2017年7月17日 (月)

5~6月に「奥の細道漫遊紀行2」 にアップした記事

平成29年5月から6月にかけて「奥の細道漫遊紀行2」にアップした記事が4件あります。

下記の通りです。

 平成29年バラ園巡り (1)

② 平成29年バラ園巡り (2)

③ 平成29年バラ園巡り (3)

④ 花畑・菜園便り(5)

ホームぺ-ジのURLへのリンクも入れておきますので、クリックしてご覧ください。

① NEW "平成29年バラ園巡り (1)

 NEW"平成29年バラ園巡り (2)

 NEW "平成29年バラ園巡り (3)

 NEW "花畑・菜園便り(5) 

 昨年6月に長野県茅野市蓼科高原にある御射鹿池(みしゃかいけ)に行った時の写真を示します。この池は日本画家東山魁夷が、一頭の白い馬が緑の木々に覆われた山裾の池畔に現れた光景を描いた「緑響く」という作品のモチーフになった場所として知られています。

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 画面をクリックすると大きくなります。

 

 

 

2017年5月 6日 (土)

3~4月に「奥の細道漫遊紀行2」 にアップした記事

平成29年3月から4月にかけて「奥の細道漫遊紀行2」にアップした記事が5件あります。

下記の通りです。

① 「江戸を造った男」「走狗」を読んで

② 花畑・菜園便り(2)

③ H29年の桜①

④ H29年の桜②

⑤ 花畑・菜園便り(3)

ホームぺ-ジのURLへのリンクも入れておきますので、クリックしてご覧ください。

① NEW 「江戸を造った男」「走狗」を読んで

② NEW 花畑・菜園便り(2) 

③ NEW H29年の桜①

④ NEW H29年の桜②

⑤ NEW 花畑・菜園便り(3)

先日茨城県の常陸太田市の横川温泉という所に行きました。近くに下滝という景勝の地がありましたのでさわやかな新緑に包まれたその写真を示します。

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 以上です。

2017年3月 2日 (木)

1~2月に「奥の細道漫遊紀行2」 にアップした記事

平成29年1月から2月にかけて「奥の細道漫遊紀行2」にアップした記事が6件あります。

下記の通りです。

① 「戦争まで---歴史を決めた交渉と日本の失敗」を読んで

② 「励み場」を読んで

③ 「壁の男」を読んで

④ 花畑・菜園便り(1)

⑤ ホームページのトップページ更新について

⑥ 迎賓館赤坂離宮・目黒雅叙園「百段雛まつり」見学記

ホームぺ-ジのURLへのリンクも入れておきますので、クリックしてご覧ください。

① NEW 「戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗」

② NEW 「励み場

③ NEW 「壁の男

④ NEW 花畑・菜園便り(1) 

⑤ NEW ホームページのトップページ更新について

⑥ NEW 迎賓館赤坂離宮・目黒雅叙園

 以上です。

2016年12月25日 (日)

11~12月に「奥の細道漫遊紀行2」 にアップした記事

11月から12月にかけて「奥の細道漫遊紀行2」にアップした記事が4件あります。

下記の通りです。

①  ’16 水戸市の茨城県歴史館・偕楽園の紅(黄)葉風景

② 白水阿弥陀堂の秋と夏の情景です

③ 「光炎の人(上・下)」を読んで

④ H28年我が家に咲いた花

ホームぺ-ジのURLへのリンクも入れておきますので、興味のある方はクリックしてご覧ください。

① ’16歴史館、偕楽園の秋

② 白水阿弥陀堂の紅葉とハス

③ 光炎の人(上・下)を読んで

④ H28我が家に咲いた花

                          以上です

2016年11月21日 (月)

「奥の細道漫遊紀行2」開始について

ブログ「奥の細道漫遊紀行」は容量が足りなくなったため前号で終了し、以後は「 奥の細道漫遊紀行2 」として新URLに変更して継続します。

新URLは [ http://ibaichi45.cocolog-nifty.com/blog2/ ] です。

奥の細道漫遊紀行2 をクリックすると、新しいURLにつながります。

今までの記事を読まれる方は従来通り 「奥の細道漫遊紀行」 でご覧になれます。

またホームページ 「イバイチの旅のつれづれ 」 URL [ http://www.ibaichi.com/ ] には各項目別にほぼ同じ内容のものを掲載してありますので、そちらもご覧になってください。

            「イバイチ」こと 茨城 一郎

2016年11月 9日 (水)

「北海道さいはての絶景と食の競演4日間」(4)

第3日目後半 納沙布岬-根室駅-厚岸‐釧路

Img_3436Img_3431Img_3432 風連湖・春国岱を過ぎると根室市の市街地が直ぐである。市街地を過ぎて根室半島先端に日本最東端に位置する納沙布岬がある。岬の突端には納沙布岬灯台があり、ここからロシアが占領し実効支配している北方領土歯舞群島の一つである貝殻島までは僅か3.7kmしか離れていない。(写真は納沙布岬の標識、納沙布岬灯台、灯台の下にいる海鵜の群れと貝殻島)

Img_3435_2Img_3437_2Img_3438 貝殻島以外の歯舞群島の島々や国後島の羅臼山や爺爺(ちゃちゃ)岳も指呼の間に眺める事が出来、根室は国境の町と実感できる場所である。(写真は歯舞諸島の萌茂尻島〈手前〉と秋勇留島〈奥〉、国後島の羅臼山、国後島の爺爺岳)


