねると、この上にあると言う。これが以前町が作った案内標識だったと指さすのを見てみると文字がすっかり消えてしまった木柱が立っていた。親切な人で、道路わきの自分の駐車場が広いからそこに車を止めると良いと言ってくれたので、そこに車を置き急坂の小径を上って行くと、頂上はなだらかな丘になっており慰霊碑があった。先ほど灰爪の信号のある交差点から登ったのと同じ丘の様だったが、道はこちらからしか通じていないのだった。

 慰霊碑は「北越戊辰の役当処戦没者供養塔」というもので、平成元年に建てられたものである。事前に調べた資料によると、この供養塔は、昭和50年代にこの地点で4体の白骨が発見され、鑑定の結果頭部に斬傷があり市川勢の遺骨と思われ、地権者が茨城県有志の協力を得て建てたということである。付近には埋葬塚という戦死者をまとめて葬った塚があるそうである。供養塔の周辺には梅の木が植えられ、紅梅、白梅が花を咲かせていた。供養塔の隣には水戸市の人が奉納した石造りの地蔵菩薩立像が置かれていた。

Img_0227Img_0228   帰り道の急坂で上って来る人に出逢った。聞けばこの山の持ち主で荒木さんという人だった。供養塔の裏側の発起人筆頭に荒木という名があるが当主の祖父とのことである。今年も近いうちに関係者の墓参が予定されているとの話があり、供養塔建立からずっと関係者との交流があるそうで、見知らぬ戦死者のためにずっと供養を続けておられる様子に感銘を受けた。先ほど車を置かせて貰った人も荒木さんの親戚とのことだった。坂を降り切った所に二輪草の大群落があり、ほっと心が休まる感じがした。

2012年5月 3日 (木)

'12年 水戸の梅、桜

1.水戸偕楽園

 今年(平成24年=2012年)は春の訪れが遅く、水戸偕楽園の梅も2月21日から3月末までの梅まつりが終わる頃やっと見頃になり、4月7日まで一週間延期したほどだった。三春の様に梅、桜が同時に見られるかと思ったが、桜の開花も遅れてしまっていた。

024023021020  偕楽園には3月21日とその1週間後の28日の2回訪問した。最初の日は南崖側の子規の句碑、水戸八景の遷湖暮雪碑のあたり以外の、広い梅林の方はあまり咲いていないので来園者が少なく、梅大使(うめむすめ)が大勢カメラの前に並んでくれたが、後の日は観客に引っ張りだこにされて写真は写せなかった。

015Img_0053b   昨年の震災で損傷を受け閉鎖されていた偕楽園の中心にある好文亭という建物は今年の梅まつりから入れるようになったが、梅林から少し離れているため梅と好文亭を間近で撮れる場所は限られている。1週間前と後の開花状況を見較べてほしい。

 (水戸偕楽園の梅について、小生のホームページ「イバイチの旅のつれづれ」(http://www.ibaichi.com/)の「旅の小窓①関東・茨城散歩」にアップしてあるのでそれも参考にしてほしい)

2.六地蔵寺

Img_0075aImg_0076a Img_0082a  水戸市の南東側、大洗寄りの六反田町に六地蔵寺という寺院がある。創建は寛平3年(891)ごろといわれ、水戸藩第2代藩主徳川光圀公(水戸黄門)ゆかりの寺で、境内に残る法宝蔵は光圀公が建立した。典籍1975冊、文書479通が収納されており県指定文化財となっている。境内には樹齢170年という見事なしだれ桜があり、水戸市では4月1日から15日まで桜まつりが行われるがその中の一つに指定されている。

Img_0086aImg_0078aImg_0085a   六地蔵寺では例年4月8日の「はなまつり」の日に甘茶の接待があり、その日が桜も満開のことが多いが、今年は遅れており4月12日にやっと見頃になった。ここには木造の六地蔵が地蔵堂という建物に安置されているが、その外側の桜の下にも石造の六地蔵が置かれている。昨年の震災ではそのうち2体が損傷を受けたが新しく造り直され、6体揃って穏やかな顔で参詣する人々を見守っていた。

 (水戸市の桜の写真が、小生のホームページ「イバイチの旅のつれづれ」(http://www.ibaichi.com/)の「イバイチのフォトギャラリー」に水戸市の桜①,②としてアップしてあるのでそれも参考にしてほしい)

3.安国寺

 水戸市西部の内原町地区にもしだれ桜で知られた神社仏閣がある。有賀神社と安国寺である。今から12年前の平成12年に訪れたことがあるが、久しぶりに再訪することにした。

Img_0093aImg_0096aImg_0098aImg_0097a  安国寺には以前には無かった案内標識が整備されていて細い曲がりくねった道だったが迷わずに行けた。寺の前には進入道路とは不釣り合いの2~300台収容できる大きな駐車場が出来ていた。毎年桜の時期にはライトアップをしているが、数年前山門の石畳に水を張って桜を映し込んだ時の写真がカメラ雑誌に大きく取り上げられて見物人やカメラマンが大勢来たことがあり、大分混雑したので駐車場を大きくしたらしいと、境内で作業をしていた人が話してくれた。

Img_0099aImg_0101aImg_0095a  以前来た時より花つきが悪いようなのでそれを聞いたら、数日前強風が吹き荒れたせいかもしれないと言っていた。 しかしそうはいっても正面から眺める姿は立派なものだ。また最近素晴らしい観音菩薩の像が出来たというので本堂の手前にある観音堂を見ると桜の花の光背を背負った小ぶりながら色彩豊かな慈母観世音菩薩像が安置されていた。今後寺の目玉になりそうな素晴らしい出来栄えである。

4.有賀神社

Img_0103a  安国寺の近くに有賀神社がある。子どもの夜泣き・かんの虫にご利益があるといわれ、虫切りの神様として知られている。毎年11月11日にこの神社のご神霊が大洗磯前神社に渡御する「磯渡御」という行事が行なわれる。当日は有賀神社神職が"神矛"を奉じ氏子総代以下供奉し法螺貝を吹き鳴らしつつ大洗磯前神社に参向し、神前に有賀の里の米・柚子・里芋を供え、その礼に大洗の海で獲れた海の幸(鯛・鰯)を頂くというもので、大洗磯前神社では有賀祭という秋季大祭となっている。幼児の虫切りに霊験著しと言われているため、当日早朝より境内は幼児を背にする人々の群で埋り、我が子の健全な成長を祈る人々は先を争って神矛を拝さんとして、境内は殷賑を極める神事になっている。(写真は有賀神社境内入口の一の鳥居)

Img_0102a  有賀神社は通常はひっそりと静まり返っており、訪問した時宮司の人が境内の落ち葉を掃き集めて燃やしていた。参拝した後、桜について聞くと入口から眺めるだけにしてくれという。以前訪れた時はわき道から桜の木の近くまで行けたのだがと言うと、最近は桜を見に来る人が多くなり、家の中を覗いたり、庭に植えてあった高山植物などを持ち帰る人がいたりするので、申し訳ないけれど立入禁止にしたのだとの返事だった。

Img_0107aImg_0105aImg_0106a  仕方が無いので、ぐるっと大回りをして隣接する宮司の家の正面に出ると「私庭につき立ち入りお断り」と書い札が置かれていた。しかし住居の前にある立派な大きなしだれ桜は遠くからでも眺められ、わざわざ屋敷内まで入らなくても良いのだと思った。

5.かたくりの里公園、くれふしの里古墳公園

Img_0111aImg_0115aImg_0113a 有賀神社近くに約2000㎡という広さの「かたくり群生地」がある。毎年桜の季節に赤紫色の花びらを反り返らせた可憐な花が、小川を隔てて一面に咲き誇る場所である。今年も沢山の花が見られた。ここは昭和40年代後半に群生地の存在が知られるようになり、以来地元の人たちによって大切に保護されている。かつてカタクリはあちこちに自生していたが開発などで多くの群生地が失われ、この「かたくりの里公園」が茨城県内最大級の群生地となっている。

Img_0110aImg_0112a  公園の前の販売所では、かたくりの開花に合わせ、この地区で作られた新鮮な農産物や農産加工品等の販売を行っている。そこで販売をしている女性にこの付近に安国寺、有賀神社以外の桜の名所は無いか尋ねたところ、くれふしの里が満開だと教えてくれた。そこまで行く道筋も商売そっちのけで説明してくれ、こっちが申し訳なく思う位だった。

Img_0122aImg_0121aImg_0119a  早速教えて貰った道筋を辿って「くれふしの里古墳公園」に向かった。この辺りは「牛伏(うしぶし)古墳群」と云って狭い範囲に多数の前方後円墳が集中している古墳群として注目されているそうである。300×200mの範囲に前方後円墳7基、円墳9基があるという。「くれふしの里」の名称は常陸国風土記にある「晡時臥(くれふし)山」から採ったのだそうである。

Img_0117aImg_0118a この公園は「牛伏古墳群」を中心に整備された歴史をテーマにして楽しく遊びながら古墳について学ぶことを目的にし、園内には遊具や「はに丸タワー」という付近の古墳から発掘された埴輪をモチーフにした高さ17mで屋上が展望台になっているタワーが置かれており、子連れの主婦が多く訪れている。「はに丸タワー」の前は広場になっており、それを囲むようにソメイヨシノが沢山咲いていた。

(H24-4-12訪)

2012年4月28日 (土)

折に触れて(2) ホームページURL変更のこと

 今年(平成24年=2012年)4月21日からホームページ「イバイチの旅のつれづれ」のトップページアドレスを  (http://www7.plala.or.jp/ibaichi/ )から(http://www.ibaichi.com/ )に変更した。

 従来の経緯は2007年2月に「奥の細道漫遊紀行」のブログを立ち上げたのが最初だが、その後2009年8月にホームページ「イバイチの奥の細道漫遊紀行」をアップし、更に2009年11月に奥の細道以外の紀行文も含めた「イバイチの旅のつれづれ」のホームページを作ったので4回目の変更になる。

 もっともブログ「奥の細道漫遊紀行」もホームページ「イバイチの奥の細道漫遊紀行」もそのまま生きているので、何が変更だと言われるかもしれないが、今回は「イバイチの旅のつれづれ」のトップページを大幅に作り直し、多方面に広がった紀行文をまとめ直して、マウスオーバーという手法で画像を入れ替えるようにした。

 小生が参考にしているホームページに「巣林一枝」(http://www.sourinisshi.jp/)というものがある。アクセス回数が2,839,000回という驚異的な数字だが、そのトップページがスマートで是非読んでみたいと思わせるのである。そのようにうまくは出来ないが少しでも近づけたいと思って改訂してみた。まだまだうまくは行かないが、おいおい直したいと思っている。

 小生のブログはニフティのココログに申し込んで「奥の細道漫遊紀行」という名でおくのほそ道をたどった紀行文が始まりである。その後ホームページ形式にしたいと思ってヤフーのジオシティーズでホームページ「イバイチの奥の細道漫遊紀行」を作った。また小生のプロバイダーはプララだったので、そこで「イバイチの旅のつれづれ」のホームページを作り運用していた。

 ところがプララのディスク容量は100MBしか無いため直ぐに満杯になり、ヤフーも300MBがそろそろ一杯になるので、ジオプラスというコースを申し込み1000MBまで容量を増やした。また独自のドメインが使用できるというので、www.ibaichi.comというドメインに変更したのである。

 ニフティは2000MBまで容量があるので十分余裕があるため、今後はブログはニフティで、ホームページはヤフーでの二本立てで進みたい。ニフティはその都度なんでもアップし、ホームページの方でそれを何時でも読めるように項目別に編集し直したいと思っている。

 おかげさまで、ニフティのブログは23,000回近く、ホームページ「イバイチの奥の細道漫遊紀行」は4,000回近く、「イバイチの旅のつれづれ」には1,700回近くのアクセスを頂いている。小生は今年79才。何時まで出来るか判らないが、まだ気力体力ともあまり衰えていないので、楽しく続けていきたいと思っている。

2012年4月16日 (月)

遥かなる山旅の想い出⑤

南アルプス仙丈,甲斐駒登山

  平成24年(2012)から54年前の昭和33(1958)年9月21日~24日に、南アルプスの仙丈ヶ岳,甲斐駒ヶ岳,鳳凰三山縦走を計画した。今回もパートナーが見つからず単独行になった。