Img_3427Img_3450 近くには「四島(しま)のかけはし」という大きなシンボル像が建てられている。世界平和と北方領土返還を祈念するために創られたもので、その下に「祈りの火」という点火灯があり、返還実現の日まで、近くの北方館の開館時間に合わせて燃え続けている。(写真は四島のかけはし像、解説碑)

Img_3444Img_3439Img_3441_2Img_3440 北方館・望郷の家という建物がある。北方館は目の前に広がる日本古来の領土である島々を望みながら北方領土問題の経緯などの資料を展示し、一日も早い北方領土の返還実現を目指すために開設された。望郷の家はそれに先駆けて北方領土の島々を追われた元島民の心の拠り所として開設され、戦前の島民の生活の状況などの資料を展示してある。この両者は2階が共通のフロアになっており、ここから展望できる北方領土それぞれの島の大きな図形や望遠鏡を備え自由に行き来できる展望室になっている。(写真は北方館・望郷の家、北方領土図形部分3景)

Img_3448Img_3428Img_3429Img_3447  納沙布岬先端付近には北方領土返還を祈る碑などが多く設置されており、北方館に展示してある返還運動経緯の資料などと共に戦後70年になっても解決されない傷跡が残っていることをひしひしと感じさせる場所である。(写真は北方領土返還を祈る碑など4景)

Img_0001Img_0002_2 この旅の初日、「宗谷岬で日本最北端到着証明書」というものを貰ったが、ここ納沙布岬でも「日本本土最東端到達証明書」なるものを貰った。これも「北海道さいはての絶景」の一つとして話のタネになるのだろう。納沙布岬付近には土産物屋も含めて50分ほど滞在した。(写真は「日本最北端到着証明書」と「日本本土最東端到達証明書」)


Img_3453_2Img_3454 納沙布岬から根室市街地に戻る。JR根室本線の根室駅に行く。根室駅から隣の日本最東端の駅である東根室駅まで乗車するのである。日本最北端の駅である稚内駅と同様に最東端の駅に乗降するという趣向である。1日に根室駅を発着する列車の本数も6本と少ない。(写真は根室駅と列車時刻表)

Img_3456Img_3457Img_3458Img_3464 東根室駅には日本最東端の駅の表示がある。無人駅だが、人気があるらしい。駅から国道44号線を釧路に向かって走る。途中風連湖付近では夕焼けがきれいだった。(写真は東根室駅2景、夕暮れの風連湖2景)

Img_3466_2 途中厚岸(あっけし)町の道の駅「厚岸グルメパーク(別名味覚ターミナル・コンキリエ)」のレストランエスカルで牡蠣づくしの夕食を食べる。「かきに合う酒」という名前の酒があったのでそれを飲みながら食べた。美味かった。釧路の宿である「幣舞(ぬさまい)の湯ラピスタ釧路川」というホテルには20時前に着いた。(写真は牡蠣づくしの夕食)

第4日目    釧路-釧路湿原-オンネトー-女満別空港

Img_3469Img_3479 昨夜宿泊した「ラピスタ釧路川」は釧路川に掛かる幣舞(ぬさまい)橋の畔にある。幣舞とはアイヌ語で「ヌサ・オ・マイ」という幣場(ヌサバ--祭祀などの儀式を行う場所)のあるところという意味でこの付近の地名になっていたそうである。この幣舞橋は釧路のシンボルになっており、ヨーロッパ風のデザインと橋上の四基の大理石のオベリスク、更に橋脚上の4人の彫刻家による作品「道東四季の像」があり美しさを兼備していると高く評価されている橋であると、前夜バスガイドから説明を受けたので、早朝、食事前に見に行った。(写真は大理石のオベリスク、と橋名の表示、河口方面からの幣舞橋)

Img_3481Img_3480Img_3471Img_3470 「道東四季の像」は日本初の橋上彫刻だそうで日本を代表する4人の彫刻家の裸婦立像で・春の像 船越保武作「若葉が萌えいずる雪解けの季節」・夏の像 佐藤忠良作「さわやかな風を受けて羽ばたく若々しさ」・秋の像 柳原義達作「迫りくる厳しい冬に立ち向かう精神と緊張感」・冬の像 本郷新作「寒さと冬をはねのけて春を待ち望む心」を表現している。(写真は春、夏、秋、冬の「四季の像」)

Img_3489Img_3474 橋の下の広場には釧路沖地震で被害を受けた釧路市民を激励するために美川憲一が建てた「釧路の夜」の歌碑が置かれている。また釧路川沿いには赤い実を付けたナナカマドが彩りを添えていた。(写真は「釧路の夜」の歌碑、ナナカマドと釧路川)


Img_3501Img_3502Img_3499 8時20分にホテルを出発し釧路湿原の釧路市湿原展望台に向かう。釧路湿原は昭和55年に日本で初めてラムサール条約に登録され、そのあと昭和62年に国立公園に指定されている。釧路湿原は日本の湿原の約60%を占めており、山手線がすっぽり入ってしまう広大な湿原である。湿原の観光は夏季、JR釧網本線を走るノロッコ号や釧路川をカヌーで探勝するのが良いと云う事だが、湿原の周辺地域には多くの展望台があり、それを巡ることによって広大な釧路湿原の全貌が見渡せる。(写真は釧路市湿原展望台付近の看板、釧路市湿原展望台~4階が展望台だが有料、遊歩道入口付近)

Img_3497Img_3496_2Img_3491Img_3493 今回はそれらの展望台の中で、釧路市湿原展望台から木道を通って、はばたき広場を通り1.1km離れた北斗展望台(サテライト展望台)まで行った。展望台からは広大な湿原の一部を眺められたが、秋も深まり湿原の緑は枯れた茶色に変っており、川の流れも見当たらないので、湿原というより広々とした草原を眺めている様な感じだった。(写真は遊歩道の途中にあるはばたき広場、北斗〈サテライト〉展望台、北斗展望台からの釧路湿原3景)

Img_3503Img_3508Img_1 釧路市湿原展望台から国道240号線(通称まりも国道)に出て、阿寒湖に向けて走る。途中道の駅「阿寒丹頂の里」で停車する。近くに「阿寒国際ツルセンター」があり、丹頂を飼育しているそうだが入場料が必要であり、見学時間もないため割愛した。
 この付近は丹頂の里と云うだけあって、丹頂が多く生息しており、バスからもつがいの丹頂や子連れの丹頂が何回か見られたが、一瞬のことで写真には撮れなかった。代わりにウィキメディアから写真を転載する。(写真は道の駅「阿寒丹頂の里」、阿寒国際ツルセンター、丹頂〈ウィキメディアから写真〉)

Img_3511Img_3517Img_3516 やがて阿寒湖の脇を通ったが、阿寒湖は林の陰で見る事は出来ず、そのままオンネトーに行く。オンネトーは北海道三大秘湖の一つとされている小さな湖でアイヌ語の「年老いた沼」または「大きな沼」という意味だそうである。湖の先に雌阿寒岳と阿寒富士が眺められ風光明美な場所である。以前(平成10年)、阿寒湖周辺を旅した時以来2度目の訪問である。(写真はオンネトー3景)

Img_3522Img_3523_2Img_3527 湖岸の林は色付いており、今回の旅の最後に紅葉に巡り合えた。普段は静かで幽玄な雰囲気が漂う湖畔で、日がさせば湖面の色が五色に変るといわれるが、眺める場所はあまり広くなく、湖岸を散策するスペースもないので今回は観光客が多く、のんびりできないのが残念だった。(写真はオンネトーの紅葉風景3景)

 Img_3534Img_3535Img_3537オンネトーを後にして、通称釧北国道と呼び名を変えた国道240号線を女満別空港方面に向かって走る。途中道の駅「あいおい」に立ち寄る。
 ここは旧相生線北見相生駅跡に設置され、当時の駅舎を展示館とし、鉄道車両を宿泊できるようにし、相生鉄道公園として活用している。駅舎の前にある木々が紅葉し、白樺の白い幹も照り映えて綺麗だった。(写真は道の駅「あいおい」の相生鉄道公園3景)

Img_3541Img_3540Img_3543 美幌から国道39号線に入り13時30分に女満別空港に到着した。時間があるので、バスの中で配られた「たらば寿司」という弁当をゆっくりと食べ土産を買う。稚内空港に到着した時は全日空のボーイング767―300という機種だったが女満別空港発は日本航空の同じくボーイング767―300で女満別空港発時刻が予定より15分遅れて15時丁度。羽田空港到着が17時丁度だった。(写真は女満別空港、昼食のたらば寿司、乗機する日航機)

 今回の旅で第一に感じた事はオホーツク海沿岸は北海道のなかでも人口が少ない過疎地帯なのだということである。鉄道は無く国道を走る車が少なく市街地を除くと対向車には半日で数台しか逢わず人家も少ない。また鉄道の終着駅でも最北の駅稚内発着は一日の列車本数は特急3本、普通3本で最東の根室駅は快速1本普通5本で同じく6本であり、経営が成り立たないのではないかと思わせる。産業は牧畜と漁業、観光が3本柱だと思うが、今後はTPPなどもあるので、なかなか厳しいのではないだろうか。

 第二は北方領土や樺太を間近に望みロシアとの間の国境を意識している地域だということである。戦後70年経ち未だ平和条約が締結されていない状況が何時まで続くのだろうか。今回のテーマの一つである「さいはての絶景」の宗谷岬、納沙布岬で感じたことである。
 もう一つのテーマ「食の競演」ではタラバ・ズワイカニを初めとしてホタテ、イクラ、カキなどの北の海の幸を沢山食べられたことには満足した。

 (この項終わり)

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2016年11月 2日 (水)

「北海道さいはての絶景と食の競演4日間」(3)

第3日目前半 知床一湖-標津北方領土館-風連湖

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 前日夜半、風雨が激しく眠れなかった人も多かったようだ。今日は知床五湖のうち一湖に行き、その後知床峠を経て知床半島を横断し、羅臼から標津に行く予定だったが、バスに乗ると、添乗員から昨夜の雨で知床峠は降雪のため通行止めになったのでウトロから斜里に戻り国道244号線を通って標津に行く様に変更すると告げられた。(写真はホテル知床を出発する人々)

 斜里町で国道244号線と別れて知床半島に向かう国道334号線は知床横断道路と呼ばれ、ウトロから知床半島中央部を横断し羅臼に降り、標津に続く唯一の車道である。途中にある知床峠は横断道路の最高点であり、羅臼岳(1662m)の中腹にあるハイマツ地帯で、眼前に羅臼岳、根室海峡の上には国後(くなしり)島が浮かぶ姿が見られる場所だと云う事で、期待していたのだったが残念だった。

Img_3396Img_3393 バスは朝、小雨の中を知床五湖に向かい出発する。途中から国道334号線と別れて知床公園線(道道93号)に入る。エゾシカが道路の近くに居た。遥か下方の渓谷にはヒグマの姿も見られるそうである。(写真は道路沿いのエゾシカ、渓谷にヒグマがいるというが見付けられなかった)