Photo  中央本線伊那市駅からバスで高遠を経由して戸台という集落まで行き、そこから歩き始めた。3日前大型台風が過ぎたばかりで、戸台川に架かる7つの丸木橋は全て流されており、河原を歩き流れのへつりを伝って戸台川を遡り、赤河原という開けた場所にある丹渓小屋まで登って来た。しかし小屋には土砂が流れ込み半分くらい埋っていてゆっくり休むことも出来なかった。一息入れてそこから標高差600m近くある八丁坂のつらい登りを過ぎるとやっと北沢峠である。峠付近には時ならぬ湖が木立の中に出現していた。ボーとでも浮かべそうな大きさで物凄い雨量だったのだと驚いた。しかしその割に山は荒れておらず登山道も流されていないようでやや安心した。

 現在は南アルプス林道が出来ていて、長野県側では戸台口から北沢峠まで1時間で行く林道バスがシーズンには1日5往復走っていて歩かずに北沢峠まで行け、今昔の感がある。南アルプス林道は山梨県側では芦安から夜叉神トンネルを通り広河原まで、さらに広河原から北沢峠まで続いているので、白根三山、甲斐駒、仙丈岳登山は格段に楽になっている。

Img_0042  既に夏も過ぎ、樹木が黄色く色付き始めた仙丈ヶ岳へのトラバースの曲がりくねった径を辿ると前方に子牛のような動物が草を食べていた。同行のやはり単独行の人が「あっ!かもしかだ!」と小声で言ったので慌ててカメラの準備を始めたら、その気配でかもしかは振り向いたと思うと飛ぶような速さで急峻な崖を駆け上がっていった。生まれて初めてカモシカを見たがディズニー映画のバンビの細い足をイメージしていたので子牛に似た恰好と太い足には幻滅を感じたが、急な崖をがさがさと駆け上がった脚力とスピードには驚いた。

やがて日のあるうちに宿泊予定の薮沢小屋に着いた。台風の後で番人が山を降りていて居らず、登山者も同行の単独行の人だけだったので広い部屋で気楽にのうのうと過せた。小屋の後側には甲斐駒ヶ岳がその八合目に聳える摩利支天と共に白亜の大理石の岩峯を夕映えに輝かせていた。(写真は甲斐駒をバックに薮沢小屋で)

Img_0045  翌朝は素晴らしい好天になった。夜明け前に千丈ヶ岳に向かい小屋を飛び出す。登るに連れ朝日が山頂を照らし始める中をサブリュックだけで足取りも軽く午前6時頃仙丈ヶ岳山頂(3,033m)に着いた。見渡せば朝日は鳳凰三山の上に輝き東には富士山が首をだし、逆光の中に北岳,間の岳,農鳥岳の白根三山が聳り立つ。(写真は仙丈ヶ岳山頂からの北岳,間の岳)

Img_0043aImg_0044Img_0046  北側には間近に鋸岳から甲斐駒ヶ岳に連なる稜線が朝日を浴びて居り、その先の雲海の上には八ヶ岳の峰々が浮かんで見える。西方遥かには北アルプスが連なり、南には塩見岳,荒川岳から赤石岳,聖岳と続く南ア南部の山並みが見渡せる。何時までもその景観を見て居たかったが、今日中に甲斐駒にも上る予定だったので長居は出来ず、名残惜しく小屋に戻り朝食後すぐ甲斐駒に向かい出発する。(写真は仙丈ヶ岳山頂からの甲斐駒、鋸岳バックに八ヶ岳が見える、塩見,荒川岳方面の山並み)

Img_0041Img_0047Img_0050  前日の登山道を北沢峠まで戻り仙水峠に向かう。ここから見上げる摩利支天の覆いかぶさるような白亜の風貌は素晴らしいものがある。ここから駒津峰へは急な登りである。駒津峰から間近に見る駒本体と摩利支天の真っ白な花崗岩の偉容は壮観である。山の天気は変わり易くすぐガスがかかってきて今朝登った仙丈ヶ岳は見えなくなってしまった。アサヨ峰を隔てた白根三山もやがて隠れてしまいそうだ。(写真は仙丈中腹からの甲斐駒 [右側の鞍部が仙水峠]、ガスに煙る甲斐駒山頂、駒津峰からの白根三山)

Img_0049Img_0048Img_0012  ここから甲斐駒に続く真っ白い花崗岩は崩れて歩きにくく登るのに苦労することおびただしい。甲斐駒ヶ岳山頂(2,967m)にたどり着いた時はガスが切れて暑いくらいの気温だったが、あいにく晴れているのは平野の方で北岳,仙丈方面の展望はきかなかった。暫くの休息の後、仙水峠から北沢峠に戻り北沢長衛小屋に泊まる。(写真は白砂の甲斐駒、甲斐駒山頂付近、山頂の不動明王の社の前で)

 翌日長衛小屋を出て三度仙水峠を通る。ここはそのロマンチックな名前と甲斐駒摩利支天の風貌と共に忘れがたい峠である。天候は急速に悪化し、アサヨ峰から早川尾根を行く頃雨になった。尾根道の縦走路を広河原峠,白鳳峠と黙々と通り過ぎる。夕方近くなると急速に気温が下がってくる。地蔵ヶ岳近くの鳳凰小屋に転げ込み、急いでお湯を沸かして飲んだコーヒーがとてもうまかった。

Img_0051Img_0052_2Img_0053_2Img_0054  翌日、朝4時ごろ起き出し賽の河原で御来光を仰ぐ。今日は天気が良いかと思ったが北岳はガスの中で全然見えずがっかりした。地蔵ヶ岳(2,760m),観音岳(2,870m),薬師岳(2,762m)の鳳凰三山は胡麻の様な白黒の石と砂の混ざり合った径を歩く。僅かにガスの間から地蔵の尖ったオベリスクが見え隠れしている。あまり視界が良くないので南御室小屋でひと休みした後は一瀉千里に夜叉神峠まで降りた。(写真は御来光、観音岳から地蔵岳オベリスクを望む、薬師岳付近の白砂、薬師岳の降り口付近)

2012年4月 1日 (日)

遥かなる山旅の想い出④

 昨年(平成23年)末から今年初めに、昭和30年代に尾瀬、南ア、北アの山旅をした記録をアップしたがその続きである。前回も記したように50年以上前の記録であり、交通事情や登山器具、機材やカメラなどもだいぶ変わっているのでその辺を斟酌して読んで貰いたい。