Img_3392_3Img_3391_2 知床五湖探勝の入り口であるフィールドハウスに着く。ここから知床一湖まで高架木道が設置されており、全長約800mあり往復約40分である。段差が無く傾斜も緩やかなので車いすでも通行できるという。また知床五湖全部回るには地上遊歩道があり、約3km、1時間半かかるということであるが今回は高架木道を往復するスケジュールである。(写真は高架木道の入口付近、高架木道の案内板)

Img_3388Img_3377 木道入口から知床一湖に向かう。幸い雨は上がったが風が強く寒い日で、長袖シャツの上に厚手のセーターを着、その上にアウタージャケットを着たのだがそれでも寒いくらいだった。帽子もかぶったのだが、吹き飛ばされそうで早々に脱いだ。振り向けば知床連山には昨夜降ったと思われる積雪が白く残っており、これでは知床峠は越えられないなと思った。(写真は木道からの一湖遠望、白い積雪が見える知床連山)

Img_3389Img_3386Img_3385_3 高架木道には3ヶ所の展望台があり、晴れていれば知床連山やオホーツク海が見渡せる。知床連山という展望台から連山を眺めたが、あいにくの曇り空で連山は裾野しかは見えなかった。木道を更に進むと一瞬の間、雲が切れてオホーツク海を観る事が出来た。(写真は知床連山展望台、木道とオホーツク海遠望、熊笹の先の一湖)

Img_3379Img_3381Img_3384 熊笹の先にある一湖を眺めながら進むと終点の知床五湖展望台に着く。展望台には知床連山の名前を記した表示板があり、湖に映る連山と対比してゆっくり眺められるというのだが、強風で時折雨交じりの寒い天候では早々に引き揚げざるを得なかった。(写真は知床五湖展望台、知床連山名の表示板と一湖、知床五湖展望台と一湖)

Img_3397_2 知床公園線を戻る。知床横断道路(国道334号線)との分岐点の少し知床峠方面に入った先には通行止めの表示がしてあった。残念だが国道334号線をウトロに戻り、「ウトロ・シリエトク」という道の駅で小休止し、その後斜里に戻り、国道244号線を標津に行くことになった。(写真は帰路の車中から眺めたオホーツク海とウトロの街並み)

 これより少し前の知床五湖に行く途中で、カメラをリュックから取り出す時に予備の電池が見当たらず少し考えたが、昨夜ホテルで充電したままだったことに気がついた。最初の予定では知床五湖から知床峠を経由して羅臼に行く予定だったが、知床峠が通行止めになったので、ウトロに戻った時ホテルに立ち寄れないか添乗員に尋ねた。しかし時間が決められているので、ホテルには廻れないのでホテルから家の方に送って貰ってくれと言われた。

そんなに時間の余裕が無い筈は無いと思ったが、取り敢えず品物があるかどうか確認するため携帯電話が通じる知床五湖のフィールドハウス駐車場のバスからホテルのフロントに電話をした。その後バスが発車したのでウトロまで携帯は通じず、道の駅「ウトロ・シリエトク」についてから改めて携帯電話をした。ホテルのフロントの女子の担当者は電池を見つけて呉れて、道の駅で20分停車して居ると話したら5分位で行けるからと届けてくれた。杓子定規の添乗員の態度と比較しホテルの女子従業員の親切が身に沁みた。

Img_3398 道の駅「ウトロ・シリエトク」のシリエトクとはアイヌ語で大地の突端を表わす言葉で知床の語源でもある。建物は知床番屋をイメージしている。道の駅に隣接して「知床世界遺産センター」がある。知床は2005年に世界遺産に登録されたが、その知床の管理と利用に関する情報発信の拠点として2009年に造られた。(写真は道の駅「ウトロ・シリエトク」)

Img_3403 斜里町から国道334号線に別れを告げて244号線(通称野付国道)を標津(しべつ)町に出る。町役場近くの根室海峡に面した場所に北方領土館という建物がある。北方四島は択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)諸島から成る北方領土であるが、御承知のように未だ返還されていない。(写真は標津町の北方領土館)

Img_3408 ここ標津町は4島のうち最も多く人の住んでいた国後島まで24kmしかない場所にある。択捉島は鳥取県と同じくらいの面積があり、国後島も沖縄本島より面積の広い島であり、4島には昭和20年には1万7千人余の人が住んでいたそうである。この北方領土館は元島民の願いを込めて昭和54年に建設され、島の様子の紹介、返還運動の歴史などが展示されている。北方領土館2階の展望室からは標津漁港と根室海峡越しに国後島が目前に望める。(写真は根室海峡と国後島)

Img_3409 北方領土館の近くにある食事処で鮭のしゃぶしゃぶを食べる。鄙びた町の家族の手作りの感じでイクラの味も良く、ホタテのみそ汁も美味しかった。(写真は鮭のしゃぶしゃぶの昼食)

Img_3410Img_3411Img_3415_2 標津町から日本最大の砂嘴(さし)という28kmにわたり海上に長く突き出たラムサール条約登録湿地である野付半島を持ち、乳牛・肉牛合せて11万頭を超え、牛乳生産量日本一の酪農王国といわれる別海町を走る。(写真は野付湾越しの野付半島、車中からの牧場風景2景)

Img_3420Img_3422Img_3421 別海町からから根室市に入り、釧路から来る根釧道路と呼ばれる国道44号線に乗り換えると白鳥と丹頂鶴で知られた風連湖畔の道の駅「スワン44ねむろ」で駐車する。(写真は風連湖付近3景)