 何しろ休日は日曜祭日のみ、カメラはデジカメなど無く35ミリ一眼レフで白黒写真、携帯は勿論無く、電車は4等寝台と称して夜行列車の床にごろ寝、山小屋でも米やシェラフ持参の時代である。しかし山頂からの素晴らしい景観は変わる事無く、行き交う人と挨拶し、小人数の時は同行し、ひと時の会話を楽しむ事などは現在の登山ラッシュでは考えられない事かもしれない。とにかく今思いだしても山に居る時は仕事を忘れ、日常から離れた世界に身も心も没入した感じになるのである。

白馬三山から後立山縦走

Img_0002Img_0003Img_0004_3  今(2012)から55年前の昭和32(1957)年7月15日から18日まで初めての北アルプス行きを計画した。それ以前は尾瀬、谷川、八ヶ岳、八甲田、吾妻連峰などの、本格的登山の準備段階の山旅の感じだった。今回は同好の友が見付からず初めての単独行でもある。当時は新宿を23時何分かに発車する中央本線の夜行列車に乗り、夜明けに松本駅に着き、更に大糸線に乗り換え、信濃四ツ谷駅からバスで白馬登山の玄関口の猿倉まで行くのである。

 そこから白馬大雪渓に取り付いて白馬岳目指して登るのだが、写真などにある純白の雪渓を踏みしめて歩くイメージと違って、その年は雪が少なかったため雪渓の幅は狭く黒く汚れていた。前方を見上げると登山する人たちはまるで蟻のように雪渓の中の踏跡を一列になって辿り、その人の列は遥か遠くの尾根道に繋がる曲がり角まで続いていた。(写真は左から大雪渓を登る人々、小雪渓の先の杓子岳、山稜から見下ろす大雪渓)

Img_0005  大雪渓を登りきると、ハクサンイチゲ,シナノキンパイなどの高山植物が華やかに迎えてくれ、やがて白馬山荘に着く。小屋にリュックを置いて白馬山頂(2,990m)に立ったのはもう6時近かった。(写真はハクサンイチゲの群落)

Img_0006Img_0007Img_0008 空は晴れて槍ヶ岳までの北アルプスの主な山がずっと見渡せる。まず眼前には剣岳の鋭峯を中心に立山連峰が聳り立ち、その間の黒部の深い谷は雲海に覆われている。左手には近くに杓子,鑓ヶ岳、そして唐松,五竜,鹿島槍ヶ岳から右にカーブした針の木岳まで続く後立山連峰が連なり、その遥かかなたには槍ヶ岳の特徴ある山容が浮かんでいる。 3千米の山の澄み渡った空気もやがて暮色に包まれ、寒さに身震いしながら小屋に戻った。(写真は白馬山頂からの剣岳、同じく山頂からの黒部の深い谷を隔てた立山連峰(左)と毛勝三山(右)、同じく山頂からの杓子岳,鑓ヶ岳,鹿島槍の眺望)

Img_0001Img_0009Img_0010  翌朝から愈々白馬岳から杓子岳,鑓ヶ岳の白馬三山を振出しに、後立山連峰の縦走である。日本最高地点にある鑓温泉への道を眼下に見ながらやがて天狗の大降りを300mも下り、その名も恐ろしい不帰(かえらず)の嶮に差し掛かる。丁度霧が懸かって薄暗くなった中を緊張しながら曲がりくねった岩場の径を進み、鎖などに縋りながら第一から第三まであるピークを乗り越えると視界が開け、縦走路は大きく迂回し唐松岳(2,696m)への登りにかかる。(写真は白馬鑓ヶ岳への縦走路、白馬鑓山頂からの五竜,鹿島槍,爺ヶ岳方面、不帰の険第1峯)

Img_0011  唐松岳山頂で一息ついていると霧が晴れてきて八方尾根からの登山道が遥か下から続くのが眺められた。唐松小屋の付近から元気のよいヤッホーの掛け声が聞こえてきた。唐松岳から大黒岳を過ぎ遠見尾根からの登山道と合流した所に五竜小屋がある。もう夕刻になり疲れきった足取りで小屋に入った。五竜岳は眼前に大きなごつごつした岩の重なりとして聳え立ち、明日のアルバイトを思わせる。夜、外に出ると満天の星の下、剣岳の鋭い岩稜が黒く溶け込んでいた。(写真は唐松岳山頂からの唐松小屋方面)

Img_0013Img_0012  明くれば上天気、ごつごつした岩肌は朝日に照り映えて黒褐色に輝き、夏山の持つ強烈な匂いを発散させる。時折岩の僅かな隙間から小さい花が顔を覗かせて汗にまみれた気持ちを和やかにしてくれる。五竜岳(2,814m)の頂上に立つと残雪の剣岳に一際長く長次郎雪渓が延びているのが良く見えた。(写真は五竜中腹からの雲海の眺め、五竜山頂からの剣岳)

Img_0015Img_0016_2  行く手には長大な馬鹿尾根を隔てて、双頭の鷲のように2つのピークを持った鹿島槍が偉容を示している。左手の北槍の下は高難度の岩登りで知られる北壁で、そこから吊り尾根で結ばれて最高点の南槍がある。五竜から見た鹿島槍は後立山の盟主としての毅然とした風格のある山容をよく示しており、何時までも見飽きることは無かった。しかしそこに行き着くには深くえぐれた八峯キレツトの難所を通らねばならないのである。(写真は縦走路にある八峯キレツトの先に聳える鹿島槍、五竜岳山頂からの鹿島槍)

 八峯キレツトはアップダウンは多いが特に困難は無く乗り越え、鹿島槍山頂に着く頃にガスがかかってきて、爺ヶ岳から針の木岳に続く稜線が現われては消えるようになった。双耳峰を持つ鹿島槍の北槍(2,842m)から吊り尾根を通って最高点のある南槍(2,889m)に行く時はすっかり乳白色のガスの中で、道筋を示すケルンを頼りにやっと最高点に到達したが何も見えないのは残念だった。

 後立山連峰はこの後爺ヶ岳(2,670m)を経て、針の木岳(2,861m)まで続くのだが、日程と資金の関係で此処から先は最初から諦めて帰ることにしていた。冷池(つべたいけ)小屋から縦走路を離れ、なだらかな径を下った。下るに従い、黒部の渓谷を隔てた剣岳が屏風の様に高くかぶさってくるように見える。やがて樹林帯に入り冷沢を経てバスの終点になっている大谷原まで一気に降りた。五竜小屋からここまでは普通のコースタイムは14時間とのことだが、そこを約11時間で踏破したことになり、先に下山してバスを待っていたグループの人に随分早いと驚かれた思い出がある。