Img_3424Img_3425 風連湖も隣接する春国岱(しゅんくにたい)と共にラムサール条約登録湿地である。
 ラムサール条約とは国際的に重要な湿地帯の生態系を守る目的で、登録された指定地を各種保護法によって保全管理しようというもので、今回の旅行では明日行く予定の日本で初めて登録された「釧路湿原」をはじめ2日目の「クッチャロ湖」、小清水原生花園と道を挟んであった「濤沸湖」、今日通った「野付半島」、「風連湖・春国岱」、明日車窓からの「阿寒湖」と6ヶ所の条約登録地を見る事が出来る。(写真は車中からの春国岱風景2景)

  (以下次号)

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2016年10月21日 (金)

「北海道さいはての絶景と食の競演4日間」(2)


第2日目 猿払-クッチャロ湖-能取岬-オシンコシンの滝-知床ウトロ温泉

Img_3306_3Img_3308_2Img_3316 翌日は、稚内から約400km離れた知床までオホーツク海沿岸を行くので、早朝7時10分に出発した。最初は稚内から網走まで海岸線を走るオホーツクラインと呼ばれる国道238号線では無く、山間部を縦断して猿払村に入りオホーツク海沿岸の道の駅「さるふつ公園」に出る。途中は牧草地帯が続き、牛が草を食む光景が続く。(写真はドーミーインホテルと専用観光バス、牧牛のいる風景2景)

Img_3315_2Img_3317Img_3319  猿払村は稚内市のオホーツク海側にある北海道一面積の大きい村である。この村は漁業と酪農が盛んだが特にホタテは養殖が軌道に乗り、その漁獲量は日本一である。道の駅「さるふつ公園」で一休みしクッチャロ湖に向かう。沿線は相変わらず牧草地と牧舎の風景が続いている。(写真は道の駅「さるふつ公園」2景、牧草地と牧舎の風景)

Img_3323_2Img_3324_2 クッチャロ湖は猿払村の隣の浜頓別町にある白鳥の飛来で有名な湖で毎年2万羽位飛来するそうである。今年はまだ少なく近くには2羽しか居なかったが、近くにある水鳥観察館にある望遠鏡で覗いたら湖の先の方に100羽ほど見えた。クッチャロ湖は日本最北のラムサール条約湿地帯でもある。(写真はクッチャロ湖2景)

Img_3330_2Img_3329Img_3328_3 さらにオホーツク海沿いに南下し御幸(みさき)町を経て雄武(おうむ)町に入る。ここには日の出岬という流氷を眺められる場所があり、ガラス張りの展望台が設置され、暖かい場所で見られるようになっている。その近くにある「ホテル日の出岬」でホタテの刺身、ホタテ御飯、ホタテ汁、ホタテの唐揚げ、ホタテフライなどホタテづくしの「ホタテ御膳」という昼食を食べた。(写真は岬突端にあるガラス張りの展望台[左側]、ホテル日の出岬の入口付近、「ホタテ御膳」)

 

 Img_3333_2Img_3340 さらに南下し、興部(おこっぺ)町、紋別市、湧別町を過ぎ、佐呂間町の道の駅「サロマ湖」で小休止する。道の駅からは木々に遮られてサロマ湖は見えないのが残念だ。サロマ湖は琵琶湖、霞ヶ浦に次いで日本第3番目の大きい湖である。海水と淡水が入り混じる汽水湖では最大の湖である。ホタテやカキの養殖が盛んであり、道の駅ではホタテの浜焼きが名物になっていて人が集まっていた。(写真はサロマ湖の一部、道の駅「サロマ湖」)

Img_3346 サロマ湖を過ぎると網走市に入り、能取湖(のとろこ)を見ながら走る。この湖は日本最大のサンゴ草(アッケシソウ)の群落があり、9月中・下旬には真っ赤に色付くことで有名である。しかし今回は能取岬に直行して能取湖には立ち寄らないとのことで、車窓から撮るだけになってしまった。既に赤茶色になってしまっており、10月では少し遅いのかもしれない。(写真は能取湖のサンゴ草)

Img_3350Img_3352 国道238号線を離れて能取湖畔から能取岬に行く通称「美岬ライン」と呼ばれる道道(北海道なので県道では無い)76号線を行く。美岬トンネルを過ぎると草原があり牛がたくさん居た。能取岬には灯台があるだけで他に家や店は無く、風がびゅうびゅう吹いていた。オホーツク海などを少し写しただけで早々に引き揚げた。ここにも流氷が来るので、冬は流氷見物の特等席になるそうである。(写真は能取岬灯台、能取岬下の断崖)

Img_3355Img_3357_2 オホーツクラインと呼ばれる国道238号線は網走までで、網走からは野付街道という国道244号線になり、網走と釧路を結ぶJR釧網本線と並行してオホーツク海岸すれすれに線路と道路が続いて行く。特にJRの北浜駅は無人駅だが波打ち際まで20mしか無く、流氷が見られる駅として展望台が備えられている。またいろいろな映画やドラマのロケに使われており、駅舎を使用したレストランが人気である。冬期の流氷観測期だけ網走駅と知床斜里駅間を走る「オホーツク流氷ノロッコ号」は北浜駅で10分間停車し流氷が見られるようになっているそうである。(写真は北浜駅の一部2景)

Img_3361 北浜駅の次に原生花園駅がある。オホーツク海と白鳥等の野鳥が飛来することで知られた濤沸湖の間に挟まれた約8kmの細長い小清水原生花園へのアクセス専用駅で、5月から10月まで営業する駅である。小清水原生花園ではエゾスカシユリ、エゾキスゲ、ハマナスなど約40種類の花が咲き乱れ6月から8月にかけて色とりどりの天然の花畑が楽しめるそうである。両駅ともバスの車窓からの写真であまり良く撮れなかった。(写真は原生花園駅の一部)

Img_3364Img_3365Img_3369 斜里町から国道244号線と別れて知床半島に向かう。知床ウトロ温泉に向かう途中オシンコシンの滝を見る。流れが2本になっていることから「双美の滝」ともいわれるという。水量は多く、国道から近いので良く知られている。滝の水は直ぐ下のオホーツク海にそそいでいる。写真はオシンコシンの滝2景、滝の水がオホーツク海に流れ込むところ)

Img_3373 今夜の宿は知床ウトロ温泉「ホテル知床」である。食事は「ズワイガニの足食べ放題バイキング」だったがズワイガニ以外にも北海道の名産が多く出たため、カニの足は2本しか食べられなかった。(写真はバイキングの食事)

 今日走ったオホーツク沿岸は大きな観光地も無く、丘陵や牧草地が連なる地域で、オホーツクラインと呼ばれる国道238号線は、対向車も一時間に数台しかなく、人口も少なく
人家も殆ど無い、北海道の中でも一番最後に開かれた地域である。冬になると流氷が押し寄せ、雪の中で暮らす北限の地であるとの感慨を感じさせる一日だった。

 (以下次号)

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2016年10月17日 (月)

「北海道さいはての絶景と食の競演4日間」(1)

出発まで

平成28年(2016)は、28年間使用していた貸別荘を売却することにしたのでその交渉や手配に手間がかかり、売却する少し前の初夏に山梨・長野方面に2回行ったきりだった。また親戚に配ろうとした本を、原稿書きから製本まで自分で造ったりしたのでとにかく忙しかった。9月になり本造りも終わってひと息ついたところで、またまた旅に出たいという虫が騒ぎだし、昨年は九州に行ったので久し振りに秋の北海道に行こうかと思い立った。

 実は昨年九州に行く時、小生は82才、妻は79才だったのでもう夫婦揃っての遠出は出来ないだろうと考えていた。案の定、足が弱ってきた妻は反対して行かないというので、今回は一人で行くことになった。

Img_0003 最初は羽田空港から稚内空港に飛び、礼文・利尻旅行のツアーを考えたが、日程が合わず、クラブツーリズムの「北海道さいはての絶景と食の競演 4日間」という羽田空港から10月5日出発するツアーに申し込んだ。(写真はツアーのカタログ)

 コースは羽田空港から稚内空港に飛び、オホーツク海の沿道を眺め、知床、釧路を通り女満別空港から羽田に戻る4日間の旅である。「さいはての絶景」とは国内最北端の宗谷岬、最東端の納沙布岬、知床一湖やオンネトーなどの景観であり、「食の競演」はズワイガニ、タラバガニ、鮭、イクラ、牡蠣、ホタテなど普段はなかなか食べられない北海道の海で獲れる名産がたくさん出て来る食事である。

8月~9月にかけて台風7,11,9,10号の4つの台風が北海道を襲い、また9月6日の前線により稚内周辺は50年に一度の大雨で被害も甚大だったと言われて心配したが、予定通り催行されるというので一安心した。また服装は東京では30度近い気温だが道北、道東方面は最低気温10度以下になるというので、セーターと厚手のカッターシャツ、ウインドブレーカーを用意した。

第1日目 稚内-宗谷岬-ノシャップ岬-稚内駅 

Img_3257Img_3259 10月5日朝、日立始発羽田行の直行バスに、水戸大洗ICから乗車し出発する。JR常磐線より安く、モノレールなどへの乗り換えもなくゆっくり座っていけるので便利である。羽田から10時45分発の全日空571稚内行に乗る。ボーイング767―300の機種で270席がほぼ満席だった。日本の最北端にまで行く人も多くいるものだと感心する。曇天だったが雲の上に富士山が眺められた。降りる直前には雲の切れ目から利尻富士も見えた。(写真は機上からの富士山、利尻富士)

Img_3264_4Img_3263 12時35分の定刻に稚内に到着する。添乗員とバスガイドが迎えてくれる。専用の観光バスは緑色の宗谷バスである。まず宗谷市内の「北の味心 竹ちゃん」という食事処でオプションの昼食を食べる。「ホッケちゃんちゃん焼き定食」「ズワイたっぷりカニ丼」各1500円、と「たこしゃぶ定食」「握り寿司セット」各2000円の4種類あったが、迷わず「ズワイたっぷりカニ丼」にする。最初に食べた北海道料理は美味しかった。(写真は「竹ちゃん前の専用観光バス、ズワイたっぷりカニ丼)

Img_3266 食事後「ノシャップ岬」に行く。漢字では「野寒布岬」と書く。根室市にある北海道最東端の「納沙布岬(のさっぷみさき)」と読み方が似ているが、「ノシャップ岬」は宗谷市にある岬である。岬周辺は公園になっていてイルカのモニュメントがある。宗谷海峡をイルカが渡ったとの言伝えに基づいているそうである。(写真はイルカのモニュメント)

Img_3267Img_3268800pxwakkanai_lighrhouse1 ここからは利尻島や礼文島が見える。利尻富士は山頂が少し雲の中だったが、曇天の割には良く見えた。また紅白のツートンカラーの稚内灯台がある。白一色では雪が降った時見分けられないために紅白にしているだそうである。高さは42.7メートルで島根県出雲にある日御碕(ひのみさき)灯台に次いで2番目の高さの灯台である。(写真は利尻富士、礼文島遠景、稚内灯台)