 今回の山行きは後立山縦走というだけあって、毎日黒部の深い谷を隔てて眼前に現れる剣岳を盟主とする立山連峰の印象が強烈である。後日、立山から剣岳に登り仙人池に降りるコースの登山計画を立て、立山に登り別山乗越から剣沢キャンプ場まで行ったのだが、悪天候のため剣岳には登る事が出来ずに室堂から富山に帰ることになってしまった苦い思い出がある。

 今回の山旅でとりわけ印象の深い双耳峯を持つ鹿島槍について、深田久弥は 「きりっとした品の良い美しさは見飽きる事が無い。」 と「日本百名山」で書いている。更に 「美しいといっても、笠ヶ岳のように端正でもなく、薬師のように雄大でもなく、剣岳のように峻烈でもない。そういう有り合わせの形容の見つからない、非通俗的な美しさである。粋でありながら決して軽薄ではない。大ざっぱに山を見る人には見落とされがちな謙遜な存在であるが、 いったんその良さがわかると、もう好きで堪らなくなる、そういう魅力を持った美しい姿である。」 と絶賛しているのは同感である。鹿島槍は何時までも忘れられない山のひとつである。

2012年3月26日 (月)

新緑の奥入瀬から角館へ 3

3.田沢湖

Img_0359  田沢湖高原から田沢湖に行く。辰子像と湖と秋田駒ヶ岳を眺める。朝早いせいか人影は見られず静寂そのものである。田沢湖は水深423メートルで日本一の深さがあり、以前は摩周湖に次ぐ透明度があったが、玉川温泉からの強酸性の水を導入したためクニマスをはじめとした魚類はほとんど死滅してしまった。そのため石灰石などで中和対策を行っているのだそうである。

 秋田の十和田湖、八郎潟、田沢湖に関係する3湖伝説という壮大な物語がある。まず十和田湖については八郎太郎という若者が居たが、ある時、仲間の分のイワナを食べてしまったことで、のどの渇きが止められずに33日も川の水を飲み続けた結果、33尺の龍になってしまった。そのため八郎太郎は十和田山頂に湖を造り、そこの主になった。その後南祖坊という修験者が神託を得て、十和田湖に来て八郎太郎と7日7晩戦ってそれを破り、十和田湖の主として十和田神社に祀られることになった。

 十和田湖を追い出された八郎太郎は日本海付近まで逃げてきたが、恩荷島(今の男鹿半島)と陸をつないで大きな湖をつくることを神に祈願してその許しを得、ニワトリが鳴く声を合図に大地震と大洪水を起こし、それをもとに八郎潟を造り上げその主となった。

 田沢湖では辰子という美しい娘がその美貌を保ちたいと観音菩薩に百日の願掛けをし、お告げにより山奥の泉の水を飲んだが、いくら飲んでものどの渇きは収まらず、がぶがぶ飲んでいるうちにいつの間にか龍に変わって行き、田沢湖の主になった。彫刻家船越保武はその辰子の伝説をもとに黄金色のたつこ像を造ったのである。

 その後八郎潟の八郎太郎は、いつしか辰子に惹かれ田沢湖へ毎冬通うようになった。
辰子もその想いを受け入れたが、十和田湖の南祖坊も辰子に惹かれ、ある冬田沢湖で辰子を巡って再度激しく戦った結果、今度は八郎太郎が勝ちを収め、南祖坊を十和田湖に追い返した。それ以来八郎太郎は冬になる度、辰子と共に田沢湖に暮らすようになり、主が半年の間居なくなる八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったのだという。

 それが3湖伝説のあらすじだが、秋田県にまつわる三つの湖に住む人たちの交流があったのか、先住民と新しい支配者との抗争なのか、八郎太郎と辰子は水を大量に飲んで龍になった共通点があるのは何故かなど想像力を刺激し、ロマンを掻き立てられる話である。

Img_0002Img_0020  たつこ像の近くに浮木神社(漢槎宮〈かんさぐう〉とも云われる)がある。流れついた浮木を祭ったものといわれている。神社は湖の中に張り出すように建てられている。案内看板によれば、この神社を潟尻明神ともいい、1769年、秋田藩士益戸滄洲(そうしゅう)によって漢槎宮と命名されたことから、この田沢湖のことを漢槎湖あるいはただ槎湖と呼ぶようになったとある。漢槎宮(かんさぐう)の意味はよく解からない。神社の脇に置かれた小さな石灯籠と秋田駒ヶ岳の取り合わせもなかなか良い。

4.角館

Img_0009Img_0012_2Img_0014Img_0015  次に角館に行く。みちのく三大桜名所として弘前城、北上展勝地と共に角館のしだれ桜は有名だが、武家屋敷など藩政時代の建物が多く残されているため、重要伝統的建築物群保存地区に選定され、みちのくの小京都として桜以外の季節でも観光客が多い。しかし桜の頃の様な雑踏は無い。しだれ桜はすっかり緑の葉に覆われてしっとりと落ち着いて見える。黒板塀の武家屋敷街を歩いて公開されている青柳家に入る。

Img_0367Img_0364Img_0365    青柳家は立派な格式のある薬医門を入ると正面に母屋があるが、それ以外に3千坪の邸内に武器倉、武家道具館、青柳庵、秋田郷土館、ハイカラ館などの建物があり、それぞれ展示室や食事室などに使用されている。またそれ以外に小野田直武像という石製の胸像があり、またその事績を描いた挿絵が展示されていた。

0381  小野田直武は平賀源内に師事して西洋の陰影による画法を学び、それを日本画に応用した秋田蘭画を完成させた人物だが、32歳の若さで亡くなっている。青柳家とは婚姻関係にあったと云われる。彼が25才で江戸勤務の時、源内の推薦で杉田玄白が「ターヘル・アナトミア」を「解體新書」として翻訳した時にその挿絵を描いた。その「ターヘル・アナトミア」と「解體新書」の初版本が青柳家のハイカラ館に展示されている。
 

4.小岩井農場

Img_0376a  角館から国道46号線を盛岡に戻る。途中小岩井農場に立ち寄り、この年(平成19年)放送のNHK朝ドラ「どんと晴れ」で有名になった一本桜を見た。桜の季節は終わったのであまり見る人はいなかったが、桜の頃は駐車場に入り切れないほどだったという。花は無かったが、岩手山をバックにした一本桜は山に負けない存在感があった。

Img_0380Img_0379   小岩井農場の名は、共同創始者の小野義真(日本鉄道会社副社長)、岩崎彌之助(三菱社社長)、井上勝(鉄道庁長官)の頭文字から名付けられた。天気も良く、まきば園は大勢の家族連れや遠足の小中学生などで賑やかだった。花も黄色い絨毯を敷き詰めたような満開の菜の花畑やこれも見ごろのチューリップなどが沢山咲いていた。

 夕方4時に盛岡駅に戻りレンタカーを返却して新幹線に乗り帰宅の途に就いた。レンタカーのホンダフィットの走行距離は424kmだった。今回は主目的だった奥入瀬の新緑が充分に堪能できたのが最大の収穫だったが、他にもゴールデン明けのせいもあって温泉宿は2泊とも宿泊客が殆んど居らず、行楽地も混み合うこと無く、のんびりゆっくり過ごせたのも良かった。天候にも恵まれて残雪の山々や遠くの景色も見渡せ、快適なドライブも楽しめた。角館では殆んど世に知られていない小野田直武という画家の事跡を学んだりして、全体としても大いに満足できる旅だった。

 〈この章終り)

2012年3月22日 (木)

新緑の奥入瀬から角館へ 2

2.十和田湖

Img_0335  銚子大滝を過ぎると間もなく、十和田湖の水が奥入瀬川に流れ出る子ノ口に着く。ここから観光船が湖畔で一番賑わう休屋まで運行している。子ノ口付近は明るく開けていて遅い桜が咲いており、地面はタンポポの花盛りだった。十和田湖は御承知のように魚が居ない湖だったが、和井内貞行によるヒメマスの養殖と放流が成功し、現在ではヒメマスとワカサギが十和田湖の名産になっている。

Img_0342Img_0339 子ノ口から国道103号線を休屋方面に外輪山を登ると十和田湖の御倉半島と中山半島という二つの半島の間の高台にある猿子崎俯湖台に出る。十和田湖の南側の部分はこの二つの半島によって分けられ、御倉半島の右側の子ノ口方面を東湖、中山半島の左側の休屋方面を西湖、二つの半島の間を中湖と呼ぶらしいが、湖を見下ろすビューポイントではここからの景観が一番良いと言われ、ポスターなどにも多く使われている。見下ろすと観光船が走っていた。(写真は俯湖台からの中山半島方面を走る観光船及び御倉半島方面)

Photo

 次に十和田湖観光の中心地である休屋に行き、そばなどの昼食を食べる。高村光太郎の乙女の像には大分歩かなくてはいけないので、割愛してウイキペデイアの写真を使わせてもらった。ここも観光客はあまり居らず閑散とした景色が広がる。(写真はウイキペデイアの画像を編集転載した)

Img_0006Img_0347  国道103号線は湖畔から離れて坂道を登り発荷峠に出る。ここには発荷峠展望台があり十和田湖が一望できる。暫く眺望を楽しんだ後、十和田湖に別れを告げ、国道103号線から県道2号線(通称樹海ライン)に入って樹海ライン名の通り林の中を走る。やがて東北自動車道の小坂ICに着く。そこから高速道路を鹿角八幡平ICまで行き、国道341号線を田沢湖方面に下った。(写真は発荷峠展望台からの十和田湖の景観)

Img_0007_2Img_0002  国道46号線に出る少し前に田沢湖方面と田沢湖高原方面に向かう十字路があり、左折して田沢湖高原に向かう。45年前の昭和42年(1967)に妻と二人でテントを背負って5泊6日の行程で乳頭山から秋田駒ヶ岳に登ったことがあったが、その3年後の昭和45年に噴火し、山の形状が大きく変わってしまっていた。

  現在は8合目まで車で上がれるらしいが6月から10月まではマイカー規制があり、田沢湖高原駐車場で定期バスに乗り換えて登るようになっている。8合目からは、約1時間歩けば山頂まで行ける手軽な山になっているそうである。高原道路から振り返ると、遥か下に田沢湖が銀色に光って見える。(写真は田沢湖高原から見上げた秋田駒ヶ岳と田沢湖)

Img_0024  秋田駒ヶ岳の登り口にあるのが田沢湖高原温泉郷で、更に奥に行くと乳頭温泉郷がある。そこには国民休暇村があるが、何時も混んでいてなかなか予約が取れない。今回も満員だったので田沢湖高原温泉郷の「ロッジアイリス」という宿が、前澤牛のすき焼きを出してくれるというのでそこに予約した。ロッジというので山小屋風のホテルかと思ったが、木の香りのする新築したばかりの新館で、畳敷きの普通の旅館風の部屋だが窓はさすがに全部二重窓になっている。

Img_0356Img_0357  宿の人に「お客さん今夜は貸し切りですよ」と言われた。広い宿だが他に一組の客もいないのである。いくらなんでも閑散とし過ぎていると思い、心配になって「何時もこうなの?」と聞いたらゴールデンウイークが終わり、6月からの登山シーズンになる前の5月下旬は少ないがそれ以外は結構多いと聞いて、ひとごとながら安心した。

青森ヒバの広い内湯も露天風呂も勿論他のお客は居らず、のんびりゆっくり入れた。前澤牛のすき焼きも、とろけるように柔らかく美味しかった。宿の敷地は広大なブナ林の中にあり、散策路が整備されていて、朝晩には快適な散歩も楽しめる。翌朝散策していると、前方に賑やかな女性の声がするので近づいてみると、他の宿に泊ったらしい韓国からの観光客の集団だった。

(以下次号)

2012年3月18日 (日)

新緑の奥入瀬から角館へ 1

 今年(平成24年)は春が遅い。水戸の偕楽園の梅も3月17日現在、まだ4分咲きで例年より1カ月近く遅れている。福島県三春町のように梅、桃、桜が同時に咲いているのが見られるかもしれない。