Img_3272Img_3275_5Img_3277 ノシャップ岬から宗谷岬に行く途中、稚内港の北防波堤ドームを見る。1923年(大正12年)に稚内と樺太(現サハリン)の大泊(現コルサコフ)間に稚泊航路が開設され、港も岸壁や防波堤の整備が急がれたが、強風や高波に悩まされ思うように進まなかった。その頃土谷実という26才の若い設計技師が現在のドーム型の防波堤を設計し1936年(昭和11年)に完成し、やがてドーム内にも線路が敷設され樺太に行く乗客は外に出ずに連絡船に乗り込めるようになったのである。1945年(昭和20年)の終戦により稚泊航路は廃止されたが北防波堤ドームは現在でも礼文島や利尻島への航路がある稚内港を強風や荒波から守っている。北防波堤ドーム近くの緑地帯に野生のエゾ鹿が迷い込んでいた。寒くなって山に食べ物が無くなって来ると民家近くまで降りて来るそうである。(写真は説明しているバスガイド、北防波堤ドーム、エゾシカ遠景)

APhoto_2 稚内市街地から国道238号線を宗谷岬に向かう。途中から海岸線を離れて内陸部の宗谷丘陵に向かう。宗谷丘陵は2万年前の氷河期に形成されたと言われる高低差の少ないなだらかな丘陵地帯で、穏やかに波打つ丘陵が広がっており、巨大な風車が57基設置されて国内最大の風車群として稚内の電力使用量の60%を賄っているそうである。また広大な牧場が広がり、3,000頭もの宗谷黒牛が放牧されている。その雄大な景観を眺めながら宗谷岬に向かった。(写真は宗谷丘陵の風車群、宗谷丘陵の一部~ネットの写真を借用)

Img_3279Img_3280Img_3282 丘陵の先端にある急坂を下って行ったところに宗谷岬がある。岬の突端には日本最北端の地の碑がある。中央のNの文字は北(North)を表わしている。樺太(サハリン)までは43kmしか無く、宗谷海峡越しに南端の西能登呂岬が見える。その左側近くに樺太の方を見つめる間宮林蔵の立像がある。(写真は日本最北端の地の碑、樺太遠望、間宮林蔵の立像)

Img_3284 また右側の少し離れた所に船村徹が作曲した「宗谷岬」の音楽碑があり、碑の中央にはめ込まれた黒御影石の板に歌詞と楽譜が刻まれている。また音響装置が備え付けられていてボタンを押すと千葉紘子という歌手が歌う曲が流れるようになっている。話は別だが、今度の旅行の3日前の10月2日にNHKが釧路で収録した「新BS日本のうた・北の名曲特集」という番組で多くの北海道に関する歌が放映された。それを録画しておいたものを旅行から帰って観たが、その中にダ・カーポが歌う「宗谷岬」があった。この歌について、最初北海道の一部でしか知られていなかったが、NHK「みんなのうた」で取り上げる事になり、作曲した船村徹が「この曲はフォークソングを歌っているダ・カーポに合っている」と推薦してヒット曲になり、全国に知られるようになったと紹介しており、行ったばかりの宗谷岬を思い出し感慨も新たに聞き入った。(写真は「宗谷岬」の音楽碑)

Img_3287Img_3288 丘の先端部分と宗谷岬周辺一帯は宗谷岬公園として多くの観光スポットがある。「宗谷岬」の音楽碑の更に東側に柏屋という観光みやげ屋があるが、その店の奥に流氷の塊りや動物の剥製が置かれた部屋があり、気温は-11.9°に設定してあるので冬の北海道を体感できる。(写真は柏屋入口、流氷が置かれた部屋)

1024pxkarafuto_sakhalinisland11024pxsoyamisaki_lighthouse1 宗谷丘陵の先端部分から宗谷岬灯台と海峡を望む。宗谷灯台は日本最北の灯台であり、霧笛を鳴らし、電波を発信して位置を知らせる装置もある。ノシャップ岬の稚内灯台と同様紅白のツートンカラーである。(写真は丘陵の上から宗谷海峡を望む、宗谷岬~ウィキメディアの写真を転用)

Img_3289 宗谷岬から海岸線に沿って国道238号線を稚内市街地に戻る。途中間宮林蔵が樺太に渡った渡樺出港の地の碑を見る。宗谷岬にあった林蔵の立像は以前この地にあったものを移設したのだそうである。林蔵は現在の茨城県伊奈町出身で郷里の御影石(花崗岩)で出来た墓石をこの海岸に建て、探検の決意を示して出発したといわれている。(写真は「渡樺出港の地」碑)

 
Img_3297Img_3292Img_3296 夕方JR宗谷本線の稚内駅に着く。この駅は日本最北の駅である。この駅は平成23年に改装され新しい駅舎になっている。駅舎内の待合室から窓ガラス越しに最北端の線路を示す看板が見られる。丁度特急スーパー宗谷が停車していた。また以前構内にあった日本最北端の線路として使用されていた車止めとレールが日本最北端の線路モニュメントとして以前あった位置に復元されている。(写真は稚内駅、日本最北端の線路看板、日本最北端の線路モニュメント)

Img_3298Img_3295_2Img_3302 列車時刻表を見ると一日7本の発着しか無く、そのうち普通が4本である。そのうちの17時17分発の列車に乗り一駅先の南稚内駅まで乗車した。これはさいはての絶景のひとつとして、日本最北の駅から乗車するという事らしい。南稚内駅は、以前は稚内駅だったがその後樺太に行く船が出る稚内港駅が延伸され、昭和14年から南稚内駅になったそうである。稚内駅より風情のある駅だった。(写真は稚内駅列車時刻表、稚内駅ホーム、南稚内駅)

Img_3304 もう日は暮れて雨交じりの天気の中、バスで稚内駅近くまで戻り稚内副港市場という所にある彩風亭というレストランでイクラ食べ放題、タコしゃぶを含む宗谷海峡御膳という料理を食べた。イクラは美味かった。その後、天然温泉 天北の湯 ドーミーイン稚内に泊まる。(写真は宗谷海峡御膳)

(以下次号)

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2016年9月26日 (月)

「横浜1963」「吹けよ風呼べよ嵐」を読んで

 最近時代小説を書いていた作家が現代小説を書く本が多くなってきているようだ。そのはしりは乙川優三郎の脊梁山脈(平成25年発行)だと思うが、今年になって伊東潤の「横浜1963」(平成28年6月発行)、山本一力の「晩秋の陰画(ネガフィルム)」」(平成28年6月発行)と二人の時代小説作家が描いた現代小説を読んだ。

 両作家の時代小説は多く愛読しており、それぞれに楽しく読ませて貰っているが今回はその後に伊東潤の「吹けよ風呼べよ嵐」(平成28年3月発行)を読んだので、伊東潤の新作2件について述べたい。

Img_3243 伊東潤の本は平成26年に北条早雲の一代記を描いた「黎明に起つ」 が最初で、以後「義烈千秋天狗党西へ」「巨鯨の海」「王になろうとした男」「天地雷同」など7冊読んでおり、初の現代小説である「横浜1963」は8冊目である。

 舞台は1963年(昭和38年)の横浜である。当時進駐していた占領軍人が日本の若い女性を殺害した容疑で、外見はアメリカ人そっくりだが日本国籍で警官であるハーフの男性とアメリカ軍所属の二世で日本人のの容貌を持つ男が真相に迫って行くストーリーである。

 日本の警察が進駐軍の容疑者を捜査する困難さや、アメリカ人らしからぬ外見の二世の軍人と日本人らしからぬ風貌の警察官の生い立ちをからませて物語は進み、それは成功しているが、もう少し強く印象に残る表現でないと読んでいる方には響いて来ず、必然性が一般的な理解に留まってしまっている。

 東京オリンピックの前年で47年前の時代設定であり、ケネディ大統領暗殺、朝鮮戦争などと道具立ては揃っているのだから、人種差別について、より強く心に訴えかける表現に出来ればすばらしい作品になり、作者の考え方もより明確に受け止める事が出来たと思えた。

Img_3241 「吹けよ風呼べよ嵐」は同じ平成28年発行だが、「横浜1963」の3か月前に発行されていた。内容は北長野須坂の国人須田満親が武田信玄に追われ村上義清と共に越後の上杉謙信を頼った。
 その後謙信の信頼を受け、須坂に近い川中島の合戦では知略を傾け謙信を助け、上杉家中で直江兼続に次ぐ大身になるのだが、この本では青年時代から川中島の戦いをクライマックスにした前半生が述べられている。

須田一族はこの時上杉方と武田方に別れ、幼少の頃からともに山野を駆け巡った同族の須田満親と須田信正は敵味方になり、戦いながらも相手のことを想い、満親に嫁いだ信正の妹初乃の切ない想いなどが謀略渦巻く戦いの描写の合間に出てきたりして飽きさせない。また第4次川中島の戦いでは如何にして慎重な信玄を死地に追い込むかの謙信側の策謀が細かく錬られ目が離せない。

 読み終わって満足感と共に今後の満親の動向を続編として読みたいと思わせる本だった。

 伊東潤は2011年から2016年までの六年間に5回直木賞の候補に挙げられており、歴史小説では定評のある作家の仲間入りをしたと思っている。(直木賞候補作品-「城を噛ませた男」「国を蹴った男」「巨鯨の海」「王になろうとした男」「天下人の茶」)

 この本と同じ頃犬飼六岐著の「青藍の峠 幕末疾走録」という本を読んだ。この作者の本は初読みだが、農家の次男坊が大阪の「適塾」を開いている緒方洪庵の許に入門したが、この若者は洪庵の思想を見極めて暗殺するという使命を帯びていた。
 しかし、洪庵の人柄を知るにつけ考えが変わって行く。一方出身地の方では攘夷のために天誅組に加わろうとする動きがあり、それを止めようとするが果たせず、若者に尊王攘夷の考えを教えた青年は天誅組に殉じてしまうというという内容で、話の材料も揃っているのだが、通り一遍の感じで読了して後に残るものが少なかった。

この感じは「横浜1963」の読後感と似ているところがあった。そんな話もあるだろうと思える段階で、深く心に残る部分が少なかったのである。本を読む側としてみれば、この本を読んで良かった。楽しかった。と心の琴線に触れるような内容を期待して本を開くので、通り一遍の知識の羅列では心に響いてこない。その意味で「横浜1963」は掘り下げが物足りなかったのである。

 「吹けよ風呼べよ嵐」は関係の少ない人物や場面も描写するきらいはあるが、主人公の考えがきっちりと描かれており、納得できるストーリーになっているが、作者の初めての現代小説「横浜1963」は、まだまだの感がある。

(この項終り)

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折に触れて(コラム)

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