 しかし春の彼岸が過ぎれば桜前線も北上して来て、東北も旅行シーズンに入る。昨年は青森県下北から岩手県花巻の旅をした。震災の影響で観光客は少なかった。一昨年は青森から津軽方面に冬と桜の頃の2回訪問した。今年は福島会津方面や岩手三陸辺りに行きたいと思っている。「頑張ろう東北」のささやかな一助としたい。

 今回のブログは平成19年の旅の回顧である。秋の奥入瀬はツアー客で混み合うが、新緑の頃は空いていて、のんびりゆっくりの旅情満喫の旅であった。

     **********************************************************

新緑の奥入瀬から角館へ(平成19年5月21日~5月23日 2泊3日の旅)

1.八幡平

 JR東日本の鉄道全線と函館まで一日乗り放題の乗車券と自由席特急券及び普通指定4回がセットになって6千円の「JR東日本乗り放題パス」という期間限定の商品がある。そのパスを利用して平成19年5月に新幹線で盛岡迄行き、レンタカーで八幡平から新緑の奥入瀬を見に行く計画を立てた。さらに十和田湖から樹海ラインという道をたどり、南下して田沢湖から角館を訪れ、小岩井農場を経由して盛岡に戻ることにした。

Img_0278Img_0277   水戸を朝7時に出て特急「ひたち」で上野まで行き、東北新幹線「はやて」で盛岡に11時20分に着いた。早速レンタカーのホンダフィットに乗り込み出発する。レンタカー料金は48時間で1万3千円である。盛岡ICから高速道に入り、岩手山SAで盛岡冷麺を食べる。麺が随分固くて食べるのに苦労するほどだ。石川啄木の 「故郷の山に向ひていふ事なし 故郷の山は有がたきかな」 の歌碑が岩手山を眺められる場所に建てられていた。

Img_0279Img_0282Img_0283  松尾八幡平ICで降りる。岩手山の眺めもだいぶ変わってきた。5月下旬になれば桜もだいぶ前に終わって、新緑の芽吹きが見られる頃と思っていたのだが、岩木山は未だ雪がいっぱい残っている。八幡平展望駐車場近くも雪が多く残っており、八幡平山頂や八幡池への散策も出来ず、間近に見える岩木山などの展望を楽しんだだけで再び東北自動車道に乗り、八戸自動車道から百石道路の下田百石ICで降りた。そこから奥入瀬川に沿った国道45号から102号を遡ると1時間ほどで十和田湖温泉郷に着く。(写真はインターを降りた辺りからの岩手山、八幡平展望駐車場からの岩手山及び鳥海山遠望)

 宿は「野の花 焼山荘」と云うところで温泉は源泉掛け流し、料理とお酒がおいしい宿だった。奥入瀬は紅葉の時期は混み合うが、新緑は見る人が少ないらしい。もっとも事前に問い合わせがあった時、新緑にはまだ早いと言われた。しかし来て見ると想像していたように萌黄色の瑞々しい新緑で良かったのだが、こちらではもう少し若葉が生え揃った頃を新緑と言うのかもしれない。宿もお客は少なく露天風呂も貸し切り状態だった。

2.奥入瀬

 翌朝早速奥入瀬渓流探勝である。紅葉の頃は自家用車ではここから入れずシャトルバスに乗り換えるのだが、今は車の交通量が少ないため、レンタカーでのんびり走れる。また景色が良いところでは少し広い場所があれば一時停車できるので、気が楽だ。

Img_0292Img_0297Img_0298 5キロほど行くと石ヶ戸というポイントがあり、休憩所や駐車場もある。ここから奥入瀬渓流一の景観である「阿修羅の流れ」までは1キロ半くらいだというので、車を置いて歩いて往復することにした。渓流探勝は矢張り歩いて散策するのが一番である。また若葉がまだ小さいので滝を見るには良いと言われたので普段は見過ごしてしまう滝を見つけながら歩くのも良いと思ったためもある。

Img_0032Img_0295Img_0299Img_0316  石ヶ戸とは石の小屋と云う事だそうで、大きな一枚板が屋根の様になっているのでそう言うらしい。この辺りからが渓流の眺めが良いところが続くのである。水量も多く、新緑の木々に映えて人物も緑に染まりそうである。時々つつじの花が咲いていてアクセントをつけている。

Img_0302Img_0035Img_0289Img_0293  川に沿って遊歩道が続いており、川の流れが岩に当って砕ける場所や、川幅が広くゆっくりとした流れになっている所などを眺めながら、時折すれ違う人と挨拶を交わしたりして、のんびり歩く。

Img_0030Img_0011Img_0010 Img_0313  やがて阿修羅の流れのところに来たが、付近には車を止める場所が無く歩いて正解だった。ここは川幅が狭まり、水が飛び跳ねるように急流をなしており、大きな岩を押し流しそうな勢いがある。

Img_0318Img_0321Img_0323Img_0328Img_0326  この辺りから滝が多くなり、高さが25メートルある雲井の滝、対岸にある白布の滝、絹糸のような細い筋が集まったような白糸の滝、9段に流れ落ちる九段の滝、冬は見事な氷柱を造る双白髪(ともしらが)の滝などがあり、銚子大滝の少し手前に豪壮な寒沢の流れなどがある。(写真は左から雲井の滝、白布の滝、白糸の滝、九段の滝、双白髪の滝)

Img_0005Img_0004Img_0333  最後に幅20メートル、高さ7メートルの奥入瀬川本流にかかる銚子大滝が豊富な水量を流れ落としている。この滝は魚止めの滝と云われ、この滝があるため魚が遡上出来ず、明治時代に和井内貞行がヒメマスの放流に成功するまで、十和田湖には魚は生息していなかった。(写真は寒沢の流れと銚子大滝の遠景と近景) 

 銚子大滝を過ぎると若葉と清流に包み込まれた奥入瀬渓流は終わりを告げ、間もなく十和田湖の入口の子ノ口に達する。

(以下次号)

2012年3月 3日 (土)

カナダ メイプル街道 紅葉の旅 6

7.ナイアガラの滝

Img_0071_2  10月9日、第6日目である。ナイアガラの滝を間近に見てその後ナイアガラ・オン・ザ・レイクという町を観光する予定である。
 朝早く起きて7時頃滝に沿った観瀑広場兼道路に写真を撮りに行った。まだ人も殆ど居なくて昼間の喧騒の影も見えず閑散としていたが、朝日も昇っていないうちだったのであまり良い写真にはならなかった。

Img_0075_2Img_0072   ナイアガラの滝は五大湖の中のエリー湖からオンタリオ湖の間にあり、カナダとアメリカとの国境になっている。ナイアガラ・フォールズと複数形で呼ばれるようにナイアガラ川を二つに分けるゴート島を挟んで向かって右側に巾670メートル,高さ54メートルある巨大なカナダ滝、向かって左側に巾260メートル,高さ34メートルと同じく巨大だがカナダ滝からみると数段小さくみえるアメリカ滝がある。

Img_0074Img_0073_2Img_0076_2   朝食後、バスで船着場に行き、雨合羽を貰って「霧の乙女」号という観光船の乗る。アメリカ滝からカナダ滝の滝壷まで行き豪雨のような物凄い飛沫に打たれながら真下から滝を見上げる。岸に上がりカナダ滝の落ち口の間近にあるテーブル・ロックから滝を見下ろし付近を暫らく見物した後、すぐ近くにある高級ホテルのシェラトン・フォールズ・ビュー・ホテルで日本の高校生の修学旅行グループと一緒になり、長い列に並びバイキングの昼食を摂った。

Img_0090Img_0081Img_0080  昼食後、ナイアガラの滝に別れを告げてナイアガラ・オン・ザ・レイクに向かう。滝からレイクに行く道はナイアガラ・パークウェイと言い、大きな花時計のある園芸学校やワール・ループというナイアガラ川が渦を巻きながら直角に方向を変える場所があった。渦巻きを見物するゴンドラが川の上を走っていた。。(写真はナイアガラ・パークの花時計とワール・ループ2景、右側の写真にゴンドラが見える)

Img_0097Img_0082  更に日本と同じような農産物販売所があり、野菜・果物などを売っている所にに立ち寄ったりしながら次の目的地であるワイナリーを訪ねた  この地方はカナダでも有数のワインの産地で、特に高級デザートワインとしてナイアガラ・アイスワインが世界的に有名なのだそうである。これは凍結した葡萄の実を摘んだもので普通のワインから見ると10分の1の量しか採れずワインの宝石と言われているという。有料で小さなグラスに少しだけ試飲させて貰った。(写真は農産物販売所とワイナリー)

Img_0087_2 Img_0084Img_0083Img_0085  ナイアガラ・オン・ザ・レイクはナイアガラ川がオンタリオ湖に注ぐ河口にある街で19世紀の町並みが残っており、通りに花がたくさん植えてあり明るい感じがする。ランドマークの時計塔以外には高い建物は無く、落ち着いた雰囲気がある。出発時に娘に指定されたシリー・オールド・ベア・ショップという店で土産を買った。(写真は街並み風景とオールド・ベア・ショップ)

Img_0086_2Pic00055  夕食はオプションのロブスター料理を食べに、ナイアガラの隣町でナイアガラ地域で最大の都市であるセント・キャサリンズにあるマリーズ・シーフード店に行った。真っ赤なエプロンを着けて、大きなロブスターの殻を店の若い女子従業員にほぐして貰い食べる。旨かった。

8.帰国の途

 10月10日(火)第7日目、いよいよカナダを離れる日である。早朝5時にホテルを出てトロント空港に向かう。今回トラベラーズ・チェックを400カナダドル(約3万円分)と現金110カナダドル(約9千円分)を持参したが、昨日までに殆ど使って残金は40セントだけである。
 トロント空港でお弁当の朝食を摂る。トロント空港発8時15分のUA機でシカゴ空港に9時5分到着したが、時差が1時間あり実際の飛行時間は1時間50分かかっている。ここでも入出国手続きの書類を書かせられる。書き方もその都度添乗員からサンプルを貰ったが結構面倒であり、ヨーロッパのようにパスポートに捺印してもらう方がよっぽど楽だ。シカゴ空港での待ち時間中に、初日に両替したアメリカドルの残金が3ドル弱あったのでマックでパンとジュースを買い、こちらも殆ど残金0に出来た。

 シカゴ空港から11時ちょうど出発の全日空機で成田に向かう。日本との時差は15時間あり、途中日付変更線を通って成田空港には日本時間の翌10月11日14時に無事到着した。実際の飛行時間13時間であるが、ずっと昼間だけのフライトだったせいか、エコノミーの狭い座席では疲れた。

9.エピローグ

 今回の旅ではカナダメイプル街道の素晴らしい紅葉が満喫でき、全体としては好い旅だった。しかしこのような期間限定の旅は時期を外すと不満の残ることになり、平年より早めに紅葉が始まった幸運に感謝しなければいけない。ともあれロレンシャン高原にはあと1~2日ゆっくり滞在したかった。

 ホテルも部屋が広く快適なところが多かった。しかし食事は旨くなかった。カナダは自然の景色が一番のご馳走なのだろう。イースタンタウンシップスはあまり知られていないせいか、静かな農村のたたずまいの集落が多く、時間をかけて散策したい場所だ。ケベック、ナイアガラ・オン・ザ・レイクも町並みに昔の風情があり、落ち着いた雰囲気がある。

 しかし今回のツアーには不満も多かった。まず待ち時間が多い。特に旅の始めのワシントンDCでの4時間以上の無為な乗継時間は折角楽しい旅行をしようと思っている気持ちに水を差すものだった。また観光スポットの事前説明が無く、後から調べ直してこんな所だったのかと再認識したことが多い。2001年以降はこのコースが無くなったのもうなずけるが、コースそのものは素晴らしいと思うので、もう少しきめ細かい運用を考えて復活して貰いたいものだ。

 今回の旅はケベック州が多かったが、ここはフランス語圏内で町の看板もフランス語表示が多い。しかし話し言葉は本場フランスでもあまり通じないそうでケベック方言みたいなところがあるらしい。また植民地時代の英仏戦争の戦跡や記念碑も多く、フランスから植民した人達の想いが強烈に残っているようだ。

 旅の醍醐味は未知のものに出会える驚きと、そこから新しい発見を見出す喜びだろう。終日途切れることも無く続く紅葉の山並みの壮麗さ、石畳が続く小路、湖に映る教会の影。またその場所や古い建築物に込められた想いなど、その場に居合わせなければ実感できないことが多い。今回の旅でもそれを痛感した。

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